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頭の中の掃除

概念というのは世界を理解する道具だと思います。 ですから、目的達成から逆算して概念は揃えたいものですが、自我と概念は一体化しており分離し難い。 その状況では、分類すべきか、棚卸しか、いっそ生きるのに影響が少ないものは全廃棄か? お掃除戦略を教えてください。

みんなの回答

noname#156094
noname#156094
回答No.6

>自我と概念は一体化しており分離し難い。 意識における情報の照合に偏向性・限定性が生じている、という事になるのでしょうか。 情報の照合と選択は、感性の働きによる素早いものです。 意識がまだ感性の働きを十分に活用していないようにも思われます。 多くの情報の感性的符号化に成功すれば、自然とそれらの照合と選択も可能になります。 感性というHDの容量は無限です。 情報の概念化では重すぎて遅すぎます。 感性的符号による情報処理ができれば、より多くの情報を扱えると思います。 そのためには、感性の働きを解放するといった、感覚的な捉え方の訓練が必要だと思われます。 注意したいのは、全ての情報を感覚的に処理してしまう事には危険性が伴うことです。 重要な情報は、重要な符号として扱うといった処理の仕方が求められると思います。 自分という一台のSCPをどう使うのかは、自由ですし、ご自身次第です。 そのためには今一度、能力確認の意味も含めて、感覚的な捉え方にチャレンジしてみてください。

  • miko-desi
  • ベストアンサー率19% (69/352)
回答No.5

もうお亡くなりになっていますが、町田貞子さんというプロの専業主婦の方が居られました。 その方は時間も物も心も人生は全て整理である。といいます。 掃除するときはまず比較的「綺麗なところから」はじめるのが合理的であるそう。 汚いところは汚れやすいところでもあり、 そこからはじめると直に汚れて、 後の掃除も影響したりして二度手間になってしまう。

  • wiz0621
  • ベストアンサー率42% (182/430)
回答No.4

まず、法則因とも呼ぶべき、自然科学上のものやあるいは自分を含まない人間社会、 あるいは自分が共通の経験を持っていない集団の性向などは ただ観測によってのみ、その正当性が確認できるわけです。 確認できた法則とその組み合わせによって導かれる概念を合法則性と呼称します。 ですが、結論から原因を探求しようという姿勢もまた、人間社会には存在しています。 これを法則因と同等の目的因として、結果実在面を原因(思考のきっかけ)とみなしたとき にこそ、やはり合目的性は存在するのです。 合法則性は観測者にとって十全に見えても、他律的な視点にかけています。 クルト・ゲーデルの不完全性定理にあるように、単一の公理系で自己の無矛盾は証明できません。 つまり、それが個人の(あるいは集団的な)錯覚で無いとは言えないのです。 また、他律的な制限(問題そのものよりメタフィジクスな制限、例えば時間が 問題で無い場合の時間的制限、空間が問題でない場合の空間的制限) に対応できない欠点があります。 一方で合目的性は自律的な視点である観測が不十分であっても成立してしまう。 これは間違いなく欠点であって、原因が特定できていないなくとも根拠を設定することは ある種の誠実さがなければ、際限の無い不正(合目的性を目的化すること)が可能になるのです。 また最終的には法則因との因果関係、すなわち根拠が薄弱であるのです。 こういった概念では、いずれほころびが出るでしょう。 かつてエマニュエル・カントが示したこの2つの性質は確かに両立が可能であれば 最高の善と呼ぶことができるのかもしれません。(彼は当然、両立を想定しています。) しかし、それが不可能であったらどうでしょうか。 つまり、誤りの無い概念、完全な合法則性と呼びうるものが、 この世界に存在しうるかについては甚だ疑問なのです。 合目的性については、存在自体が仮定(判断力)の上に成り立っている有様です。 法則因の存在が確認できていない、という時点において取りうる行動は何でしょうか。 法則因が存在しないと証明されたわけではない。よって法則因は存在する、という態度を 私は迷信と呼びます。(あるいは宗教的、でも良いのですが) 法則因が確認できた範囲のみ行動する。あるいは行動しない。 これらも一つの正解ではありますが、その作業の遅さを残念ながら人は無能と呼びます。 求められるものは誠実な合目的性だと思うのです。 つまり、一般的に承認が得られる手法を、誤魔化し無く余すことなく踏んでいることを示し、 そこに悪意が無いことを示す。その上で誤りが明確になったら--頭くらいはもちろん下げてから-- 修正すればいいんじゃないでしょうか。

回答No.3

「概念は世界を理解する道具」というより、「世界とは概念の集まり」 というべきです。 なぜなら、「概念は世界を理解する道具」という言葉の裏には、 “概念の集まりとしての認識の向こう側に、独立した物質世界が あって二次的に認識を生じている”という、古典的な素朴唯物論が 先入化しているから。 不確定性原理の相補的不確定性に基づき、原理的絶対確定に 於ける無限不確定性をして、階層現象表面性(=原理的非確定)に 於ける有限な値=存在性の派生(感受(=現在(潜在的認識可能性) =光速)からの自我仮説(記憶(時間の流れ)=過去=超光速)と、 時空仮説(予測(空間的広がり)=未来=光速下)の相補分化)を 可能にしているのです。 即ち、概念とは加算ではなく、我々の目の前にある雑多なものが、 実はシンプル~そして無に還元されるものであると理解するための、 虚構の解体の過程なのです。 それを廃棄してしまえば、その「虚構の現実」の情報の波に飲まれ ます(その実、それは自己が存在するための補完に過ぎないのに)。 「目的達成」など考える必要はありません、星であれ虫であれ、 自分の好きなもの(人間が作った二次的情報を除く)に興味を持ち、 深く知れば、自ずとたどり着く所はひとつです。

回答No.2

やっぱり禅宗で座禅ですかね? 近くのお寺でピシッと警策叩かれて来て下さい。 風通し良くなり、スッキリすると思います。

noname#194289
noname#194289
回答No.1

掃除のアナロジーを使うならば自室の掃除をするとき、原理的には自分は部屋の外にいないとうまくいかないというようなことは参考にならないでしょうか。

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