暴力団の救援活動が報じられる!考えさせられる二面性とは?

このQ&Aのポイント
  • 東北の被災者に広域暴力団が救援活動を行っていることが報じられ、注目を集めています。暴力団の活動に対し、私たちは複雑な気持ちになるでしょう。心の二面性を考えると、人間の心には善と悪があり、そのバランスは個人差によって異なります。私たちは彼らの善行を受け入れる一方で、彼ら自身も自身の心の向上に努めることが望ましいと考えています。
  • 暴力団の救援活動が注目されています。阪神・淡路大震災の際にも山口組の活動が話題になりましたが、こうした暴力団の善行を理解するのは難しいものです。心の二面性について考えると、人間は善と悪の中間に位置し、個々の心のバランスは異なります。彼らの活動を受け入れる一方で、彼ら自身も自己の心を向上させることが望ましいと言えます。
  • 東北の被災者に広域暴力団が救援活動を行っていることが報じられました。暴力団の活動に対しては複雑な気持ちになることでしょう。心の二面性について考えると、人間の心には善と悪があり、そのバランスは個人差によって異なります。彼らの善行を受け入れつつ、彼ら自身も自己の心を向上させることが望ましいと思います。
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くりからもんもんの方々が救援物質を届けた!

 今回の東北の被災者に、広域暴力団が救援活動を行っており、それが米国のメディアや、スイスの日刊紙に報じられていると、ある週刊誌が載せていました。  阪神・淡路大震災のときも山口組の救援活動が話題になりましたが、こうした暴力団の活動を私は理解できます。  なぜならば心が持つ二面性の現れ、といった受け止め方をしているからです。  心が百パーセント善(全体)ならばそれは神、仏。  百パーセント悪(個)ならばそれは神に対しての悪魔。仏教的には煩悩の塊。  人間はその中間に位置し、図、あるいはグラフのようなものを想定し、向かって右を善、左を悪とした場合、個々の心の中心は個人差によって、図の中心より右寄りの人がいれば左寄りの人もいる。  そのことは生まれるときに選択できないので致し方ないこと。あまんじて受け入れるしかありませんが。  それはともかく、  こうした暴力団の善行を、受け入れる側としては、複雑な気分になるのではないでしょうか。  救援活動を理解できても、受け手としてはためらう気持ちが起きてくるように思います。なぜって、日頃彼らの活動を否定しているわけだから。  でも彼らに対しては、こうした事をきっかけに、少しでも自身の好ましい心に気づき、そしてその心を育てようと努力してほしいと思います。  ☆ こうした思いは、よく云う処の“希望的観測”でしかないのでしょうか。  私は社会派ではないので、いただいた回答へのご返事に自信はありません。拝聴するにとどまるかもしれませんが、それでも良ければご意見など伺わせてください。  よろしくお願いいたします。

質問者が選んだベストアンサー

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  • _AXIS_
  • ベストアンサー率11% (2/17)
回答No.15

追記 まあ、オレもあまり道を極めた方々のことは知りませんがね。堅気に見えるチンピラであればどこにでも歩いてはいますが。

yy8yy8az
質問者

お礼

 おっちょこちょいな私に、愛のこもった回答をいつもありがとうございます。  そう思っているので、ポチを二十個。  これで「口」が止まるかなぁ。  希望的観測ですが。

その他の回答 (13)

  • heartmind
  • ベストアンサー率14% (32/226)
回答No.13

広いとは、先の回答にも書いたように、空間的にも、時間的にも ということと考えていいと思います。 小さなコミュニティーのなかの倫理観があって、 それを取り囲む大きなコミュニティーの倫理観があって、 またそれを取り囲む.........となって、 人類の倫理観。

yy8yy8az
質問者

お礼

 恥ずかしいけど、倫理という事を勉強しなければ、なんて思いました。  ありがとうございました。

回答No.12

困った時は助け合う。 別に、職種や役職など関係ないのでは? 人としてやった事なのだから。

yy8yy8az
質問者

お礼

 彼らの行動を、一般的に使われる「助け合いの精神」からと受け止めることに、少し疑問を感じるので、さらに考えてみようと思います。  ありがとうございました。

  • heartmind
  • ベストアンサー率14% (32/226)
回答No.11

評価されるか、批判されるかという当事者への社会的ご褒美に ついては、とりあえずおいといて、何人かが凍える夜をすごさ ずにすんだという社会的利益を先行させた行動だと思います。 その行動を社長が認めたとすれば、経営者の立場として長期的 な営業費を取り崩したと見たのではないでしょうか。つまり目 の前の利益より、長期ビジョンからみた社会的信用というリソ ースを買ったという理解だと思いますが。 その会社が「結果オーライ」かどうかはまだこれからだと思いま すが、その時灯油を貰えた人にとっては勿論だと思います。

yy8yy8az
質問者

補足

 前回の捕捉質問はちょっとずれたかと思い、言い換えて再度伺いたく思います。    「普通の堅気の人よりも倫理観が少し広い人達」とは?  彼らの倫理観が堅気の人の倫理観よりも広いとは、どういう事なんでしょうか。  ぜひ、伺いたく思うのですが。  よろしくお願いいたします。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.10

>役人の融通性のなさに不満。でも、これは日本人の特性かも。 いえいえ、これは世界共通のことです。役人は自分の保身が全てに最優先するのです。役人は規則通りにやっていれば、どんなに不合理や悲劇が起こっても、自分の身分が危うくなることが決して在りません。だから、世界中の役人は、自分の保身のために徹底的に規則に従うことを最優先させます。そして、規則内で自分の立場に不安がないときのみ、人の役に立つことをやろうとします。これはそのような状況に置かれた者なら誰でもそうなってしまう人間の性ですので、制度上の結果であり、その人の人格には関係ありません。 また、規則は役人が作るものではなく政治家が作るものですから、役人が勝手に規則を無視して善行を行ってしまうと、世の中が混乱してしまい、大局的にはおかしな世界になってしまいます。所謂、三権分立の原則ですね。 ですから、どんな組織にも規則を柔軟に解釈して、時には表向きの規則を破ってもその人の身分が保障されている人が、所謂上層部の人間や指導者として用意されています。もし、役人が余りに杓子定規に動いておかしなことが起こった場合には、批難されるのはそのお役人そのものではなくて、それを指導する上層部の人間です。その緊急時のために、上層部は普段から税金で高い給料を貰っているのですから。 別な言い方をすると、ある意味で上層部の人間は平時のときには何もせずに高給を貰っていれば良いのです。そして、いざとなったときにその高給に見合った仕事をしてくれれば良いのです。もしそれが出来なかったら、その人が平時のときに貰っていた給料の一部を国民に返すのが筋なのですが、上層部に上がれる人間は世事に長けているので、なかなかそうも行かないようですね。 ヤクザだって、役人だって、誰だって、出来るときには人の役に立ちたいと思っているのです。人間て、自分のためではなくて人の役に立ったときにだけ幸福感を味わえることができると言うことを、誰だって知っているからです。それが人情と言うものです。ヤクザは制度上そんな役人のような保身のことを考えていないので、いざとなったときには役人よりも融通が利くのでしょう。

yy8yy8az
質問者

お礼

 “役人”の身になって・・・・・  「こうした立場に立てば、そうせざるを得ないのだ」という言い分も聞こえてきそう。  とは言っても、世界共通であるという説明は私には十分すぎる回答です。  ありがとうございました。

yy8yy8az
質問者

補足

 役人の融通性のなさは、世界共通なんですね!  なるほど。  東洋と西洋では人間の性格が、だいぶ違うようですが、“役人”には同じ傾向が現れる。  という事は、もしかすると、役人に原因があるのではなく“国家としての組織”に原因があるのかも知れない、なんて思いました。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.9

浮気した旦那ががプレゼントを(奥さん、あるいは恋人に)贈った! と同じ自然な心理のように思います。 心理とは原理なので、つまり満たされないものを抱えている人ほど他者を救いたがるということです。 むろん「満たされないもの」の質は多様ですので一概に同一視することは無謀(とは私自身は思っていませんが)かもしれませんが、何もない人々が共感なり同情なりして物資を送る以上の激しい心理がそこには働いているはずと思います。 >☆ こうした思いは、よく云う処の“希望的観測”でしかないのでしょうか。 : いわゆるカタルシスの発散という意味で精神衛生上の効果は大いにあるでしょうね。 しかし、「仕事」をやめるほどの威力はおそらくないでしょう。 それは、坊さんや牧師(というのか神父というのか知りませんが)が自ら食うために人を救うという欺瞞性に気づいたとしても、その職をやめることが難しいのとほぼ似たような理屈だろうと思われます。     

yy8yy8az
質問者

お礼

 カタルシスの発散で終わってしまうのでは、希望的観測も無いんだから、がっかり。    指摘は、当たっているかも。  回答ありがとうございました。

yy8yy8az
質問者

補足

 回答を頂いて今は、ある意味において彼らへの同情の気持ちが起きてきました。

  • heartmind
  • ベストアンサー率14% (32/226)
回答No.8

例えば、ガソリンスタンドの社員が社長のゴーサインもなく 勝手に灯油を困っている人に配った話がありましたが、これ なんかは平常時だったらただ組織の秩序を乱すスタンドプレー な行動としか思われません。しかしこの行動は社内倫理という 狭い範囲の倫理観では良くないかもしれないけど、もうひとつ 外側のくくりの倫理観からみたら、人道的な行動です。 というようなことがいいたかったのですが。

yy8yy8az
質問者

お礼

 上手く表現できませんが、ガソリンスタンドの社員の行動に限って言えば、世間に評価される行為かもしれませんが、結構微妙な“行動”ではないかとも思いました。  “職務”から外れる行為だと思うので、評価されるかもしれませんが、否定されてしまうこともありそう。  もしかすると「結果オーライ」的行為なんだろうか。  回答ありがとうございました。

yy8yy8az
質問者

補足

 いただいた二つの回答をもう少し、吟味してから、感想を述べようと思います。

  • heartmind
  • ベストアンサー率14% (32/226)
回答No.7

仰る通り >心が持つ二面性の現れ だと思います。普通の堅気の人よりも、倫理観が少し広い人達 というのは、それだけ行動の幅も広く柔軟になる可能性がある ということだと思います。 スマトラ沖地震で被災者の方が、津波のすさまじい映像をDVD にして商売をしている光景と少し似ていると思いました。 また、風評被害にあっている農家のキュウリを買い取って、物資 として送っている人もセンスいいなあと思いました。 風と共に去りぬでも草の根かじりながらタラが 「人を騙したり、人の物を盗んだり、人殺しをしなければならな くても、二度と飢えて泣きたくない」 という場面がありましたが、極端な例えだと思いますが、きれい ごとや形骸化した倫理観で飢え死にしたらなんにもならないって いう。私はすごく好きな場面なんですけどね。

yy8yy8az
質問者

補足

 「倫理観が少し広い人達というのは、それだけ行動の幅が広く柔軟いなる可能性がある」  これを具体的に説明していただきたいのですが。  どういう事なのかよく分からないので。  よろしくお願いします。

  • hanniyagi
  • ベストアンサー率15% (14/88)
回答No.6

「かって、同情、ほど罪深きものがあったであろうか?」とニーチェの書にあったようですが。 日本でも「人の不幸は密の味(相対的に自分の幸せ」と言う、言葉=人の心、があり、 ネット上にも。被災の大きさに、よだれ、を落としながら、同情をしている。と見れる投稿、 おしゃべり、もあるようです。 寄付とか、支援、に偽善や思惑はつきもの。でもあるでしょう。 私の知る、その日暮らし、宵越しの銭は持たねえ、主義?の男が。 最近は、外食やコンビニでの買い物の度に、釣りはいらねえ。こっちにと、義援箱、に入れているようです。 彼の弁によると、今回の災害は、被災者生活への援助だけで、国民一人当たり、10万円、てして、 10兆円、数年に渡り必要だ。東電が10兆円は出す。政府は、50兆ぐらいは。紙幣を印刷する、 事になるだろう。 わしは、寄付、とか、支援、などは、出来ないし。する気もない。 しかし、わしも日本人だ。義(自分がやるべき事と、して)援、はする。 コンビニで毎日釣り銭を、100円づつ、入れれば。3年で10万になる。それなら、負担もに感じないし。苦にもならない。 と言っていました。 「いつまで、続くやら。それより、まだ3年も生きているつもりかい。」と言っておきましたが。 義援をするべきであり。義援は名が出ないようにするものです。 やくざからの支援物資、と聞いたら。そんなもの死んでも受け取れるか。と考える人も、多分、大勢 いるのです。何処からの支援とは、被災者には知らせないのが、思いやり、でしょう。

yy8yy8az
質問者

お礼

 「同情は罪」「人の不幸は蜜の味」を同じ味とするならば、それは自己チュウ的味わい。  宵越しの銭は持たねえ、主義の人も“自己チュウ”  なんてことを考えてしまいました。  回答ありがとうございました。

yy8yy8az
質問者

補足

 週刊誌の記事によれば、何処から、とは分からないようにするとの配慮が当事者にあり、また政府からももそうした意向が、当事者に伝えられていたらしい。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.5

日本のヤクザは敗戦直後、困った人たちを救済してできてきた。 困っている人を仲間にして、他の困っている人を助けていたのだそうです。 そうやって人数が増えていって、指揮系統がしっかりした救世軍になったり、弱い人を強い人から守って助けたりしているうち、組みたいな組織になっていったのだそうです。 敗戦後、道路を作る必要があり、困っている人に仕事があると声をかけて引き入れ、生活の糧を得る手段を分け与えて、世話してやっているうち、忠誠心みたいなものがあり、恩義があるからと、組織が他の組織からやられるのを防いだりしてきたのだそうです。 だから、まるっきり社会にとって悪の存在ではなく、弱いものを守ってきたという歴史が日本のヤクザにはあるらしいです。 ということで、日本のヤクザの伝統ですね。

yy8yy8az
質問者

お礼

 とはいっても、弱い者いじめ、をしているという現実もあるのが、残念。

yy8yy8az
質問者

補足

 なるほど。  ありがとうございました。  「仁義なき戦い」をよく見ていた私です。  この映画では、描かれていなかったようですが。  任侠の精神世界は嫌いではないので、こうした伝統が現在の“暴力団”に在ることを好ましく思います。  でも“暴力団”と云われてしまう体質が、残念。  こうした世界、或いは社会を、自分たちで作り上げて生きなければならない人たちに、私は同情の気持ちさえ起きてしまうのです。  社会が受け入れない、或いは社会に受け入れてもらえない性格に生まれてしまった人々に。

  • miko-desi
  • ベストアンサー率19% (69/352)
回答No.4

阪神大震災の時には高級公務員も税金で風俗行ってたりしましたし。 わかりやすい方が堂々と善行するなんて方が倒錯した印象も起きません。 目的と手段が逆転して堅気さんに迷惑をかけてるように映る世の姿。 「弱気を助け強気をくじく」元の任侠道の精神の目的を果たしているのではないですか? 任侠 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%BB%E4%BE%A0

yy8yy8az
質問者

お礼

 “任侠道”を研究して見たくなりました。  もしかすると“自己チュウ”的世界か、なんてことを視野に入れながら。  ありがとうございました。

yy8yy8az
質問者

補足

 暴力団、にも任侠の心が有る。  たぶん、彼らはその心を働かす事が出来ることに、喜びや充実感を感じているのではないかと想像します。

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    私は働き者のおっちゃん。 実在する仮面ライダー。 ドリル番長だ。 こんなのを拾った。ちょっとしたに掲載されている奴だ。 プラトンのただの「イデア」と「善のイデア」 http://okwave.jp/qa/q9218880.html この質問に研究会として回答してもよかったんだが、私自身聞きたいことがあってね。 さて、イデアとは私なりに要約すると観念世界であり、精神が展望する世界観だ。 今回、あえて善のイデアと云う場合の「善」について考察してみよう。 善に関する私の考えは簡潔で、人間は社会活動という形で自らの生存のみでなく、他者を自らと等しく生かす行いや考えを持つ。 この生存のための傾向が広く「善」で、善行として自らの意思で率先して行動する場合の基盤となる本人の感情や動機が「愛」だ。 愛による意思行為が善だといえるだろう。 で、善のイデアと云うといかなることか。 それは生存のイデアであり、言い換えると生きたイデアだ。 意思行為を伴う愛であり、その働きかけが大げさには天啓という直感でもあるだろう。 神の世から精霊が話しかけることもあるという話だ。 まあ、こういうことだと自分で考えたんだが、手慰みで考察したんでね、何か突っ込みを入れてくれ。

  • 真善美のみなもとは 同じひとつであるか?

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第九章 いわゆる真善美について  1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問います。  2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には 善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。  6. では 美はどこに位置づけられるのか?  7. 善と悪とのいづれも相対的な主観真実をたずさえて生きるとき どこに重きを置くか? ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(家族から出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素を採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものがあってそれが起こるのではなく 善(存在ないし生きること)があってそれの損傷行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする、このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔を赤らめ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでない悪かが決まると捉えます。つまり 主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を知性として(つまり 認識した上で言葉に表わし)その主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 共同主観として認められる。主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観とて 絶対的にただしいとは決まりませんが)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり 《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツワリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ規範をも超えてうつくしきものを見たいという美の渇きは必然的なことだと見ます。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたに形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めの真理ないし善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。  30. それは 侵したウソ・イツワリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツワリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が共有され得ます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をすすむ。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその差は 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも 普遍性がある。  38. このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。

  • 真善美のみなもとは 同じひとつであるか?

     1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問いますので 自由なご批判をお寄せください。  2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には――ほかの人の主観真実とのカカハリにおいて―― 問題がないかあるかという問題が生じます。いわゆる善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。あらゆる人の主観真実をすでに超えているはずです。ゆえに真理は 至高の善であるとも言われます。  6. では 美はそれらとどういう関係にあるか? どこに位置しているのか?  7. 善と悪という相対的な価値をあつかう主観真実をたずさえて生きるとき――神ならぬ人間はそのようにしか生きることがかなわないと思われるとき―― 広く善悪観をめぐる主観真実としての何をとうとび 複数の《何》のあいだでいづれの真実に重きを置くか?・・・ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(つまり家族という集まりから出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素をも採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。実際問題として余儀なくされることがあるかと考えられます。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。よりよく生きる以前の《生きる あるいは ともに生きる》にとうとぶべき意味があり これを善と呼ぶこととします。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。善の損傷です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものが存在していてそれが起こるのではなく そうではなく善(存在ないし生きること)があってそれを損傷する行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれの知識としてのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする。このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔が赤らみ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでなくなるところの悪かが決まると捉えます。つまり ワタシの主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を認識した上で言葉に表わし(概念とするなら それなりの知性とし)その知性としての主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 主観が共同化したと考えられる。ワタシの主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観≒常識として成ります。絶対的にただしいとは決まりませんが)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり(わが心にさからっていない であり)  《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  23-1. じつは 実際に具体的には人間が人間どうしの間で当てはめて使うことの出来ない物指しである。しかも 物指しとしては 想定されている。  23-2. それでも想定しておくのは ただただ相対性なる経験世界だけだと言ってしまい見てしまうなら 世の中は 押しなべてのっぺらぼうの世界にしかならないからである。顔がのっぺらぼうだというのは 心において主観真実としての善や悪やを考える意味が無くなる。  23-3. 言いかえると 《相対性》ということは すでに《絶対》なるナゾを想定したことをみづからの概念の内に含んでいる。つまりじつは 相対的な人間の真実は 絶対なる真理をみづからの内に想定済みである。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もがはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツハリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ理念や規範をも超えてなおうつくしきものを見たいという美についての渇きは必然的なことだと見ます。しかも 自然なことであると。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたにいろんな風に形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めに想定されているところの真理ないしわが心にしたがう善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。道草を食ったり脱線したり。  30. それは 侵して来たウソ・イツハリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツハリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。同じ一人のひとでも 歳とともに違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善・超善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が――想定じょう――共有されます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をあゆむ。われに還り わたしがわたしであると成る。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその違いは 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺院としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも大きく広く 普遍性がある。  38. 真善美は 一体である。このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。

  • コインキデンチア・オッポシトールム

     ・ coincidentia oppositorum  ・ coincidence( unity ) of opposites  ・ 対立物の一致(合一・統一)  これは 有るは無いであり 無いは有るだと言い 善は悪であり 悪は善であるというような内容を持つ命題だと思いますが それは 所謂る《神のもとにおいて成り立つ》かも知れないとしても 実際に経験現実と成りましょうか? これが 問いです。  この命題は 調べてみますと すでに古代ギリシャの哲学に現われており インドや道教などにも見られると言います。  中で 次のような情報をこの質問のたたき台を述べるためのたたき台とします。  ▲(ヰキぺ:ニコラウス・クザーヌス) ~~~  ( a ) クザーヌスによれば神の本質は、あらゆる対立の統一=反対者の一致である。  ( b ) 無限の中では極大と極小(神と被造物)が一致する。  ( c ) すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。  ( d ) 中でも人間は自覚的に神を映し出す優れた存在であり、認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ( d )については すでに【Q:ひとは カミの似像である】で問い求めました。《フラクタル構造》を成すのではないかという回答を得て これを一つの結論としました。  ただし  ▲ 認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。  ☆ とは わたくしは 捉えていません。人と神とのあいだには へだたりがあると見ています。  ( c )の前半すなわち《すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも》については ( d )と同じようであり そのとおりだと見ます。ただし 後半の  ▲ それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。  ☆ については 疑問を持ちます。《相互に調和している》のは 神の目から見てであろうと考えますが いまさきほど述べたように《神と人とのあいだには へだたりがある》と見ますので その《調和している状態》を人が見ることはむつかしい。こう考えます。  ですから すでに 《対立物の一致》は 人間にとっては 見ることが出来ないであろうというここでの問いになっています。すなわち  ( b )も《極大と極小(神と被造物)が一致する》のは  ▲ 無限の中では  ☆ ということであり すなわち《神の目から見て》なのだと捉えます。すなわち( a )につながります。    *  たとえば  (α) 坂道は 上りと下りとが互いに対立するかのごとくあるが 道として一致している。  といった説明には従えません。気持ちや能力が上がるのと下がるのとを例に取れば その対立状態にあることをないがしろにすることは出来ません。  (β) 有ると無い あるいは生と死 あるいは善と悪とは 神のもとで互いに違いがない。  と言ってもその《神のもとで》という条件は 人間にはただその想像においてしか分からない。つまり 現実においては 対立しつづけている。     *  あるいは いわゆる弁証法過程として この命題を肯定する場合があります。すなわち  (γ) 対立物の統一なる命題を解く鍵は 時間過程にある。自然の事象をも含めて 人間の社会と歴史は その時間的な行為とその錯綜関係として成る。ゆえに時間が解決する。(縁起共生?)  これは 一般に  (γ‐1)  矛盾する対立物が互いに闘争することをつうじて 新たなより高い次元においてそれぞれが変わった状態となり互いに調和を見い出すということだ。  とすると そういう場合には その中間の過程やそこにおける闘争が 人間にとっての人生であり現実だということになります。果たしてそうか? それ以外に 《和》はないのか?  またもしその  (γ‐2) 《中間の闘争過程》は やがて社会における所謂る格差の問題が適宜に根本的に解決されたなら 対立物の統一がその限りで完全に成った状態が出現する。  といった《いまの闘争の勝利の暁には》というかたちの《統一》理論には 与し得ません。《神の目から見て / 無限のもとで》という条件よりもわるいと考えます。それは 《人間が――つまり ヒトが生物として――変わる》と言っているのであり そのことだけを言っていればまだしも それが必ずや未来には社会全体として実現するといった展望を立てるのは お呼びでありません。仮りにそのことがほんとうだとしても 実際にその芽が出て来て兆しが現われたときに言い始めても遅くはないと考えます。     *  この対立物の一致なる命題は 西田幾太郎にも影響をあたえたようで   (δ) 絶対矛盾的自己同一  という表現として打ち出されたそうです。  このとき ここでは 形而上学として分かるなどとすら言わないで 次のようにたたき台を立てて問います。  (ε) いやいや 有るは有る 無いは無いだ。善はそれとして善であるが 悪は飽くまで悪であり 主観としてだが心の思いや判断としての善なる要素が欠けている。それらの対立する二項は 互いに相容れないのが 現実である。  とです。この問いを自由に大胆におしすすめていただければ さいわいに存じます。よろしくどうぞ。