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なぜ仏陀は積極的に人助けをしなかったのでしょうか?

なぜ仏陀は積極的に人助けをしなかったのでしょうか? 仏陀に関する文献を読んでいて、仏陀は積極的に人助けをしていない印象を受けました。 弟子に悟りを説明する場合にも丁寧に説明するよりは喩えで説明していて不親切だと思いました。 (すみません。) 私の勘違いかもしれませんが、仏陀が積極的な人助けをしなかった理由は何でしょうか? よろしくお願いします。

noname#142902
noname#142902

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  • miko-desi
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回答No.37

人助けすることの対象とされる「他人」は何を指しているかの問題。 何かを助ければ何かを失う、犠牲の上で成り立たせてしまう。 いくら損得感情から逃れていてしても、 万人や万物に優しくし助けることができない。 普通人の優しさは認識しえた者に対して発揮されますが、 名も顔も告げず見返りを期待せず 認識していない他人を施すことにも限界があったのでしょう。 仏陀にとって他人が大きすぎて誰も助けられなくなるのです。 器の大きさが仇となり現実逃避になる。 私も含め、中途半端な器なので「やらせてくれてありがとう」 なんて自己満足のためにしかしないぐらいで現実的ですね。

noname#142902
質問者

お礼

 仰るとおりです。例えば私はゴミ拾いをしていますが、逆に言えば私は『他人の、ゴミ拾いという奉仕活動の機会を奪っている』とも言えます。もし私の財産をハイチに寄付すると、私が普通に買い物をしたときに比べて(ごくごくわずかですが)日本の経済は停滞します。そう考えるとハイチには+でも日本には-です。私が猫を餌付けして猫の数を増やせば猫に襲われるねずみの数が増えてしまいます。このサイトで誰かの助けになると『成長の芽を摘む』ことにもなりかねません。お年寄りに席を譲ればその分だけお年寄りは足腰が弱くなります。他人に優しくするとその人の闘争心を奪ってしまって生き抜く根性が弱くなるかもしれません。  結局、自分が良かれと思って何かをやっても+と-を計算すると大体は『0』になってしまいます。そこまで考えると……奉仕活動は自己満足なのかもしれませんね。  関係の無いことですみませんが、この世の物事は+と-を計算すると大体0になりませんか? 大人として多くの知識を得れば夢を失います。(もちろん、例外はあります。)美味しいものを食べれば太ってしまいます。お酒を飲めば間違いなく肝臓は痛みます。パソコンを使う分だけ環境は悪化します。立派な物ほど作るための材料は高価になります。ゆえに立派な物ほど環境を壊します。年齢が経過すれば誰もがある程度は成長しますが、体は老いていきます。  そう考えると……仏陀の言う悟りの内容も徐々に分かってきます。  『器の大きさが仇となり現実逃避になる。』は心に残ります。太宰治も芥川龍之介も立派過ぎる人は逆に現実に適応できないのかもしれませんね……。  何はともあれ心に響く回答を有難うございました。

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回答No.47

zakky74です。 >確かに悟り自体が普遍的な次元と違うのかもしれません。私達は知識や経験などに・・・人間とは自己中心的です。 観術は、仕組み・メカニズムです。 それを論理とイメージによって説明できる事から、悟りは伝達可能、共有可能だとしています。この文章では、論理とイメージのうち、どうしても論理だけが強くなってしまう傾向が生まれてしまう為に、イメージの交流がとても難しい訳ですが。論理とイメージの両輪によって、差を取ります(悟る)。 脳の認識のクセ3つと、判断基準の問題性5つ(差が生まれる理由)。 これは、認識・判断の仕組み・メカニズムです。ここにも一つひとつをゆっくりと確認していけば、なる程そうだと思える論理とイメージが潜んでおります。この2つから全てを整理してみてください。相当数の事が整理できる筈です。教育・経済・政治・文化・・・あらゆる人間活動が透けて見えてくるかの様です(問題性ばかり目に付きますが、異様に理解・納得できてしまうので頭はスッキリです)。 観術の美しいところは、脳の認識のクセを分かりながら、脳を理解・納得させていく事で、脳の認識から離れて自由になれるという点です。まさに芸術。 人間は、判断基準の一番深いところに○×判断基準がありますが、それは言い換えると知っている事から自由になれていないという事でもあります。知っている事から自由になれないから、○×が始まります。 「自分は人間だ、男だ、日本人だ、長男だ・・・」 これ自体が知っている事から自由になっていません。○×判断基準が既に働いている事になります。自分が人間だ・・・と知ってしまったら、無意識で自分が人間以外でもある可能性を全て排除するからです。知っている・・・と固定した瞬間に、それ以外の可能性を全部排除します。 人が、暗記している事が如何に可能性を排除しているか・・・ソクラテスは、その事を無知の知を道具にして問おうとしていました。仏陀も同様です。彼は、空を道具にして五蘊から離れる様にさせようとしていました。 知っている事から自由。 知っている事から離れる事。 >私も今回のやり取りを通して、自分の癖を改めて痛感しました。・・・・というのは肝に銘じて生きていきます。 誤解をして頂きたくないのは、観術はあくまで人間の仕組み・メカニズムから勝負します。ですので、b-w-stepさんのクセという事も言えなくはないですが、何とこれは人間共通のクセです。 その理解・納得が重要だと思います。 自分・・・ってなると、また自分に執着が起きます。 人間共通に働いている仕組み・メカニズム・・・ だから自分の事は人間の事です。 個人の問題は、69億人の問題です。 僕は、自分ごとの問題は69億人の問題ごととして捉えていますが、その時は原動力が丸っきり違いますね。自分に観点が固定されていると見えない事でも、69億人、あるいは人間・動物・植物・地球・太陽系・銀河系・宇宙・宇宙の外・・・まで自分お観点が自由自在に移動すれば、自分の悩みは全宇宙の悩みであり、全宇宙の悩みを自分が解決している事になります。 自分が、救済する側です。 そして、救世主です。 誰もが皆、本当はそうです。 >仏陀が人助けをしなかった、・・・2017年を楽しみに生きていきます。 繰り返しますが、観術は仕組み・メカニズムです。 悟りが、仕組み化・メカニズム化されている事の意味でもあり、それ故に、物理学・数学・生物学などとも完全な融合を果たしています。2017年になる頃には、全ての学問が統合された統合認識学問HITOTSU学が脚光を浴びている事でしょう。 西洋の学者たちは、日本に学びに来る事になります。 HITOTSU学と観術の時代が始まります。 それが、2017年以降です。 どの様な形でb-w-stepさんとの出会いが準備されているのかは分かりませんが、2017年の時にはどんな出会いとなっているのか、今からとても楽しみにしています。

noname#142902
質問者

お礼

色々と読んでためになりました。ありがとうございました。

回答No.46

zakky74です。 もう一つのテーマとも連動して書いてきた為に、こちらのテーマも収束に向けたいと思っています。ここまででも、相当数に収束してきた感も無いではないですが。 仏陀が人助けを積極的にしなかったのは、第三者から観てその様に映るところがあるだけです。仏陀なりには、実はかなり自分が悟り知った空の世界を、論理立てて話しています。般若心経によく現れています。 ただ、空しかない事を悟り知ってしまったら、次に空から色の事をどの様に説明すれば良いのかがとても難しい事までも分かってしまいます。何故ならば、人間は、一人ひとりが五蘊(色・受・想・行・識)がバリバリ元気だからです。 仏陀の話を聞いても、弟子達は自分たちの五蘊から話を聞きます。自分たちのフィルターがそこに働いている事が分かりません。だから、質問した事があってもその質問の前提が既に五蘊に囚われているので、質問に対してどの様に答を返しても、結局は五蘊を元気にさせてしまいます。 それを回避する為に、如何に質問の前提である五蘊を手放させていくのか、その質問自体が既に囚われている、空ではない、という事を本人に気付かせていくのか、それが彼のテーマでした。 悟った人の共通の悩みでもあります。 人間五感覚脳の認識が働き、皆、自分の判断基準から悟った人の話を聞くので、判断基準の一番深いところには「知っている・知らない」から来る○×判断基準が働いているのですが、無意識で悟った人を○×しています。 自分にいい事を言ってくれる人は○、自分にマズイ事を言ってくれる人は×・・・の様なです。悟りから観れば、○も×もないし、知ってる事から自由です。知っている事から自由になれないから、人は苦しむのですが、知っている事が○であるかの様な錯覚に、人間は陥ります。 無知の知を実践する人はそうそういないものです。 仏陀は、その事をよく分かっていた為に、知っている事のワナからよく抜け出していた人でした。それを、後世の人が自分の認識・判断から、積極的に救済しなかったとか言っているだけです。その様に言っている人は、悟っていないのに・・・です。 悟ってみればよく分かります。 当時、その時代、或いは2500~2000年ほど前の時代では、今の時代の様に人が行き来する範囲も限られていますし、情報が行き来する範囲も限られています。また、社会のプレート、時代のプレートが今と違って、プレートの中心は王様ですし、社会の中心は農業社会です。 言葉も十分になく、学術の発達も無く、人間がまだまだ動物の様に扱われたり、奴隷として扱われたりする事も当たり前の時代の中です。そこで悟りを得たら、その悟りが広がっていく範囲と言いますか、関心ごととしてもそこまで広がらないであろう事は簡単にイメージできます。 ただ、現代としては事情が違います。 今は、文字・言語・学術も発達し、インターネットもあり、交通手段も盛んで、何より経済のバックアップがあります。69億人が運命共同体になりました。昔、悟った人が住んでいた村が、今では地球丸ごと一個の様なものです。ですから、救済の観点や積極的な人助けに関心が行きやすいです。 そんな今なりの生活から観た時には、仏陀もソクラテスや老子も積極的な人助けには余り思えないかもしれません。また、悟りの実践、それも血と汗と涙のあるとても人間らしい生き方を実践したイエスキリストの振動が今の時代にも響いている事と比較してしまえば、仏陀はどこかぶっきらぼうだったり、悟りたい人が悟れば・・・みたいな節もあるかもしれません。 ですが、悟った人はその次元を超えた悟りからしか計れません。 仏陀・イエスキリスト・ソクラテス・老子・・・第一の知の爆発。 天動説から地動説、西洋のルネッサンス・・・第二の知の爆発。 今からは、日本から始まる認識革命・・・69億人が悟る第三の知の爆発。 聖人たちを正しく理解出来る時は、もう直ぐそこにまで来ています。 自分の認識・判断を一旦横においておく心の決断が出来た時から始まります。

noname#142902
質問者

お礼

確かに悟り自体が普遍的な次元と違うのかもしれません。私達は知識や経験などに固執しています。そこから離れることが大事と言えます。また、成長というのは往々にして以前の自分の否定の上に成り立ちます。五感に縛られていること自体が悟りでは言えないとも言えます。そこでその五感を如何に手放すか。仰るとおり、非常に難しいものです。自分にとって都合の良いものに〇、都合の悪いものに×、人間とは自己中心的です。私も今回のやり取りを通して、自分の癖を改めて痛感しました。そういう意味でもあなたには感謝をしています。自分にとって都合の悪いものを〇と解釈する……そのことが如何に大変か。自分が正しいと思って自己中心的になりやすい、という癖。大変なものです。そういう意味で、自分がともすればすぐに過ちを犯しかねない、というのは肝に銘じて生きていきます。仏陀が人助けをしなかった、ということ自体が実は大変な過ちであったと私も覚えておきます。仏陀からすれば人々を救済したかったのですから。何だかんだあなたに文句をつけた私ではありますが、本当に感謝しています。自分の五感覚によって生み出されたもの、いわば自作自演の中に生きている、ともいえる事実に気付かせてくださってありがとうございました。2017年を楽しみに生きていきます。

回答No.45

zakky74です。 >知などもろいものです。『人は信じたいものを信じる』という言葉があります。その通りです。誰もが現実を少しずつ自分の都合の良いように解釈しています。 仰る通りです。 まずは知の不完全性に気付く事によって、無知の完全性へと到達し、そこまで来てようやく知の不完全性の補いが来るのですが、知の不完全性を足し合わせて補おうとする姿勢からは、なかなか人間、抜けれない様です。 >そもそも『見ている』のも頭の中で処理した情報です。処理の仕方自体が正しいかどうかも分かりません。もっと言ってしまえば、私達は真実を脳というフィルターを通して見ているようなものです。 全くその通りです。 五感覚から入った情報は、高速で処理する為に、実は随分と不要な情報を削ぎ落としています。しかも、色や味や匂いなどは、脳の各分野を通過した後にかけられた処理である事を多くの人は知りません。 そこに見えている色は、確かにその物質に張り付いている色である事を確信しているのが人間ですが、残念な事に脳の電気信号によって生まれた出力結果である事を多くの人は知りません。 その土台によって、学術が成り立っている事も。 >確かに仏陀は地球の自転すら知らなかったですね。言われてみてハッとしました。 ところどころに、僕はショックを誘発する質問や意見を投げかけています。その時に、どれだけ記憶を離れるかが勝負どころです。理解もしていないのにただ覚えている暗記と、暗記言語の組み合わせだけでは、人間は真に宇宙自然を観ているとは言いませんし、自分自身も観ていません。 繰り返しますが、学術の土台、その根底は、「見る」という事、観測するという事の思い込み、錯覚によって、その土台が全て崩れ去っています。基本が崩れ去っています。 物理学者が、モノを説明できません。 数学者が、1を説明できません。 生物学者が、生物を説明できません。 分からないのに教えています。 分からないのに覚えさせています。 今、問題提起が必要な時です。 飛行機を創るとなると相当難しさを秘めている事をご存じでしたか?音速を超える為には、そう簡単ではないんです。つまり、一見すると飛行機を創るにはエンジンを変えればいいように思います。スピードを出して音速を超えていく。 ですが、エンジンを変えただけでは音速を超えて、安定的に空へと飛び立つ事が出来ません。部分的に何かを変化しても、飛行機は出来ませんでした。全てをオールリセットせねば、飛行機は出来上がらなかったんです。 人間の理解方式も同じです。 天動説で説明できないところを、部分的に補正する様な理論では全体は組みあがりません。全てをオールリセットしなければ、全体は構築不可能です。 天動説から地動説。 たった、その認識の変化だけで、西洋のルネッサンスと多様な学術が盛んになりました。 今は、学術に矛盾が生じている時です。 また、認識革命が必要な時です。 歴史を振り返りますと、知の爆発は二回起きています。 一度目は2500~2000年前の聖人たち・・・ 二度目は天動説から地動説に始まる西洋のルネッサンス・・・ 今が三度目です。 それは観術によって。21世紀の悟り。サムライの悟り。孫子流の悟り。完全に土台が誤っている学術的理解方式の全てを修正する観術的理解方式。抽象度が高すぎるレベルの低い悟りを明々白々な理解へ修正する観術的悟り。 これが第三の知の爆発です。 日本から始まる東洋のルネッサンス。 日本から始まる黄金時代。 2017年までには日本は大きく生まれ変わります。 楽しみにしておいてください。

noname#142902
質問者

お礼

あなたの回答は確かにその通りです。読んでいて納得です。結局、私達は何も知りません。世界を観測しても自分の頭が世界を創っています。 楽しみにしています。

回答No.44

zakky74です。 人間が共通してやっている事を大雑把に整理しますと、 1.認識(脳の認識のクセ) 2.判断(判断基準の問題性) 3.表現 となります。 一般的なコミュニケーションで起きている事ですが、パッと見た感じではコミュニケーションは表現と表現の出会いであるかの様に思ってしまいます。ただ、よくよく詰めてみますと、表現と表現の出会いも確かにありますが、表現を支えているのは判断です。そして、判断さえも支えているのが認識です。 一般に、深いコミュニケーションとか深い関係性というのは、判断と判断が出会う時を指す様ですし、悟りの世界にまで行くと、認識と認識が出会います。 面白い事に(と言いますか困った事に)、認識も判断もパッと見た感じでは見る事も聞く事も出来ません。それでいて起きている仕組み・メカニズムとは、認識は脳の認識のクセ1~3がありますし、判断は判断基準の問題性1~5が起きています。 これは、常に常に、今ここいつも、起きている仕組みです。 宇宙自然を正しく見ていません。 自分自身も正しく見ていません。 これは、人間が知っている事は一つも無いという事です。 人間が見ていると思ったものは、事実ではありません。 その人にとっての現実です。 ※事実。69億人全員が共通に観測する事柄。 ※現実。その人が観測する事柄。 人間が聞いていると思ったものは、事実ではありません。 その人にとっての現実です。 以下、同様にして・・・ 人間が五感覚を通して受け取ったものは、事実ではありません。 人間が脳の認識によって認識したものは、事実ではありません。 その人にとっての現実です。 それを前提として、判断を行います。判断も、その人固有の判断基準をもって、判断基準の問題性が働きます。 人間が、知っている事は一つもありません。 それを出発として、名前を付けて、因果関係を付けて、論理体系化を経て学問化し、そこに深みが帯びて思想(価値判断)、哲学(秩序認識)をして、理念・イデオロギーの段階、更に深まり宗教・信仰、更に超えて悟り・瞑想・霊性へと到達しましても、実は出発は何も知りませんし、到達しても何も知りません。 仏陀は地球が回っている事も知りませんでした。 人間が、知っている事は一つもありません。この事を最もよく語ったのが、ソクラテスです。人間は、一体どれほどの事を知る事ができるというのか?知ったつもりになってはいても、更に突っ込んで聞いてみれば何一つとして知っている事(理解している事)はないじゃないか? 無知の知ですね。 知っている事が一つも無い。だからこそ、知ろうとする意欲、知的欲求や悟りの欲望が生まれます。その姿勢こそ、本当の追求や人間の生きる姿勢があるのではないか?という様な投げかけですね。 本当は知らないのに知っている・・・という知の完全性が普通です。ソクラテスはここに、本当は何も知らないという事を知っている・・・という知の不完全性を説きました。この知の不完全性があるからこそ、同時に芽生えてくるのが無知の完全性です。 無知は、悪いことではなくて、真の知へと進む素晴らしい道具であり美しい道だという事です。 無知の知には、2つの側面があります。 それが知の不完全性と無知の完全性です。 観術は、世界初、歴史最初に、知の不完全性と無知の完全性を論理とイメージによって立証可能にした21世紀悟りです。今までの悟りとの大きな違いです。 ところで、今日は学術的理解方式(主に科学・物理学が先導)のウィークポイントを共有します。ウィークポイントとは、前提としているところが正に誤りであったという事を指して使っています。 学術的理解方式は、現実が絶対正しいと無意識で信じています(理解ではなく信じるというところが可愛いですね。科学者は最後には、信じる・・・とよく使います)。そこが揺らぐ話です。 以下の1~3に対して、思い込み・勘違い・錯覚の現象が起きています。 1.認識主体。物理的作用、自然作用を対象に及ぼさないとの思い込み。影響が無い!を前提にしている為に、もし影響があった場合は土台から覆ります。その時、現実画面は絶対正しいと言えるのでしょうか? 2.認識対象。永続的に存在しているとの思い込みがあります。対象が永続的に存在していない場合は覆ります。なのに、それを考慮しないままで論理を展開します。既に破綻していますのに。 3.認識背景。認識する際の環境が、現実画面に大きな影響を与えている事がお構いなしです。光や重力の条件を無視しています。 学術的理解方式の前提。 科学・物理学の基本。 そこが揺らぎます。 その状態でもb-w-stepさんは知が完全、現実は絶対と思いますか? 見えるものは正しいですか?

noname#142902
質問者

お礼

今回も分かりやすい回答、ありがとうございました。知などもろいものです。『人は信じたいものを信じる』という言葉があります。その通りです。誰もが現実を少しずつ自分の都合の良いように解釈しています。 そもそも『見ている』のも頭の中で処理した情報です。処理の仕方自体が正しいかどうかも分かりません。もっと言ってしまえば、私達は真実を脳というフィルターを通して見ているようなものです。 確かに仏陀は地球の自転すら知らなかったですね。言われてみてハッとしました。 お礼が短くてすみませんが、また勉強になりました。ありがとうございました。地震などもあり、色々とごたごたしている中で丁寧に有難うございました。

回答No.43

zakky74です。 >日本が奪略の起こらない国、というのは実は凄いことだったのですね。個人的には略奪が起こらないのが当たり前だと思っていましたが、逆に驚きました。 悟ってみればよく分かる事なのですが、日本はとても特別な国です。 例えるならば、国レベルで悟っている、といった様なイメージでしょうか。ホント、日本というこの国は、全世界から観た時にも、人間から観た時にも、とても重要な役割を担ってきました。 また、これからは更に重要な役割を担っていく事でしょう。 今から、悟りが当たり前の時代、悟りが日常、悟りが常識、悟りが出発・・・全ての人が悟る道が開けてきますが、その役割を国レベルで担うのは、間違いなくこの国、日本です。 >しかしその分類は『人間が』成したものです。・・・あくまでも『人間の概念』ではないでしょうか。・・・厳密に言えば私達は毎日新種の人間と会っています。 全く仰る通りです。 そして、脳科学を突き詰めてみても、よくよく理解出来る事です。 >結局、社会と言うものはルールがあり、悟りに適した社会はなかなか無いようです。残念ですが……。また、『生きる』ことを第一の目標とするこの世界では悟るのは難しいです。 今まではそうでした。それは、悟りに適さない学術的理解方式が文明のメジャーであったからです。ですが、今からは違います。明確に違います。もはや、これ以上は学術的理解方式では理解できないし整理整頓できない事が多くなりすぎてしまいました。 ところが、理解できない、整理整頓できない・・・などと言っている場合ではありません。様々な問題を解消解決する為には、理解も整理整頓も起きなければ、地球を何回も破壊できてしまう程の道具や技術が生まれてしまっている今の状況を、ただ見守る事しかできなくなってしまうからです。 それは文明の死であり、人類の死です。 >地震などでてんやわんやなのですが、この忙しいときにも回答してくださってありがとうございます。またよろしくお願いします。 いえいえ。 真に重要な事は、学術的理解方式では少しも進む事のできない今の状況を打破する一歩を、一日一日、積み上げていく事ではないでしょうか? 繰り返しますが、確かに今までは悟りにくい社会であり、悟りにくい文明であったろうかと思います。ですが、技術が悟り、悟りの技術化が起きた観術が日本に登場したからには、これからは違います。 全ての問題の解決は、観術から始まるので楽しみにしていて下さい。 前回の投稿では、脳の認識のクセについて触れました。悟りにくい理由とは、五感覚脳の認識に依存する認識方式のみを使っている事です。悟る事は、差を取ることなのですが、脳の認識のクセが 1.部分だけを取る 2.違いだけを取る 3.過去のイメージと繋げて取る がありますので、差を取るどころか、益々差が生まれてしまいます。と言いますよりも、五感覚脳の認識によって差が生まれていると言っても過言ではありません。 そして、その事を確認する事がとても重要です。 次にやっかいな事が、認識の次に起きる判断です。判断にも問題があります。それが、判断基準の問題性5つと言っておりまして、 1.人間は誰もが判断基準を持っている(だからエゴの執着を超えれない)。 2.その判断基準は、一人ひとりバラバラ(だから人と人は分かり合えない)。 3.かといって一つにさせたら更に問題(ファシズム・宗教・ロボット・機械)。 4.人間の判断基準は不完全(だから何と出会っても満足しないし限界)。 5.無意識で自分の判断基準を完全だと思っている。 この1~5の判断基準の問題性を抱えたまま、その判断基準に観点が固定されています。そして、その観点から1回も、1秒も離れた事が無いのが人間です。 その状態で、人間は集団で生きなければなりませんし、社会や文明に育まれていきます。この事の意味はどういう事でしょうか? 無秩序だという事です。人間の出発は、カオスだ!という事です。 この判断基準の問題性を解決しないままで、何をどの様にやってみても、無秩序のままですし、問題を一つも解決した事になりません。今まで人類が500万年のも間、一回も解決された事のない課題が、この判断基準の問題です。 21世紀の悟りとは、この判断基準の問題性を解決できるものでなければなりません。 認識に問題がありました。 判断に問題がありました。 人間は、色んな表情・言葉・行動をします。 そして、色んな思考・感情・イメージを持っています。 それは全部、この認識と判断の土台の上で行われている事です。 認識の問題性、判断の問題性、これをいかにして超えるかが21世紀悟りの課題であり、孫子流の悟り、昼の悟りです。 如何でしょうか?

noname#142902
質問者

お礼

確かに日本人は倫理面でかなり優れていると思います。欧米はキリスト教などははやっていますが、実際は日本人よりも意地が悪いと感じます。 仏陀は人生は苦、ジャイナ教でも同様に考えていましたが、人間に対しても無秩序、という事柄を悟るのは一種の悲しみが含まれますね。そもそも人間は無秩序であり、争いが起こること自体が自然である、と考えた方が良いのですね。 今回も勉強になりました。人間はそもそも無秩序であることを肝に銘じます。

回答No.42

お久しぶりです。zakky74です。 地震の影響などはございませんでしたでしょうか? 僕は東京におりましたが、かなり激しい揺れと、長い時間揺れておりました。 地震によって失われたものは非常に多く、しかも未だ予断を許さない状況下であるといいますが、しかしこの地震を通して、日本文明の素晴らしさや日本のポテンシャルの高さを観た気がします。 前回の投稿では、絶対世界と相対世界について定義を問われましたのでお応えしました。今日は、そこに少し書き足したい事がございます。それは、絶対世界とは相対世界を説明できるものであるかどうか、という事です。 よく、絶対世界と相対世界は別個のもの、分離されたもの、として理解される(と言うよりは暗記される)事が多い様ですが、僕がお伝えしている絶対世界とは相対世界を説明できるものとして規定しています。 今まで、絶対世界の事を語る人は歴史上にもいました。 ですが、絶対世界から如何にして相対世界が生まれているかについて語っている人はおりませんでした。ですから、絶対世界と相対世界は暗黙の内に分離されたものでお互いの関わりなどないとする事も結構多く見受けられます。 何故、それが起きるのかと言いますと絶対世界に対する規定が出来なかったからです。絶対世界、或いは1に対する明確な規定が出来なかったからこそ、その1からどうやって2が生まれたのかを説明できませんでしたし、その絶対世界からどうやって相対世界が生まれたのかを説明できませんでした。 観術は、絶対世界や1に対する決めつけを明確に為しえた事、そこから相対世界や2がどうやって生まれたのかを論理とイメージで語る事ができるものです。今まで僕が投稿した質問や問いかけは、観術は全て明らかにしている質問であり問いかけです。論理とイメージによって語るものですから、説明責任を果たせると言っています。 次に脳の認識の方に移りますね。 人間は、誰もが皆、五感覚脳の認識による認識活動を行っています。その脳の認識にはクセがあります。その認識のクセが前回の投稿でお伝えしました3つのクセです。 その認識のクセによって、存在を認識していますが、その存在を認識する際に、人間の認識が働いた結果としてそこに存在が存在している事を多くの人は知りません。 その状態で人間が共通に行っている事を紹介します。 存在を確認する。 名前を付ける。 覚える。 因果関係を規定する。 覚える。 因果関係に基づき、体系化を行う。 覚える。 脳の認識のクセは、 1.部分だけを取る 2.違いだけを取る 3.過去のイメージと繋げて取る がありますので、 1.全体は取れない 2.共通を取れない 3.今ここリアルを取れない という限界が生じます。 まずは、この脳の認識のクセが常に常に働いている事を自覚するだけでも相当に前進なのですが、前回もお伝えしましたとおり、認識活動そのものを認識できないという理由によって、頭では分かっても中々ピンと来ないというところに厄介さがありますね。 その厄介さは今はおいておくにしましても、脳の認識のクセによって如何に宇宙自然を見ていなかったのか、如何に自分自身を見ていなかったのか、という点に気付く事がとても大切な第一歩になってくるかと思います。 如何でございましょうか? 悟る事が難しい理由が観えてきますでしょうか? 悟る事がどういう事なのかが観えてきますでしょうか?

noname#142902
質問者

お礼

お久しぶりです。 地震は何とか大丈夫でした。 日本が奪略の起こらない国、というのは実は凄いことだったのですね。個人的には略奪が起こらないのが当たり前だと思っていましたが、逆に驚きました。 名前をつけて覚える、などというのは人間的だと思います。学問は『人間が創ったもの』という印象があるからです。生物には種があり、分類されています。しかしその分類は『人間が』成したものです。全ての固体はDNAが違います。その違いの中で似ているものをまとめて名づけています。よって、生物種というのはあくまでも『人間の概念』ではないでしょうか。少し前にさかなクンが新種の魚を発見した、とありますが、あれも新種というのは『人間にとっての新種』であって、厳密に言えば私達は毎日新種の人間と会っています。 結局、社会と言うものはルールがあり、悟りに適した社会はなかなか無いようです。残念ですが……。また、『生きる』ことを第一の目標とするこの世界では悟るのは難しいです。 地震などでてんやわんやなのですが、この忙しいときにも回答してくださってありがとうございます。またよろしくお願いします。

  • KomiyaYui
  • ベストアンサー率29% (7/24)
回答No.41

東洋思想の源泉は「謙譲」の思想に有ります。

noname#142902
質問者

お礼

その様な思想は初めて知りました。 ありがとうございました。

回答No.40

zakky74です。 > あなたの回答は毎回読んでいて成る程と思います。これからもよろしくお願いします。私だけでなく他の方々も期待していますから……。 時々出てくるこの表現なのですが、一つ確認しても良いですか? これは実際に、b-w-stepさんの身近に顔見知った知人や友人、或いは家族の様な方がこのQ&Aを見ているという事でしょうか?それともb-w-stepさんが直接は知らないけれども、インターネットという特性によって、不特定多数の皆さんが見ているという事でしょうか? > 仏陀やイエスなどの悟りは夜の悟り・・・人間に+をもたらすのではないでしょうか。 悟りから観ますと、善も悪もありません。 それは恐らく、b-w-stepさんの悟りに対する解釈がどこか違っているのだと思います。 悟りをひもで例えるならば、もうこれ以上は解けないところまで解けきった状態の事を指しています。全ての絡まりが解けて一本となった時に、絡まりの「差がとれる」んですね。差をとっているんです。差がないんです。 善も悪も、有と無の様に、まだ差があります。ひもが絡まっている状態です。 悟りから観れば、善も悪も、有も無も、絡まりですし複雑です。 > ところで絶対世界と相対世界の定義を教えてもらえると嬉しいです。あなたのいう絶対と相対は何に対する用語なのか明らかにしてもらえると他の方も理解しやすくなると思います。 絶対世界は、条件・状況・環境に変わらない世界の事です。数字で例えるなら、1です。ひもで例えるなら、絡まりがなくて、もうこれ以上は伸ばす事のできないスッキリした状態です。 相対世界は、条件・状況・環境によって変わる世界の事です。数字で例えるなら、2です。ひもで例えるなら、絡まりがある状態で絡まりの始まりと終わりが分からない様な複雑な状態です。 絶対世界には、臭いも臭くないもありません。 悟りには、臭いも臭くないもありません。 b-w-stepさんは、2を持って1を理解しようとされているかもしれません。僕はその様に受け取っています。もし違うのでしたら、仰って下さい。 確かに、2を持って1を理解する道はございます。というよりも、それは観術そのものです。ですが、その2がどういう2であるのかがとても大事です。1によって生まれた2でしたら、その2によって1を理解・説明・納得する事が出来ますので、人は明確に悟りを得ます。その2は、悟りの道具となるでしょう。 ところが、僕は断言しますが今までの悟りには、1によって生まれた2ではありません。2から出発した2です。これは大きな違いです。1から出発した2だから1に帰れるのですが、2から出発する2は永遠に2です。1には帰れません。2ですから。 それが、今までの全ての悟りが夜の悟りに留まっていた理由でもあります。 同時に、真の意味で差を取る事が出来なかった理由にも繋がります。 1と2を、行ったり来たりできる事が、次元上昇した悟りであり悟りの科学化です。 そんな次元上昇した悟り、或いは科学化された悟りから観れば、善は悪を含みますし、悪は善を含みますよ。また、そうでない事もありますよ。重要な事は、善や悪に留まっている事は、未だ固定・執着・Close・分離の状態だという事を明確にイメージ出来るかどうかですね。 そのイメージがあれば、○×できない人間が育ちますし、○×しない人間に溢れます。今日は、○×してしまう人間のクセ、○×から逃れられない人間の習慣について、軽く触れてみたいと思います。 人間の脳の認識は、3つのクセがあります。 1.部分だけを取る。 2.違いだけを取る。 3.過去のイメージと繋げて取る。 これは、人間の脳の認識に常に起きている認識のクセです。 この事だけを理解するだけでも、実は相当数の事が理解できますね。 例えば、ひもの絡まりという部分だけを取るんですね。 そして、ひもの絡まりと絡まっていないところを違いで取るんです。 そこに、名前を付けて、因果関係を決め付けていくんですが。 脳の認識のクセが働く限りでは、 1.全体を取れない。 2.共通が取れない。 3.今ここリアルが取れない。 という限界が生まれてしまう為に、人間の脳の認識に依存した状態では、全体・完全にも出会えませんし、共通と出会う事が出来ないんですね。これが、悟りにくい理由です。というか、悟れない理由です。 人間の脳の認識のクセによって、真実とは出会えない様になっています。 人間に共通に働いている仕組みです。 やっかいなのは、「まさに認識している瞬間」を認識できない事です。 だから聞いてみてもピンと来ない方も多いですね。 ですが、この観点から観てみると、相当数の事が整理できますし、理解・納得する事が多いです。

noname#142902
質問者

お礼

いえ、他の人にはQ&Aは見せていません。不特定多数の人が見ているだろうと思って書いています。恐らく他の人も楽しみにしているはずです。 これからも回答を楽しみにしています。

回答No.39

zakky74です。 前回は、文字数制限の為に、実は途中段階で話を終える事となりましたが、続きを書き足したいと思います。 悟りには、昼の悟りと夜の悟りがあります。 多くの悟りのイメージは、その全てが実は夜の悟りです。愛・平和・幸福・癒しという現場の中に悟り・真実・絶対世界を持ち込むという意味において、聖人たちは皆、夜の悟りの実践でした。 先にお伝えしました通り、観術は昼の悟りで勝負する意志があります。昼の悟りとは、孫子の悟りです。孫子は、人間と人間が戦うという戦争の現場において、道(タオ)を得ている者の勝負を語っています。戦争を、そもそも起こさせない様にする道、戦争の被害を極めて最小限に抑える道、戦争と言う現場の中であっても、人間の日常と言う現場の中にあっても、その中に積極的に入り、その環境下の中からでも平和を実現する選択をしています。 現代流に言い換えれば、相対世界を無視せず、人間の現実世界の中に積極的に入り、争いや戦いの中に身をおいてでもその環境下から戦争を終わりにさせて平和を実現させていく勝負、二度と戦争が出来ない人間づくり、戦う事、○×する事が出来ない人間づくりを行うという事に成り代わるかと思います。 観術は、絶対世界と相対世界との橋渡しを行う技術であり、絶対世界・相対世界を同時に観る事が出来る認識技術です。どちらの世界も、行ったり来たりしますので、当然五感覚を活用した道を案内するものです。 五感覚を使いながら、五感覚を離れる技術です。 言語を使いながら、言語を離れる技術です。 脳の認識を使いながら、脳の認識を離れる技術です。 相対世界を使いながら、相対世界を離れる技術です。 孫子の様に、戦いの中に身を置きながら、積極的に戦いを離れていく道を選択しています。 >五感覚が悟りを妨げている面は否定できません。しかしその五感覚を上手に使って悟りに導くことは出来ないのでしょうか? 五感覚を否定するのではなく(否定も大事ですが)上手に悟りの手段と出来ないのか、と考えてしまいます。 観術は、論理とイメージによって悟りを伝達するものです。 また、悟りを立証する意味でも、全ての相対世界に起きる現象について説明をするものですね。つまり、神・空・道・Oneness・エネルギー・SomethingGreat・・・名前は何でも良いですが、その真実・絶対世界・一つに到達したのでしたら、そこから一体どうやって複雑が生まれたのか、そして物理学・数学・化学・生物学は基より科学全般が明らかにしてきた現象を全て説明した上で、なおそれらの未解決問題をも解決すると言うんですね。 それだけの事を果たさない内に、真理・真実とは言えないのではないでしょうか? また、理解・納得はもちろん、共有・共感も果たせず、活用などは夢のまた夢です。 >『本当の善とは悪を否定するものではなく、悪を赦して包み込むもの』と私は考えています。そこで『本当の悟りとは五感覚を否定するものではなく、五感覚をも上手に使いこなすもの』と考えてしまいます。 ですから、五感覚を使いながら五感覚を離れる道は既に開けています。b-w-stepさんの仰る通りですし、善悪の判断基準の中に入りながら、善悪判断基準から離れる事が出来ます。ニーチェが指し示す事が出来なかった善悪の彼岸を、五感覚も一部活用しながらも超えていくという、非常に美しくて艶やかな道があるのが、今と言う時代、この日本です。 >仏陀も五感覚を使った説法をしても良かった気もします。この世には完全なものは恐らくはありません。だからこそ何事にも抜け道があります。五感覚バリバリでも悟りに至る道が無いのか、と考えてしまいました。 できるならば、彼もそうしたかったでしょう。 ですが、夜の悟りに留まっている彼の状態では、昼と夜を回し循環させる事は無理です。仏陀だけでなく、老子・ソクラテス・イエスキリストを含めた多くの聖人・覚者たちの共通の限界はそこです。 しかし、2500~2000年ほど前の状況下・環境下でそこまで求めるのは、さすがに酷なのではないでしょうか?僕は、それまでの何百万年を思えば、相当に人類を進化させた素晴らしい先人たちですから、当時の到達点であったろうと思います。 あれから2000~2500年。 今と言うこの時代は、五感覚を喜ばせる知識・情報・技術・産業・商品・社会・文化・文明が盛んですよね。ですから、その事を分かりながら悟りに取り組まねばなりません。 僕が、今までの悟りでは限界だという一つの理由です。 b-w-stepさんの仰る事は尤もです。現代流の悟り、現代版の悟りが必要な時です。それは、五感覚さえも明々白々に説明を果たし、人間の欲求をうまく使いながら、かつての聖人たちを超えていく悟りが現代です。

noname#142902
質問者

お礼

 仏陀やイエスなどの悟りは夜の悟り、というのは成る程と思いました。夜の悟り、は言い方を変えれば『癒しにとどまる悟り』とも思います。キリスト教では『敵を愛せ』と教えます。しかし現実では敵を愛するだけでは簡単に陥れられてしまいます。神が助けてくれても『島原の乱』や『踏み絵』などによって哀れな末路を取ったクリスチャンもいます。私はこれらの教えは『善』だと思います。つまり『夜の悟り』は『善の悟り』であり『癒しの悟り』ではないでしょうか。勿論、出来うる限り敵を愛して生きたいと私も思います。しかし善として生き抜けるのならばその人生は非常に恵まれているといえます。  この世では善は半分に過ぎません。残りの半分は悪です。憎しみ、恨み、妬み……それぞれを無視した感のある悟りでは良くないと思います。その様な『悪』をも使う(使わなくてすむのが一番ですが……)のが真実の悟りではないでしょうか。臭いものにふたをするのではなく、時には臭いものをも利用する。『馬鹿とはさみは使いよう』と言いますが、人間の醜い感情も使い方を間違えなければ人間に+をもたらすのではないでしょうか。  ところで絶対世界と相対世界の定義を教えてもらえると嬉しいです。あなたのいう絶対と相対は何に対する用語なのか明らかにしてもらえると他の方も理解しやすくなると思います。  あなたの回答は毎回読んでいて成る程と思います。これからもよろしくお願いします。私だけでなく他の方々も期待していますから……。

  • miko-desi
  • ベストアンサー率19% (69/352)
回答No.38

何か働きかけをするとしても、何か言うにしても人に何か想われてしまいます。 いかなる行為も受動的な「手ごたえ」を期待しちゃいますからね。 文法的に「助ける」「想う」ことは人生の能動態であっても、 存在論的には「受動態」が人生の総体になるのです。 仏陀は生前にも増して死後に!沢山の人に感銘を与え続けているので 存在論的に今も能動態として「生きている」んです。 >この世の物事は+と-を計算すると大体0になりませんか?  しかし仏陀でさえ飲み込めなかった式があります。では!(逃)

noname#142902
質問者

お礼

仰るとおり、見返りを完全に期待しない奉仕は無いのかもしれません。奉仕しておいて見返りが無いと内心失望したりすることもありそうです。 仏陀の式は気になります。

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