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海軍兵学校に関して
droyceの回答
- droyce
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No.2 追記です 補足で疑問に感じられた点について、追加します。 参考のリンクの表6を見ていただくと(真ん中あたり) 日露戦争当時の中等教育在学者は、わずかに4.3%になっています。 この表は、小学校を卒業して、そのまま中学校に進学した人の割合と見ていいと思います。 中には、大人になってから中学校に進学する人も、当時は大勢いたのでしょう。 当時の中学校は義務教育ではないので、自分で稼いで勉強したということですね。 そもそも、現在のように、当たり前のように家の近所に中学校がある時代ではないのです。 中学校に通うために下宿が必要だったりすれば、その費用は相当な負担だったと思われます。 それが、昭和10年には39.7%。10倍近い数字です。人口も加速度的に増えており、 明治元年に3400万人だったのが、昭和10年には6900万人と2倍になっています。 とにもかくにも、兵学校を受験したいのならば、まずは中学校に進学しなければなりません。 もちろん、兵学校の受験は16~19歳なら誰でも出来たので、必ずしも中学に行く必要はありませんが、 高校に行かずに東大を受験するような話です。わずかに合格した人もいたようですけど。 兵学校に受かってしまえば学費の問題は解決するものの、そこに辿り着くまでには、 それなりの資金や、家庭環境に大きく左右されたものと考えられ、 やがて、中学に進学するのが、それほど大きな障害とはならなくなった昭和期に入って、 一気に受験戦争が激化したと考えるのが自然だと思います。 当時は、兵学校受験のための名門中学もたくさんあって、合格者数を競い合っていたそうですから、 さながら、昨今の受験事情に近いような情勢だったのかもしれません。 それでいて、前述した65期の卒業生、187名ですよ。 今の東大の入学者が3000人であることを考えると、想像を絶する戦い(?)が繰り広げられたに違いないでしょうね。 試験もこの頃は4日間になっていて、1日目終了後即日採点で足切り。これが、2日目3日目と続くだなんて、ねぇ・・・
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