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回答No.6

 小西行長はご存じですか。知っていたらごめんなさい。  角川日本史辞典から。  生年不明、1600年没。安土桃山時代の武将。キリシタン大名。堺の豪商(たしか薬種商です)小西屋寿徳(小西隆佐)の子。京都の生まれ。幼名弥九郎。備前岡山の商人の養子となり、宇喜多氏に出入りし、父とともにキリシタンとなる。洗礼名、アウグスチン(本によってはアウグスティヌス)。 ここからは、 http://www.page.sannet.ne.jp/kotatu/hyo/itiran/itiran/konisi.htm  から。  宇喜多直家につかえたといわれ、小西屋と秀吉が古くからの知り合いであったため、中国征伐に際した秀吉が、宇喜多直家との使者として行長を使い、その才を買って家来としたとも言う。・・・  以降いろいろな活躍で商人の子から大名へ。朝鮮出兵(侵略)では、加藤清正、黒田長政とともに活躍したが李舜臣ら朝鮮水軍に制海権を握られ、兵力、補給が保てず苦戦した。この折、加藤、黒田らと対立関係になったと言われている。  この時秀吉の怒りも買ったといわれています。秀吉が朝鮮の人々をなんに倒したが知りたいと願い、最初朝鮮の人々の耳をそぐように家臣に命じた。やがては何せよと言い出す始末。小西行長はこれに異論を唱えたと言われ、そのため秀吉の怒りを買い危うく自刀を命じられるところだったといいます。  そんな彼はあえて二度目の出兵にでます。ある時これから攻める村に前もって使者を出し、逃げるように伝えたと言います。朝鮮のある村の人々は「これは罠に違いない」と思いその場にと泊まり、小西は彼らを成敗するしかなかったと言います。そのさい、命は取らない鼻だけが欲しいと言ったとか。  この小西は最後関ヶ原の戦いで西軍(石田三成)につき、破れて殺されたと言います。  いろいろあって、結局最後まで秀吉についていった人でした。 慶長の役も渡海し、秀吉の死によって撤退。島津義弘らと殿軍をつとめた。 秀吉の死後、いわゆる武断派の加藤らと対立し、石田三成に組する。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いでは三成、宇喜多秀家らとともに東軍と闘ったが敗れ、敗走。伊吹山中で里人に身分を明かし、領主、竹中重門に捕われた。 このとき、行長が自刃しなかったのは、キリシタン信者だったからと言われ、これが、石田とともに文治派と称せられた所以であったかもしれない。 10月1日、石田三成、安国寺恵瓊らと京六条河原で首をはねられた。年不詳。

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