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甲斐源氏と武田氏

河内源氏の流れを汲む甲斐源氏は武田氏を中心に甲府盆地に土着、支族を増やし発展していきました。 いつ頃から、武田家は甲斐源氏の代表格として呼ばれるようになったのでしょうか? 本格的な源氏の甲斐入部は八幡太郎義家の弟義光の孫清光の代で、清光の父義清は常陸国那珂郡武田郷に土着し武田を称しています。(士族の名字は地名から取るケースが多い) つまり、武田氏は甲斐所縁の名ではなく、常陸国ということになる? 甲斐へ進出してきた清光は、八ヶ岳山麓の逸見荘を根拠地とし逸見(へみ)氏を称しています。 清光の嫡男光長も逸見氏を継承し、次男信義(双子か?)が武田を称しています。ところが光長の早世により武田信義が家督を相続。(武田が惣領を乗っ取ったようにも見える) 信義の嫡男忠頼も地名から一条を称しています。 こうして見るとこの当時はまだ、必ずしも甲斐源氏の棟梁が武田というわけではないような気がします。

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  • Pinhole-09
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回答No.1

清光の子は大勢おり、信義の時代、甲斐源氏は 逸見、武田、加賀美、安田、平井、河内らの諸氏に 分れていた。 頼朝の挙兵に呼応して、甲斐源氏党も挙兵したが 治承四年十月の富士川の合戦で、武田信義は 夜半に平家軍の背後を奇襲しようとした。 驚いて飛び立った水鳥の羽音に、平家軍は大軍の 来襲と狼狽して敗走した。 この功で武田信義は駿河守護に、安田義定が遠江 守護なり、両者が甲斐源氏のリーダーとなった。 しかし疑い深い頼朝の為、安田義定は建久四年 反逆の企てで殺された。 武田信義の多くの子も一条忠頼が頼朝に謀殺される など消えてただ一人石和信光だけ残り、兄の失脚で 武田信光となって幕府の忠臣となった。  (吾妻鏡) 元弘元年の資料で甲斐守護に武田(石和)三郎正義 とあり、武田が甲斐源氏の棟梁であったことは判るが いつからなったかは不詳である。  もっともこれが安泰ではなく、その後浮き沈みがあった。 甲斐源氏の本流はもともと逸見氏で、強い勢力を持ち 棟梁の座をうかがっていた。 永享十一年逸見有直が誅され、武田信重の権威が 定まった。 後年信縄の時代に武田家の内輪揉めがあったが、 甲斐武田の覇権とは関係ない。

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