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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:柳沢出羽守と松平出羽守の両立は武家名乗り?本物は?)

柳沢出羽守と松平出羽守の両立は武家名乗り?本物は?

isaa535の回答

  • isaa535
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回答No.3

ウイキの国司によりますと 安土桃山時代には豊臣秀吉が関白となったことに伴い、国司の称号は武家の地位・権威を示す 武家官位へと変質し、完全に名目だけのものとなった。 江戸幕府成立以降は、大名や旗本、一部の上級陪臣が幕府の許可を得た上で、家格に応じて国司名を 称することが行われた。 しかしこれらの「名乗り」は名目上のものであったため、同時期に複数の人物が同じ国司名を名乗る ことも多かった。 明治維新後、律令制度の廃止とともに国司は廃止された。 とあります。 松平出羽守は代々ですがその他は森川家、米津家も出羽守が多いです。 松平綱近 従四位 1675~1704年 柳沢吉保 従四位 1685~1701年 森川 重信 従五位 1663~1692年 米津政武 従五位  不明~1688年     他にいると思いますが同時期に四人はいました。 出羽守人気の理由はなんですかね? 私が当時大名だったら欲しいのはやはり出羽守です。 源義家が出羽守でした。 松平綱近と柳沢吉保は同位で江戸場内の控えの間が同じ、 森川 重信と米津政武は同位で江戸場内の控えの間が同じですから 当然鉢合わせたことでしょう。 「出羽殿!」 「これはこれは出羽殿!」 となっていたのでしょうね。

thegenus
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。No.5を読んだ上に書いています。 沼津藩の成立は後の話になるのですが、沼津の水野家は代々「出羽守」でした。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BC%E6%B4%A5%E8%97%A9 松江藩の松平。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B1%9F%E8%97%A9 ここでは出雲守も混じっていますが、出羽守に任じられた事がない訳ではありません。どういう基準で出雲守の方で記載したのか疑問ですね。 「出羽守」は、松平出羽守の独占状態ではなく、「松平出羽守」が、松江藩主松平の独占状態である、と把握すべきように思いました。国司名は、同族間の屋号にもなりそうですね。 沼津藩水野家の水野忠成は老中時代の出羽守で呼ばれることが多いそうなのですが、松平出羽守とは居合わせなかったのでしょうかね。 こう見てくると、職務の機能上うんぬんというよりも、職場や同族など、局所的な名簿上の重複を避けていたように思われます。中央集権的ではない良い時代でした。 整理されたご回答ありがとうございます。

thegenus
質問者

補足

回答ありがとうございます。非常に親切なご回答にインスパイアーされます。「私が当時○○だったら」という自由度のあるコメントを渇望しておりました。その内容はセンスを伝授するものだからです。ご親切さなどと共に感謝しています。お礼はのちほど。 基礎知識に乏しい質問者が下調べしていると投稿が遅れるのでいい加減ではありますが、補足します。 「源義家」の言及はツボだと思いました。これは有り難いです。義家はその後、下野守や陸奥守にもなっているようです。しかし「出羽守」は武士の常識として「義家」を連想するものだったのかもしれませんね。この知見は助かりました。 これを発展させると、源氏ではない松平にとって、人気の「出羽守」は源氏コンプレックスだったのかもしれません。 出羽守など、歴代の国司名が一覧で見られたらいいですね。時代は別ですが、宇喜田忠家の長男・あき家(大阪城から千姫を救出した)も出羽守。宇喜田の名字を家康に変えられる(下の名も変わる)。これは武家官位でしょうが、源義家の方は本物。「私がもし」で言及された、この本物の歴史が、名乗りの鍵になりそうです。 ご紹介の米津(よねきつ)政武の父・米津田盛は、承応3年(1654年)従五位下出羽守に叙任、1684年死去。その息子、ご紹介の米津政武は、伊勢守から出羽守になっているようなので、父子で重複がないとすれば、父の死後あたりに始まると想像されます。 冗談を言えば、タモリ(米津田盛)も出羽守。出羽守を検索すると現代では「~では」と話す人が出羽守になるそうです。 控えの間の言及も勉強になりました。こうした序列が既存していた当時、公式の場において武家官位は整理されなければならなかったのですね。柳沢を寵愛してというよりもそうする必要性があったわけです。徳川の武家官位は軍制ということですね。抜擢した民間人を少佐にするようなもんです。 豊臣秀吉は関白です。これは単に律令式の中央集権を復活させただけの話。これは本物なのです。このシステムへの評価は、豊臣の天下が、秀吉一代で終わった事実で簡単に証明できます。軍事力を持った関白がいただけの話で、システムの力はなく、機能していなかったのです。 秀吉は天皇とは良好だったのかもしれませんが、百姓関白はやり過ぎで、公家からは嫌われていたのではないでしょうか。そこに徳川流の武家官位が出来て、253年間、安定した。 徳川の武家官位は最終的に失敗だったと思います。もちろん秀吉とは違い、二百五十年以上機能したのですから成功なのではありますが、大事なのは、武家官位という幕府の空論が、三河武士の精神を消し去ったということです。大御所家康が天下を取ったのは家臣の力であり、秀吉にはそういう家臣がいなかった。みんな裏切って大阪城が燃えたわけです。 生実藩(小弓藩)の森川家も最後は出羽守ではなく、明治政府に恭順します。将軍はじめ、松平の精神がなくなっていては、将軍家は潰れますね。勝海舟も安房守は「あほうの守」みたいだと馬鹿にしていましたね。 私は歴史知識に乏しいですが、結構、分かってきましたよ。 出羽殿が居合わせる話は面白いのです。実際、そういうところを一番知りたいと思いませんか。歴史の正体が、あぶりだされる場面です。ご紹介の米津政武は、1687年5月、寺社奉行、翌年元禄元年1688年、罷免。理由は職務怠慢などとありますが江戸時代の話ですから人間関係でしょう。もしこの時に出羽守だったならば出羽守の悪評があったはずです。その風評被害の方も面白くないですかね。 ご紹介の米津政武は1708年に死去したそうなのですが、出羽守が~1688年というのはそうなのでしょうか。 こういう武家官位の実態はご存知でしたか。やはり○○守は名乗りとしか呼びようがないのでしょうか。官職名や国司名でもいいのでしょうかね。適当なのがないように感じます。言葉の不便さが障害になっていますね。

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