• 締切済み

朝廷

戦国時代や江戸時代(というかそれ以前も謎)、朝廷って何をしているところで何をしていたんでしょう?? 朝議に参加できるのは公家だけ?ていうか天皇も参加する? 天皇って誰が選ぶ? 定員とかあったんでしょうか。

  • su-te
  • お礼率32% (121/377)
  • 歴史
  • 回答数2
  • ありがとう数4

みんなの回答

  • new2
  • ベストアンサー率34% (33/95)
回答No.2

 基本的にはもちろん、政治について話し合いました。基本的に公卿(三位以上。官職でいうと中納言以上)です。ちなみに、「朝廷」という言葉は、その会議が朝行われたことから言われています。  後鳥羽上皇の承久の乱以降、政治に朝廷が関わったのは後醍醐天皇のときが最後で、その後は京都を中心に宗教界に影響を及ぼしました。  これまでの皇室の歴史から、天皇が政治に関わってきた時期に比べ、関わってこなかった歴史の方がはるかに長かったのです。摂関・院政・幕府・戦前・そして現代の民主主義。今の日本では象徴天皇制ですが、昔から政治に関わってこなかったので、もうそのころから日本は象徴天皇制みたいなものです。  応仁の乱以降の朝廷は経済力も衰え、有力な寺社や大名から寄進をうけて何とか生活を保ってきました。江戸幕府によって「禁中並公家諸法度」が制定され、天皇や公家は有職故実、つまり昔の官職や朝廷の研究さえしていればいいとなりました。その反動なのか、幕末になるといままで虐げられてきた公家側が幕府に対して強く出るようになりました。

su-te
質問者

お礼

天皇および、宮さんは参加したんでしょうか。 それと実際の執務はその時々の幕府がしてると思うんですが、それでは朝廷は何を話し合い、決定するんでしょうか。(朝廷に公家だけでなく、高い官位の大名も参加してるとして)

su-te
質問者

補足

まだ完全には理解していないので、まだまだご意見お待ちしています。

  • hanakago
  • ベストアンサー率6% (58/851)
回答No.1

表向きは朝廷は日本国政府で幕府が代行してやっていたんだから。大政奉還して政府は明治政府がするようになった。江戸時代は朝廷が徳川家の人に征夷大将軍に任命して幕府を開くことを認めてるという形にしていたんだよ。でも、征夷大将軍ってあんまり官職が高くないから右大臣とか左大臣とか兼任していたようです。織田信長とか徳川家康とか権力握ったとき時の天皇を変えたくて退位を迫っていたそうです。天皇は朝廷のお公家さんとか先の天皇とか幕府の人間とかその時代に影響のある人間がいろんな思惑で影響力を与えて決めていたんだと思うけど。

su-te
質問者

お礼

幕府が執務してるわけですが、それでは朝廷は何を話し合ってるのかを知りたいです。 天皇を決めるのにも、どういう仕組みで決めてるのか、それともそんなものないのかも興味があるのです。

関連するQ&A

  • 江戸時代の朝廷の石高は、全て合わせて何万石ぐらい?

    江戸時代の朝廷は、天皇・皇族・公家等の領地や石高を全て合わせて、全部で何万石ぐらいだったのでしょうか? 江戸時代の朝廷は、天皇、皇族、公家など全て合わせて、(彼らの領地や、そこから得られるのは)何万石ぐらいであったのかを知りたいです。 江戸時代の朝廷は、天皇、皇族、公家など全て合わせて、何万石ぐらいであったのかを教えてください。

  • 吉宗は、最も朝廷や天皇を軽んじて馬鹿にしていたか?

    8代将軍・徳川吉宗は、江戸時代の歴代の徳川将軍の中で、最も、朝廷や天皇を軽んじて馬鹿にしている将軍だった、のでしょうか? 8代将軍・徳川吉宗は、歴代の徳川将軍の中で、最も、朝廷や天皇を軽んじて馬鹿にしている将軍だった様に思うのですが、どうでしょうか? 朝廷や天皇を軽んじて馬鹿にしていたからこそ、徳川吉宗は、(秀忠ー家光からの)宗家の血筋ではないのに、将軍になれたのではないでしょうか? 江戸幕府も初期の頃は、対外的には朝廷や天皇を重んじている姿勢を見せていたと思います。さもなくば、外様大名たちに付け込まれる原因となりますから。 しかし、あの頃(徳川吉宗が将軍になった頃)は、大坂夏の陣から100年が経っており、もはや、そのような事を心配して、朝廷や天皇を重んじている姿勢を見せる必要はありませんでした。 寧ろ、大坂夏の陣から100年が経過して、なまってきて、公家寄りになってきた(特に、6代将軍・家宣は、自身の御台所の父を始めとする公家と仲が良かったようです。)江戸幕府を引き締めて、はっきりとした武家政権である事を示す必要がありました。 それで、朝廷や天皇を軽んじて馬鹿にしていたからこそ、徳川吉宗が将軍に選ばれたのだと思います。 8代将軍・徳川吉宗は、江戸時代の歴代の徳川将軍の中で、最も、朝廷や天皇を軽んじて馬鹿にしている将軍だった、でしょうか? どうかを教えてください。

  • 江戸時代の朝廷&公家の領地は全部合わせて何万石?

    江戸時代の朝廷及び公家の領(領地)は、全部合わせたら、何万石ぐらいだったのですか? 江戸時代の朝廷と公家の領(領地)は、全部合わせたら、何万石ぐらいだったのでしょうか? 江戸時代の朝廷と(&)公家の領(領地)は、全部合わせたら、何万石ぐらいだったのかを教えてください。 また、できれば、その根拠も教えてください。

  • 闇にひそむ「朝廷の裏歴史」とは?

    日本史の教科書・参考書どれを見ても武士の時代(鎌倉・室町・戦国・江戸)は 朝廷・天皇家に関する記述が極めて少ないです。 「天皇家の家系図」を見ても、江戸時代の天皇は聞いた事のない名前ばっかりです。 武士の時代における実質的な政権は、朝廷ではなく幕府にあり、天皇は名目上の 最高位でありながら、陰の存在だったという点は理解しておりますが、この時代、 朝廷内ではどんな動きがあったのか気になります。 幕府では新井白石・徳川吉宗・田沼意次などが活躍している間に 朝廷ではひっそりと血みどろの権力争いが行なわれていたのかもしれません。 摂政・関白の座をめぐって、あるいは天皇の擁立をめぐって、五摂家が覇権争いを 演じていたのかもしれません。 「次の関白の座はわが近衛家の物ぞ。一条の手に穢されてなるものか」 「近衛の横暴極まれり。いざわれら一条家の再興を」 みたいな感じで、何か面白そうなストーリーが闇に潜んでいそうな気がします。 私は権力争いの話が大好物で、戦国時代の群雄割拠、現代史で言えば 戦後の政党・派閥抗争なんか面白いと思っているので、江戸時代の朝廷でも 権力争いでもあれば面白いかと思ってみました。 朝廷の権力闘争の歴史についてのサイトや書籍を御存知の方はいらっしゃいますか? また、この歴史について何か御存知の方は何でも教えて下さいませ。

  • 幕府と朝廷の両立

    鎌倉幕府などは承久の乱などがあって朝廷を警戒していたのに、なぜいつも天皇を残しておいたのですか? 朝廷を壊滅させればこのようなことはないと思います。 またそのころの公家などの生活費は独自に年貢を納めさせていたのですか?

  • 朝廷という名称について

    単純な興味なのですが、 日本で朝廷という名称はいつ頃から使われるようになり、 今のように天皇の政権を示すという意味になったのでしょう。 日本で使われ始めたのは大宝律令以降なのだろうとは思いますが、 文献として朝廷という文字が初出するものは何なのでしょう。 wikipediaには鎌倉政庁を朝廷と呼んだ事もあるとあり、 驚いて吾妻鏡(原文)を少し見てみたのですが、 鎌倉を朝廷と表現している文は見つけられませんでした。 また、吾妻鏡では、いわゆる朝廷を示す言葉は 京都とか公家(貴族は公卿?)という表現や、 上皇といった表現は見られたものの 朝廷という文字は見つけられませんでした。 そういえば記紀にも朝廷という文字は 出ていなかったかなという気すらしてきました (こちらは原文を読んでいません)。 もしかして、朝廷=天皇の政権という意味が固定したのは 明治になってからだったりするのでしょうか。

  • 幕府と朝廷について

    ど素人かつ無知な質問でお恥ずかしいのですが、幕府と朝廷の違いを簡単に教えてください。 もちろん両者が同じだと考えているわけではなく、両者の役割と立場、絡み方を知りたいです。 どうも一国に政府(統治機関)が二つあるような気がしてしっくりこないのです。 今の天皇と総理大臣の違いのような感じでしょうか? でも、当時の天皇は象徴というお飾りではないですよね? 戦国時代になるとまた違うのでしょうか? 幕府は兵をもっていなかったとか。 朝廷には兵はいたのでしょうか? 力(権力、軍事力、財力)の違いもよくわかりません。 質問に脈絡がなくて申し訳ありませんが、どうか教えてください。

  • 朝廷と公家(幕末)

     幕末当時の朝廷がどのように機能していたのか、又どのような点で機能していなかったのか分かりませんが、 (1) 8月18日の政変(七卿落ち)のことを読んで、ふと、幕末の頃、公家というのは何人いたのだろうかという疑問が生じました。それで公家について、ネットで調べたのですが、当時、政局に影響(混乱させることも含めて)を及ぼすことの出来る公家というのは、下記のサイトにある26人と理解して良いでしょうか? (朝廷の人材) http://page.freett.com/sukechika/tyoutei/tyoutei04.html (2) この26人は、孝明天皇と直接、政局やその方針などについて奏上することの出来る立場だったのでしょうか?それとも孝明天皇への奏上は、特定の公家が担っていたのでしょうか?  また、解説には、「朝廷は江戸時代のほぼ全期間という長い間、政治活動を禁じられてきた。その為、上級公家には人材が払底していたが、長い間貧乏な暮しをして来た下級公家には燃える情熱と才能を持った者が多く出た。但し、彼らの多くは用心棒兼参謀の様な志士を雇っており、彼らの事績の何処までが彼らの才能による物かは断定出来ない。」とあります。 (3) 上級公家と下級公家とは、一般的にどのように区分されるのでしょうか? (4) 「長い間貧乏な暮しをして来た下級公家には燃える情熱と才能を持った者が多く出た。」とありますが、上記の26人の中に、該当する人は誰でしょうか?ちなみに、上記のサイトにある26人とは、下記の公家です。 姉小路公知  有栖川幟仁親王  有栖川宮熾仁親王  岩倉具視 正親町三条実愛  大原重徳  九条尚忠  近衛忠凞  近衛忠房 西園寺公望  沢宣嘉  三条実美  三条西季知  四条隆謌 鷹司輔凞  鷹司政通  中川宮朝彦親王  中山忠光  中山忠能 二条斉敬  錦小路頼徳  仁和寺宮嘉彰親王  野宮定功  東久世通禧 壬生基修  六条有容

  • 江戸時代の天皇・朝廷の役割

    旧東海道が日本橋から京都三条までなので、幕府と朝廷は密接な関係にあったと思います。 当時政治の実権は幕府が握っていたし、今のように天皇は象徴でもありませんでした。 では、天皇家はそのころ何をしていたのですか?教科書には江戸時代の天皇のことはなにも書いてないですよね。

  • 武家政権になってからの朝廷と幕府の関係について

    源平の合戦に勝った源頼朝が、朝廷より征夷大将軍に任じられて、鎌倉に幕府を開いた。これより明治維新まで武士の政治の時代が始まる…… ここまでは小中学生でも知っている歴史的事実かと思うのですが 最近このプロセスに疑問を感じまして、質問させていただきました。 武家政権に政治の実権を取られても、京に天皇や朝廷は存続し、形式的には天皇が武家よりも上位でしたよね。この上下関係が残ったからこそ、朝廷が位を武士に「授けて」いましたし、また武士のトップも朝廷の承認を受けてから幕府を開いていました。 そこで質問です。 ・なぜ朝廷は、武士に実権を握られてからも、まるで「お飾り」としてでも存続でき、それどころか形式的には上位の存在であり続けられたのでしょうか? 現代を生きる私の感覚からしてみれば、戦に勝って実権を握ってしまえば、朝廷や天皇を無視しても(もしくは西洋の革命のように処刑しても)かまわないような気がしてならないのです。しかしそうはならず、「武士のトップが天皇や朝廷の承認をいただいて政治を行う」というプロセスが鎌倉、室町、江戸時代と律儀に守られ続けました。 きっと当時の人たちにとっては、そうでなければならない理由があったのではと思います。 (武士にとっては朝廷の承認が無いと、権威の正当性を主張できず、また民衆にとっても、それが無いと権力者として認められない事情や心情があったのかと思います。) 当方歴史の勉学については中等教育レベルで止まっている者です。ご指導のほどをよろしくお願いします。