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官位と国名
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1 武士の官名の私称に関しては当時の慣習でした。朝廷や幕府には取り締まる力はなかったと言うだけで、善悪で言えば悪いことなのでしょうね。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%98%E9%80%94%E7%8A%B6 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E5%AE%98%E4%BD%8D 2 国名につく官位は京都に近くて年貢が多い土地が高い傾向にあります。基本的には官位に明きがあるときに任官されます。希望のものを貰うにはよりお金がかかったことは言うまでもありません。 3 例えば、その家の跡継ぎはこの官名を名乗るといった習慣のようなものがありました。また、国持ち大名は○○守より上の官位をもっていたため任地と領地は直接関係のないことが多いです。例えばその土地を支配するための正当性を訴えるために欲しいということもあります。豊臣秀吉が筑前守、明智光秀が日向守信長のいずれ九州制覇をにらんで授けたと言われています。 http://maruyuki.hp.infoseek.co.jp/gamedata/ranseiki/kanni.htm
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- hukuponlog
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素人です。 1.良い・悪いで言えば、良くないのでしょうが、僭称ができたのは、戦国時代くらいではないでしょうか? 江戸時代になると武家の官位は、公家とは別とはいえ、僭称をする人はいなかったと思います。ただ、官位が普通名詞化してしまった(右兵衛佐)などはあったのかもしれません。 2,水戸中納言、という事でも分かる通り、家格と官位は連動をしていましたから、代々同じ官位を受け継ぐようです。ただし、出頭人(にわかに出世した人)の場合は、当然選ぶことになります。出頭人の場合、自分で選ぶと言うより、将軍がくれた、という方が正確ではないでしょうか? 3.逆に、選べない事例なら分かります。江戸時代になると、「武蔵守」は誰も受けられません。これはたぶん将軍に遠慮しているからだろうと思います。また、「相模守」は譜代の名門にしか与えられません。これもおそらく箱根の関、江戸の隣という地形上の理由だろうと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 No1の方の回答どおり、通称名のようになっていた。半場非公認の公認(?)みたいになっていたのでしょうね。 2の出頭人には官位を受け継ぐ基礎がないので、将軍がくれた。なるほどです。公家から受任されるためにはかなりの「献金」が必要だったと聞きました。将軍から受任される場合も同じだったのでしょうね。 3そうですね。恐れ多いですものね。逆に徳川以前の戦国期ではそれらは、それほど人気が無かったのかもしれませんね。京都から見たら東夷でしょうから。 参考になりました。ありがとうございました。
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