• ベストアンサー

武家の定義ってなに?

公家は朝廷から官位を受けている家ですよね? 武士団の多くも平氏源氏など天皇家の家柄ですよね? 戦国の多くの武将も官位を持ってます。 武家と呼ばれる前の時代は曾我氏も藤原氏も先頭に立って戦をしています。じゃぁなんでわざわざ武士団などという呼び名を付けたんですか?そこの定義みたいなものは有るんでしょうか?誰か教えてください。

  • m4691
  • お礼率65% (31/47)
  • 歴史
  • 回答数5
  • ありがとう数9

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#113190
noname#113190
回答No.4

豊織時代は系図を偽造することがあり、徳川家康も新田氏の系図をごまかして、新田義重の四男義季が、得川郷の領主となって得川四郎と称した後に、松平氏を付け加えて、源氏の子孫としました。 ところが豊臣秀吉は由緒正しき? 庶民の出身(つまり卑賤の身分で源氏でも平氏でもない)ですから、系図のごまかしようがなく、最初足利義昭に養子にしてくれと頼んで断られ、藤原氏の近衛前久に養子にしてもらって、藤原氏の仲間入りをしました。 藤原氏は公家ですから、秀吉は武家出身の公家と言うことになります。 もちろん源平に限らず、公家を起源とする武士もいて、藤原秀郷(通称:俵藤太)など。 藤原秀郷の子孫は越前松平の前身結城家や、源頼家の乳母になる比企家などがあります。 また毛利氏も公家の大江広元を祖としています。 それと回答が難しいのは、字数制限があって、本来は数時間の講義でやることをまとめなければいけないことにあります。 例えば武士と言うのは概念的に「承平天慶勲功者」の子孫とその郎党を指し、それ以外の物は武士とは言わないと言う説もあります。 これに当てはまるのが北畠顕家、足利尊氏のライバルで、鎮守府将軍として東北の軍勢を率いて足利勢を破りますが、彼は分類は武士ではなく公家になります。 彼は「承平天慶勲功者」の子孫でもなければ、武士の郎党になったと言う経験もありませんから、武士とは認められないわけです。 征夷大将軍も武家の棟梁と言う位置づけですが、源氏以外のものがなったときに、果たして武家の棟梁なのかどうか? 鎌倉幕府が滅んだ後、大塔宮護良親王が征夷大将軍に任じられ、また幕末には仁和寺宮嘉彰親王が征討大将軍に任じられますが、武士の棟梁とは言いがたい面があります。 また、#2さんの書かれた北面の武士も武士なのか武官なのかという論議があります。 定義と言うものは一応あるものの、諸説あり難しいのです。

m4691
質問者

お礼

再度のお答えありがとうございます。  親王が征夷大将軍?!たしかにそれじゃ武家の棟梁は武家でなくともよい事になりますね。 武官と武士の違いは諸説有って決めては無いわけですね日本人なら誰もが知っている武士・侍というものがどういった人たちを指すのか きちっと知らない自分を恥ずかしいと思いましたが、身近過ぎて返って曖昧に使われている言葉?ちょと違うかな?  とにかくハッキリとした定義は無いと言うことで少し安心しました。

その他の回答 (4)

  • Scull
  • ベストアンサー率26% (248/951)
回答No.5

専門家では有りませんが、身分制度がはっきりするのは事実上徳川幕藩体制以降ですよね? であれば、それ以降の「武家の定義」について考えなければ「あいまいな答え」しかできないのではないでしょうか。 「それより前」は定義自体がはっきりしていない(「公家と武家の違いはもちろん、農家と武家、商家と武家、僧侶と武家の境界も)訳ですから、「何をもって武家とする」というのは云々できないのではないかと思うのですが。 もちろん歴史カテゴリですから、「こうして武家が成立した」という歴史を追うことには意味があると思いますが、それは「定義」ではありませんよね。

m4691
質問者

お礼

ちょと目から鱗がボロボロと 確かに江戸以前では身分制度そのものが曖昧!おっしゃるとおり・・・痛いとこ衝きますね。

回答No.3

公家は京に住み有職故実を以って位を世襲してきた家のこと。 武家は征夷代将軍と御恩奉公で結ばれている家(氏族)のこと。 平安時代はまさに貴族が我が世の春を謳歌した時代で、 貴族が官位を背景に勢力を伸ばし己の荘園として全国各地を支配した。 まさに天皇と貴族による中央集権国家が確立した時代なのです。 藤原氏はそのなかでも貴族の頂点にあった。 その貴族から荘園と武力を取っ払った残りカスが公家です。 征夷代将軍は源氏じゃないとなれません。 これは鎌倉幕府の先例に倣ったものです。 武士団は鎌倉幕府の御家人の総じて呼んだのが初まり。 北条氏は平家なので先例により将軍にはなれなかった。 大枠で「官位は先例と冠位に従う」と思えばよいのでは。 例えば、従一位太政大臣の「従一位」が冠位で「太政大臣」が官位。 冠位が身分で官位は職業を表します。 摂家というのは摂政になれる一条家とか近衛家のことじゃないかな? 「源平藤橘」は家系説明の道具に過ぎない。 時代時代でそれぞれの姓を語れば職にありつけただけです。 特にこの4家なら信憑性があったからだと思いますよ。

m4691
質問者

お礼

ありがとうございました。  議員とやくざみたいなもんなんですかね? やくざが議員になる事もあるし、やくざの定義は? そんなものはっきりしてないし、国が認めた広域指定暴力団もあれば自称やくざもいるしチンピラにいったてはもうどこまでがなんなんだかわからないし・・・   初めのころは武士も一緒?

m4691
質問者

補足

同じ征夷大将軍でも坂上田村磨は貴族の武官とし頼朝は武士その違いは何かな?と思った訳で武士と呼ばれてから官位を受けた人は別としてももともと官位があるのに武士と分類された家もあって何時からが武士になるのかな?と思ったんです。  なんか、屁理屈書いてるみたいになってしまいましたが 最初は素朴な疑問だったんですけど・・・  

  • o24hit
  • ベストアンサー率50% (1340/2646)
回答No.2

 こんにちは。  それでは私と一緒に、歴史の授業を思い出してみましょう。 ・北面の武士  「北面武士(ほくめんのぶし)」と言うことを習われたことがあると思います。これが、「武士団」の始まりですね。  「北面の武士」とは、上皇に仕え、身辺の警衛あるいは御幸にお供した武士集団のことですね。11世紀末白河上皇が院の護衛のために、儀礼的存在の御随身所とは違い武力を持つ近衛団的存在として設置したものです。構成には主として近畿周辺の在地武士や受領武士などがあたり、平正盛・忠盛親子も属しており、このことが後の平家台頭のきっかけとなりました。  最大の時には日本最大の武装集団になり、律令制の正規軍に代わり軍事的な役割を果たしています。後鳥羽上皇時代に、西面武士も設立された。承久の乱では西面武士とともに戦闘に加わり、乱の後西面武士は廃止されましたが、北面武士は残された。その後、徐々にその規模は縮小し単なる御所の警備隊となりますが、江戸時代末期まで続いています。  つまり、北面武士の存在は、それまで貴族だけが握っていた政治に武士を接近させ結びつけていく入り口のような形であったと言えますね。 ・賜姓皇族  一方、源平などは、「賜姓皇族(しせいこうぞく)」と言われる家柄で、天皇から姓を下賜されるとともに皇族の身分を離れ、臣下の列に加わった一族のことで、源平以外では、橘氏、在原氏等があります。  例えば、清和源氏(せいわげんじ)は56代清和天皇の皇子を祖とする賜姓皇族で、後の武家政権を確立すべく礎を築き、その後、源頼朝を輩出し武門の棟梁としての地位を固めました。  ただ、先の方もかかれていますが、権威を高めるため、北条氏、織田信長や豊臣秀吉を除く天下人の多くは、清和源氏を自称しています。  特筆すべきは、織田信長で、朝廷からの官位をかたくなに拒みました、官位をもらうと言うことは、天皇の部下になることですから、信長はそれを良しとしなかったんですね。何となく信長らしい話ではありますね。

m4691
質問者

お礼

ありがとうございます。 賜姓皇族>所謂「源平藤橘」ですよね。皇族を離れても貴族・公家ですよね?なのになぜ武家?平安時代末期摂家として公卿になれる4姓ですよね。藤原氏は公家と呼ばれ源氏・平氏は武家になったのか?単に武力が有ると武士なら藤原家は武装解除してたの?私兵はいなかったの?ますますわからん????

m4691
質問者

補足

すいません#3の補足の補足になってしまうのですが  さらに幕末になると西郷は維新前は武士で維新後は武官ですよね、これは主君が島津から天皇に代わったんだから解るんですが、島津や毛利などの藩主は爵位をもらって貴族に成ったて以前から官位を持っていたはずだから、武士と言う呼び名が無くなっただけ?あっ!これは武士の官位だから公家のものとは違うのか?藩主の主君は将軍だと言うなら当の徳川家は江戸時代も公家で武家?そもそも公家と武家を分けて考えようとする事が間違っている?  なんか、屁理屈書いてるみたいになってしまいましたが 最初は素朴な疑問だったんですけど・・・

noname#113190
noname#113190
回答No.1

非常に複雑な事情がありますが、古代日本は軍隊により守られていました。 初代の神武天皇は自ら軍隊を率いて東征を行いましたし、歴代の天皇は自ら刀を振るって敵を打ち倒すこともありました。 平安時代、桓武天皇の時代に軍隊が解散され、日本は正規軍のいない国となりました。 ところが日本は完全な平和な国になったわけではなく、各地を平定する必要があるために「令外官」という律令にない官職を次々に新設し、治安に当たります。 例えば東北遠征のため、征夷大将軍に坂上田村麻呂を任命して蝦夷と戦わせたりしています。 この時代になりますと、死穢と言うものに貴族が敏感になり、革製品を嫌ったり、動物の解体などをする職業の方々を差別する流れで、武人を蔑視するようになりました。 それでこういった仕事は正規の官ではない令外官に委託すると言う構図になります。 一方地方でも軍隊がいなくなりますから、農民は自分の田畑は自分で守る必要が出てきて、武装農民が出現します。 こういった農民のうちから指導力のあるものが近在の農民をまとめて、地方豪族になり、ある程度の規模になると中央の貴族と結んで、自分たちの存在を公認してもらうようになります。 つまり、自分の田畑を有力公家に寄進して名目は公家の土地にして、自分はそこの管理を任せてもらって土地を支配する代わりに、何割かの物を公家に上納すると言う形になります。 公家も自分の支配地に庶子などを送るようになったり、国主として派遣された後も土着したりして、武装農民と結びつくようになります。 武装農民も自分たちの頭目に中央貴族の血縁者を戴いて箔を付けたいと言う考えもあり、地方に下った源氏や平氏といった元皇族の子孫は歓迎されました。 これにより、源氏や平氏が武装の農民を従える「武士」という階級が成立し、公家はこういった血なまぐさいことから完全に手を引き、武士に下級官位を与えて飼い犬にするという形が成立します。 この形が平清盛になると、上皇と結びついて武士が政権に加わるようになり、源頼朝が鎌倉に幕府を開いて、武家の政権が成立します。 武士も官位を持つようになりますが、公家の官位とは別物とされ「東百官」などのように、自称するものまで出てきました。 大石(蔵之助)とか丹下(左膳)、宮本(伊織)など。 正式には幕府を通して朝廷より賜るものですが、上記のように自称するものも少なくありません。 戦国期の武将は、織田(上総介)などほとんどが自称で、さすがに上杉など名門は将軍から申請して貰いますが、公家の官位とは別物です。

m4691
質問者

お礼

ありがとうございます。 >武士も官位を持つようになりますが、公家の官位とは別物  大戦中の特務大尉みたいなもんですかねぇ?将校であって将校でない・・  でも秀吉は関白ですよねって事は公家って事にならないんですか?

関連するQ&A

  • 公家の存在理由

    以前にも、同様の質問がありましたが、 武力を持って、全国を束ねた武将は なぜ、その武力をもって天皇家をも滅ぼさなかったのでしょうか? と言うのが最大の疑問なのですが、 今回は、なぜ、公家は存続出来たのでしょう? 例えば、清和源氏の武田氏は滅ぼされも、 源氏を束ねる上では、それ以上に邪魔と思われる村上源氏の公家(久我家等)や、藤原の五摂家などは、 なぜ、残る事が出来たのでしょう? 田舎侍などと侮られながら、官位を貰い、録を与えた意味がわかりません。 皆さんはどの様にお考えでしょうか? ご意見をお聞かせ下さい。

  • 柳沢出羽守と松平出羽守の両立は武家名乗り?本物は?

    勉強になっております。語句など知識に間違いがあれば遠慮なくそれもご指摘下さい。最適な用語を学びたいと思っています。 1.出羽守の官職を持つ、公家がいたのでしょうか。 2.出羽守に限らず、○○守、○○介など武家と官名が重複する官職を持つ公家がいたのいたのでしょうか。 3.江戸時代の武家官位は員外官とありますが、同時に、それは官職ではなく、官名だけだとあります。そういう名前だけものを員外官というのでしょうか。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E5%AE%98%E4%BD%8D 禁中並武家諸法度で決められてからの名乗りに代わる言葉、「武家官位」などという後世の歴史用語でない、他の言葉がありませんか。法度では何かしらの言葉で表現されているはずですが、武家の官名なのでしょうか。「名乗り」は公式用語ではないように思うのですか。 ちなみに名乗りとは位階も含まれるのですよね。すると、 4.言葉遣いに苦慮される人は多いと思うのですが、 官名と言えば「○○守」などを指す言葉として歴史話が通じるのでしょうか。律令制の地方官の官名に限った用語はないのでしょうか。 5.武士の間では、官名を、どのように呼んでいたのでしょうか。会話としては「そちの名乗りはなんじゃ」と言っていたのでしょうか。幕政上の公式では「そちの官職はなんじゃ」でしょうか。 幕府と朝廷では公式には何という言葉で事務処理されていたのでしょうか。 6.柳沢出羽守も、松平出羽守も、勅許を得ているはずですから、 (先のリンクより) 「そのまま官途名として認められた位記・口宣案」については、いくらでも発給できたということになりますよね。朝廷側の名簿はなんというのですか。やはり武家専用の別の名簿ですか。やりたい放題の名簿。 8.しかしながら、将軍の官位、例えば、正二位、内大臣、右近衛大将、征夷大将軍は、官名だけでは、ありませんよね。しかし松平出羽守は武家官位で名前だけ。朝廷的に、本物と偽物が混在しているということになりませんか。大名は本物で、幕臣陪臣は「武家官位」。ひょっとして、幕末の小栗上野介はもちろん名前だけの武家官位だが、高家旗本の吉良上野介は、朝廷からもらった本物だったから、高家と言えるのであって、実力のある官位だったとか? 9.素人ながら「武家の官位」の上下には敬意を感じぜずにおられなかったのですが、それが「武家官位」であれば、朝廷的には、本来の物とは別の名ばかりの代物だったわけですか。その権威が武士社会では有効だったということでしょうか。 柳沢出羽守と松平出羽守の重複問題は、官職の重複自体には、何の問題もなかったということですよね。幕政上、区別できなくなるというだけのことですよね。 公家の方にも出羽守がいるとすれば、公家では○○守の官名の重複は許されませんよね。律令国に一人ですからね。 部分的で結構ですので宜しくお願いします。

  • 武家政権になってからの朝廷と幕府の関係について

    源平の合戦に勝った源頼朝が、朝廷より征夷大将軍に任じられて、鎌倉に幕府を開いた。これより明治維新まで武士の政治の時代が始まる…… ここまでは小中学生でも知っている歴史的事実かと思うのですが 最近このプロセスに疑問を感じまして、質問させていただきました。 武家政権に政治の実権を取られても、京に天皇や朝廷は存続し、形式的には天皇が武家よりも上位でしたよね。この上下関係が残ったからこそ、朝廷が位を武士に「授けて」いましたし、また武士のトップも朝廷の承認を受けてから幕府を開いていました。 そこで質問です。 ・なぜ朝廷は、武士に実権を握られてからも、まるで「お飾り」としてでも存続でき、それどころか形式的には上位の存在であり続けられたのでしょうか? 現代を生きる私の感覚からしてみれば、戦に勝って実権を握ってしまえば、朝廷や天皇を無視しても(もしくは西洋の革命のように処刑しても)かまわないような気がしてならないのです。しかしそうはならず、「武士のトップが天皇や朝廷の承認をいただいて政治を行う」というプロセスが鎌倉、室町、江戸時代と律儀に守られ続けました。 きっと当時の人たちにとっては、そうでなければならない理由があったのではと思います。 (武士にとっては朝廷の承認が無いと、権威の正当性を主張できず、また民衆にとっても、それが無いと権力者として認められない事情や心情があったのかと思います。) 当方歴史の勉学については中等教育レベルで止まっている者です。ご指導のほどをよろしくお願いします。

  • 武家が公家風の華美な生活を嫌った理由

     平家が源氏に負けたのは平家が公家の美的・快楽的な文化に染まって軟弱になってしまったからだと思います。事実源氏以来武家政権は平氏の真似はいっさいせず質実剛健な生活をしています。前例を重視するなら当然そうなります。  豊臣政権は少し違うようですがその豊臣政権が短期で終了したのをみて改めて武家の華美な生活は政権維持に有害と思い知ったのだと思います。  こういうことから武家には公家風の華美な文化は似合わない、などという思い付きの次元ではなく、はっきりと平家の前例からかなり自覚的に「忌避すべき」と決めた鉄則のように思えるんですがどうでしょうか。

  • どうして豊臣秀吉は、関白。徳川家康は征夷大将軍

    になったのでしょう。 官位につくには出自が重視されるので、豊臣秀吉は近衛家の養子になり、征夷大将軍に任ぜられようとしますが、これを自ら断り関白を任ぜられます。 関白は、天皇と協議して合意を取りながら政務を行う職として、慣例として天皇の代理人として天皇と太政官の政治的なやりとりについて事前に把握したり関与する権利があり、実質上、統制権をもつものと認識しています。 一方、徳川家康は清和源氏と称し、征夷大将軍に任じられます。征夷大将軍は、天皇勅令のもと、武家政権の長とする地位に任ぜられます。 当時は、武家の勢力が強く、朝廷は権威を保ってはいたけれど実質的な政権は武家勢力が握っていたものと推測しています。 そのため、官位については表向きは朝廷が任じようと、実は武士側の方で公家の養子になったりして出自を高貴なものにすれば選べたのではないかと考えています。 どうして、豊臣秀吉は、征夷大将軍職を断り、関白を選んだのでしょう? そして徳川家康は関白ではなく征夷大将軍職を選んだのでしょう? 結局、その後の徳川家は幕府を設立し、禁中並公家諸法度を作成して朝廷を統制し、政治における実権を握ったことを考えると徳川家康は、武家の棟梁としての位を望んだのも頷けます。 しかし、豊臣秀吉も関白として同じことができたのではないかと思います。 自分の考えでは、豊臣秀吉は幕府を作ることは考えておらず、平安時代からあった摂関政治を狙っていたのではないかと推測します。 逆に徳川家康は武士の時代と考え、朝廷からの実質的な政権を奪うことをもくろみ征夷大将軍職についたのかと考えています。 自分には歴史の知識があまりないため、このあたりの政治的な部分に興味があり、いろいろ文献を読んだのですが、なかなか答えがだせません。 そのため、皆様のご高説を賜りたい次第です。

  • ローマ帝国とかイスラム帝国の武将って誰が有名なの?

     日本では戦国時代や源氏・平氏などいろいろありますし  中国の三国志などで多くの武将が紹介されていますが  ローマ帝国などにも猛者っていなかったのですか?  ヨーロッパの方では武将みたいなのは存在しないのでしょうか?

  • 日本の政治形態

    日本の政治形態についての質問です。特に武家社会前、つまり天皇が最高職だった次期から明治維新後までの政治形態の流れを知りたいです。 鎌倉時代前??までは、最初に記載したように朝廷(天皇)が政治のトップだったと思いますが、その下には公家といういわば官僚?の人々がいましたよね?たとえば、太政大臣とか中納言とか小納言などなど、、 その後、武家政権になってから、武士も公家になれる機会?も増え、官僚の人々ではなく武士も、政治にかかわるようになり、最終的には天皇の位を武士(将軍)がトップに躍り出ましたよね? その後武家政権が約700年間?続き徳川慶喜後の明治維新には、太政官制度が導入された。 と、かなりあやふやですが、質問です。 武家社会の時は、太政大臣、小納言などの役職は武士が就いていましたよね?もしそうなら、それまでの公家の人々はどこにいったのでしょうか、約700年間?? そして、明治維新後にいきなり公卿の三条実美が太政大臣となりましたがそれはなぜでしょうか?彼は、武家社会の間はどういう地位にいたのでしょうか?公家と武士の関係がよくわかりません。 お願いします。もし、私の解釈に訂正がある場合は お願いします。

  • 「武士」と「武家」の使い分け。

    深く考えずに「武士」を主に使っています。 「武家」とするのは、武家諸法度、武家屋敷、武家政権、武家地(町人地に対して)、武家物くらいです。 山川出版社の教科書『詳説日本史』の近世の説明では、圧倒的に「武士」が多いです。 「武士」と「武家」の使い分けを教えてください。 歴史用語としての決まりはあるのですか。 上記教科書の「武士」「武家」の使用例を参考までに。 1.1683(天和3)年に,綱吉の代がわりの武家諸法度がだされ,その第一条は「文武忠孝を励し,礼儀を正すべきこと」に改められた。これは武士にそれまでの「弓馬の道」の武道にかわって,主君に対する忠と父祖に対する孝,それに礼儀による秩序をまず第一に要求したものであった。 2.近世社会は,身分の秩序を基礎に成り立っていた。武士は政治や軍事を独占し,苗字・帯刀のほかさまざまの特権を待つ支配身分で,将軍を頂点に大名・旗本・御家人などで構成され、主人への忠誠や上下の別がきびしく強制された。天皇家や公家,上層の僧侶・神職らも武士と並ぶ支配身分である。 3.近松は京都近くの武士の出身であったが、(略) 4.幕府は儒学による武士の教育を奨励したが、(略) 5.民間でも、武士・学者・町人によって私塾が開かれ、(略) 6.安藤昌益は『自然真営道』を著わして、万人がみずから耕作して生活する自然の世を理想とし、武士が農民から収奪する社会や身分社会を否定し、封建制を批判した。 よろしくお願いします。

  • 刀伊の入寇と藤原隆家について

    藤原隆家は、刀伊の入寇の際、公家であるのになぜ軍事指導者としての手腕を発揮することができたのですか?またなぜ藤原隆家と現地の武士団が、刀伊を撃退したにもかかわらず、朝廷は十分な恩賞を与えなかったのですか?

  • 朝廷

    戦国時代や江戸時代(というかそれ以前も謎)、朝廷って何をしているところで何をしていたんでしょう?? 朝議に参加できるのは公家だけ?ていうか天皇も参加する? 天皇って誰が選ぶ? 定員とかあったんでしょうか。