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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:三度、宿場に関連してのご回答の理解解釈について)

三度、宿場に関連してのご回答の理解解釈について

このQ&Aのポイント
  • 千住宿のこと。商店街の大きな看板はいう宿場通りというのが今の常磐線と東武線の北千住駅から日光街道に入る千住三丁目辺りです。
  • 千住宿の宿場町は主に千住大橋周辺で広がっており、朱引き線や墨線と呼ばれる道路が通っていました。
  • 千住宿は大きな川の隅田川を渡ってお江戸とつながる地域であり、千住河原町が宿場の区切りでした。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.1

こんにちは。 貴兄の庭について、私も私なりに調べてみました。 >>1.私はここ日光街道千住三丁目あたりは宿場通りの跡の道だといっても、実際はその宿場町の最後の地域で合ったろうと存じます。 確かに千住三丁目付近には「千住本陣跡」があります。写真をUPしてみます。やや薄いので見づらいかもしれません。 (1)の箇所です。(北千住三丁目付近)。 そこから北へ荒川に突き当たったところに「名倉医院」(5)があり、ここは古くから接骨医として有名で、明和年間(1764~1771)頃に開業をし、名医だとの評判で江戸やその近郊から駕籠や大八車でくる患者が多く、その付近には治療するために泊まれる宿が幾つかあったようです。 従って、宿場と名倉医院のための宿がだらだらと続き、渾然一体となって宿場町を形成していたようです。 >>2. 堀切、鐘淵あたり  このあたりは仰せのように、町奉行の警察権の範囲の朱引き線内だった。  だから、川の真ん中を境にして、事が起れば与力同心が出張ることがあったが、与力同心の定周りの範囲ではなかった。  そして大店(おおだな)の寮や文人墨客の住まう、同じ墨田区向島もその警察権だけが及んでいて、与力同心は定廻りをする地域ではなかったんですね。 万治元年(1660)隅田川に江戸と下総国を結ぶ「両国橋」が完成をし、下総国の一部を切り取って江戸の町に編入しました。 そして、主に武家地として開発がなされました。 従って、朱引図を作った頃には荒川の真ん中までが江戸の範囲(御府内ではないが)とされたものです。 また、朱引図が示されても、与力同心の見回り範囲としては城を中心とした二里前後の範囲だったのです。

krya1998
質問者

お礼

 度々、有り難う御座います。  中学と高校のあった隅田川と荒川に挟まれた地域は私にはたいへん近しいものです。  更に綾瀬川を越え、中川を越えての新宿あたりまではわたしの何かと訪問するところです。  綾瀬川と荒川、その広大な河川敷は小学生の5年間は私の領地でした。  明確なお言葉がをいただけてはいませんが、私の認識はそれほど外れたものでもなかったようです。    北千住の通りを日光街道にでるあたりは名倉と渾然一体の宿場の続きではあった。  本陣は大名の施設ですね。多少、宿場本体を離れた地域にあって適当なのでしょうね。  しかし宿場本体は、日光街道をもっと上った千住大橋の川原町あたり、やっちゃばのあるところ辺りだったのでしょう。  この理解にたいして、明確なご否定がないので、戴いた朱引き線の通る千住大橋あたりが千住宿の本体だったという認識で(千住三丁目あたりの商店街の大きな看板はそれとして)居ようと存じます。  いろいろ有り難う御座いました。  幾重にお礼申し上げても足りないものです。

その他の回答 (1)

回答No.2

こんなサイトもありました。 http://kkubota.cool.ne.jp/shishuku3.html

krya1998
質問者

お礼

 たいへん面白いサイトですね。今後も何度も参考にできそうです。  有り難う御座います。

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