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          生きることの魂

生きている当体、つまり、我々自身のそれぞれに魂があり、いろんな生物それぞれに魂があるという考え方が、魂へのアプローチとしては一般的でした。 今、 生きることの魂と名打ちましたが、生きることに、魂があるのではないかと、私はふと思いました。   生きる者の魂ではなく、私に宿る、個体に宿る魂ではなく、生きることに宿る魂という風に考えた場合、今まで難関だと思っていた、生きることの意味や、世界の存在する意味への挑戦が、別のアプローチからの衝撃で、少しやわらかくなったような気がしないですか?やりやすくなったのではないかと。 どうでしょう? 感想、ご意見、お待ちしています。

noname#6163
noname#6163

みんなの回答

noname#5973
noname#5973
回答No.6

こんにちは。 感想でも良い。と言うことですので甘えて... おもしろいとおもいます わたしは、『人間が生きる事の意味』よりも, 「自分がどういう風ににいきるか?」の方が重要と思うものです(哲学むきではないと思います) だから,哲学の答えその物をさがしたいのではなく, 自分が今生きてる、これはどう言うことなのか ということの方が,私にとっては重要なんです なので、「生きてる事自体に魂が宿っている」,というのは 生きてるものを中心に扱っているので,かなり、面白いと思いましたし,好きな考えです 非常に優しくしてくださったかたが, なくなったのですが, わたしは彼の声や 手の温かみをまだ はっきりと覚えています. 体はないけれど,彼は いろんな人の 頭の中で生きていると言えなくもない. でも,もう質問する事も,答えてもらう事もできなくて, (新しく関わりを持つ事は出来ない) そうかんがえると、彼は「生きてる事の魂」は失っていて... でも,逆に,かおもみたことがない, もう亡くなっている人の書いた物を読んで, 生きている自分の心が揺さぶられる事もあります. これは、まだ説明できなく,矛盾を感じます... と,回答というより,逆に,質問になってしまいましたが...

noname#6163
質問者

お礼

>おもしろいとおもいます そうでしょう。ありがとうございます。 私はむしろ、こちらのアプローチの方が、オーソドックスだと思っています。   >非常に優しくしてくださったかたが, なくなったのですが, わたしは彼の声や 手の温かみをまだ はっきりと覚えています.   あなたは得たのでしょう。彼の存在した、風景を。   生きることの魂は、失われることが無い。 それこそ、魂が本来もっていた意味では無かったでしょうか。 彼が失ったのは、生きることの魂ではなく、彼自身であるのでしょうし それは、あなたにとってもそうであり、あなたが失ったのは、彼自身であり、生きることの魂を失ったわけでは無いでしょう。   >「自分がどういう風ににいきるか?」の方が重要と思うものです(哲学むきではないと思います)   それでいいと思います。 >これは、まだ説明できなく,矛盾を感じます... と,回答というより,逆に,質問になってしまいましたが...   心地のいい文章を、書く方だと思いました。   もう、彼と新しく関係を進めることはできない。なぜなら、彼は亡くなったから   既に不在で在る存在の痕跡に触れ、自分が揺れる。   それは、もう、当然なことなのです。 当然だとしか、私にはいえない。   生きている彼と、死せる彼と、何処がどう違うと言うのでしょう? これは、儚い問かけです。 だから、私は居心地のよさを感じてしまったのかもしれません。 具体的な形在る存在のみが、魂で在るのでしょうか。  

noname#155689
noname#155689
回答No.5

素人考えでも何かを述べようと多少考えてみたのですが 理解力が足らないので「生きることの魂」という意味がよく分かりません。 (問題意識を共有できていないんだと思います。) 個々のレベル(あるいは個体毎)で魂を考えると >生きることの意味や、世界の存在する意味 が難しい、ということでしょうか? あるいは「魂」という概念にあれこれ価値を与えるよりも 生きること、を大切に考えようということでしょうか? 私は最初、そのように思ってしまったので 「生きることの魂」というのは「命」ということか? つまり「命の大切さを思おう」とか「なぜ命を与えられたのかを考えよう」 ということかな?と思いました。 命、としてしまうと議論が幼稚化、単純化しそうな恐れもあるので もう少し考え直すと、例えばNo.4の方が書かれている >言霊とかと同じような行為に宿る魂と解釈される といったことかなぁ、と。 言霊、という言葉に私が引っ掛かったのは 聖書の中の(どこに出てくるか?は忘れましたが有名だと思います) >はじめに言葉ありき の部分の解釈が割れると聞いたことを思い出したからです。 神を「唯一絶対人格神」とするとき、この「はじめに言葉ありき」が 矛盾しやすいんだそうです。 言いたいことが上手く言えませんが ちょっと話を飛躍させると >生きることの意味や、世界の存在する意味 をあれこれ難しく考えてしまうのは イデア信仰とロゴス主義がイケナイんであり その底には「唯一絶対人格神」がいて つまり、近代西洋に至る考え方の問題ではないか?と。 そう思うと、No.1の方が書いている >生きている人間そのものが魂 というのも釈迦の悟りに近いように思いますし No.4の方が上げていますが ニーチェ以降、特にマルクスやレーニン 特に(変革の)「行動」に本質を求めたレーニンに近いのかな? と思ったのですが、どうでしょう。 再び話を脱線させて、キリスト教の三位一体論を持ち出します。 三位一体論は過去フェリオクエ闘争が起こったぐらいに ネジまげられたり、書き変えられたりしたものが普及しているのだどうですが 私が聞きかじった知識で、グノーシス的に解釈すれば 生きている当体の魂、といのは「子のペルソナ」 生きることの魂、というのが「父のペルソナ」 なのかなぁ、と。 何だか解釈ばかりあれこれ持ち出して 私の考えが全然出てきませんが もし、私の解釈がさほど外れていなければ >やりやすくなったのではないかと。 いや、現代思想や仏教やキリスト教の原理主義は たいていおかしな方向へ行ってしまっているではないか、と ちょっと危惧します、というのが私の考えなんです。 >少しやわらかくなったような気がしないですか? やわらかいと庶民は満足しないような気がする・・・ 私は「生きること」や「世界の存在」に「意味」などない 「ただ存在する、という事実があるだけだ(はじめに言葉ありき)」と考えるタイプですが (このサイトの人生相談や恋愛相談では)なかなか受け入れてもらえないようです。 ローマ・カトリックは オリジナルの三位一体論があまりに難解で布教に向かないと考え この部分の伝書を書き変えてしまった、というのが フェリオクエ闘争の原因だったと記憶しています。 無駄口ばかりで何も前進しそうもないので この辺りで失礼いたします。

noname#6163
質問者

お礼

素人であろうがなんであろうがかまわないです。 勉強になりました。ありがとうございます。   >イデア信仰とロゴス主義が・・・近代西洋に至る考え方の問題ではないか?と。   あれらはあれらで悪くなく、別に、難しいことが悪いことでは無いんです。 価値観を混ぜるなという考え方は、むしろ近代西洋的ですし、それは、釈迦の中庸と、意味(効果)は同じです。できるだけ間違わないように、しているのです。 ナニナニが好くない結果の原因だから、ナニナニはよくない(例えば原理主義、例えば封建制)。 これは、気持ちは分かりますが、中庸でも科学的でもなんでもなく、論理的なだけであり、しかも、その論理はここでは価値観で動かされています。 そういう思考は、一時、ほんの一時効果を発揮しても、その場しのぎであり、視野がきわめて専門的で思考範囲を限定的であるように強要するといってもいいとおもいます。 細かく見ているようで、実は背後に自分存在や、なんらかの価値観が存在しています。 価値観というものは比較によって作られるもので、絶対的価値観などは存在しません。 絶対者などといちいち言うことは、論理的に見ておかしいのです。 その絶対者は、結局、他の何かと比べられて選択され、絶対者に上り詰めた者だからです。いつでも失墜の脅威にさらされています。つまり、絶対者は、絶対者の名辞どおり機能していません。それは、論理的に間違いです。   生きることの魂は、別に、権威争いに関わっている見方でもなければ、個人的価値観に左右される見方でも無い、論理を逸しているわけでもないし、日常離れ(宗教や学問、専門、現代社会の有様のように)していることも無い(たぶん)ので、ほどなくわかる。 言い回しも簡単。 そんなものかな?と思い、一応そんなつもりで質問させていただきました。ありがとうございました。

noname#6163
質問者

補足

>個々のレベル(あるいは個体毎)で魂を考えると >>生きることの意味や、世界の存在する意味 が難しい、 >ということでしょうか?   というよりも、個々の魂、というような思考を使って難しく、さらに+生きることの魂というような思考を使っても、簡単ではないのですが、まぁ、ちょっとくらいはいけそうな気がしませんか?というような意味です。 ダブルアプローチという意味でとってもらってもかまいません。 >あるいは「魂」という概念にあれこれ価値を与えるよりも生きること、を大切に考えようということでしょうか?   そうではありません。価値を与えることが、概念を考えることが大切な場合もあると思います。 そういう、場合わけの思考は、個々にやどる魂、自分の生き方、そういうアプローチであり、「生きることの魂」という概念とは立場が違います。 生きることの魂というのは、考え方であって、こうしようああしようという話ではなく、こういう考え方、こういう見方ってどうなんでしょう?よくないですか? という質問です。   >私が聞きかじった知識で、グノーシス的に解釈すれば生きている当体の魂、といのは「子のペルソナ」 生きることの魂、というのが「父のペルソナ」 なのかなぁ、と。   ポピュラーな印象がなくなってしまいますが、分からなくもありません。「生きることの魂」から、↑の解釈は、稀につながるかもしれません。 >原理主義・・・ちょっと危惧します、というのが私の考えなんです。   生きることの意味、世界存在の意味と、原理主義とは、実は、論理的にはつながら無いと思います。 ~主義という発想が、私から見ると、個々の魂、相対的発想で、既出のものです。 主義という時点で、それは既に相対論の中にあるものと、私は認識しています。 いかに、論理的制約を受けずして、論理の力を発揮するかという試みも、「生きることの魂」には、含まれているのかもしれません。 一歩歩けば、すぐに原理主義ないし自分主義、そういった偏りに転落してしまいそうなのは、そういう習慣が、我々多くの人に染み付いているからだと思います。

  • netcatme
  • ベストアンサー率20% (76/371)
回答No.4

 「生きるとは生き残ることではない」という言葉を思い出しました。これはニーチェの言葉ではありませんが、生きる行為そのものの魂という言い方はニーチェに似ているのかなと思います。  ただ、魂が存在ではなく「魂とは行為である」というのに等しいものになりますから、言霊とかと同じような行為に宿る魂と解釈されるのではないでしょうか。ちょっと興醒めな解釈かもしれませんが。  とりたてて魂という言葉を使わず「能動的に生きることだけが存在に意味を持たせる」とかの言い方でもよいのではないかと感じました。

noname#6163
質問者

お礼

いや、興ざめどころか、遠くないと思います。 行為に宿る魂。 これは、生きることの魂ということに、的外れなわけではない。 ニュアンスが何か似た感じを受けます。 ニーチェはノータッチですが、そうですか。 ご回答ありがとうございます。 ただ、「能動的に生きることだけが、存在に意味をもたせる。」この言い方は、「生きることの魂」の意味とは、ちょっと遠いかもしれません。 重要なところが抜け落ちています。 なぜ、生きることが行為となるのか、その連続が私には常ではなく、はたして行為が能動か?といえば、そうとは限らない。能動が善きことか?意味のあることが善きことか?となると、ますますそうとは言い切れない。 むしろ、無関係なような気もします。 能動でありたいのか?意味があってほしいのか? 何か、好感触のいいイメージ、避けたい悪いイメージというものが、生きることの魂を考える上で、混じってきてしまい、思考にむらがでるのかなぁとも、少し思いました。  参考になりました。 ありがとうございます。

  • bunkou
  • ベストアンサー率0% (0/3)
回答No.3

 「生きること」という言葉の定義を詳しくしてもらいたいのですが、私なりに想像してみました。 1.生きるという行為。  行為は個体にコントロールされています。 2.生きようとする意志  意志は魂によって発せられるものではないですか。  私には、目的ではなく過程が重要だと言われているように聞こえます。  世界の存在する意味を理解することは、人間の領分ではありません。  私はどう納得して生き、そして死ぬかだけを考えながら生きています。  人間は不幸な動物ですね。野生の動物達は、腹が減ったら、弱い種を探して食べる。かわいそうなんて考えないし、そんな余裕もない。ほしいだけ食べたら、あす以降のことなど考えず、残して去る。ハイエナがそれをあさる。でも、自分を情けないなんて思わない。弱い種の動物は恐いでしょうね。でも、自分達が不幸だとは思ってないだろうし、仲間を食い殺した動物より強くなろうと努力したりしません。  人類もそんなに長くは、君臨できないと考えたくもなります。人類が滅亡して、困る人はいないと新聞に書いていた人がいました。つまらない詭弁を使ってふざけています。みんな滅亡する過程に存在することを恐がっているのに。  せっかくのアカデミックな題材の中に、全く的外れな意見を書いてしまいました。せっかく書いたので、送信します。気分を害されたらこめんなさい。

noname#6163
質問者

お礼

気分は害していないので、あなたがあやまる必要はありません。   生きることの定義をしてほしいとのことですが、 「生きること」に続いて、「魂」がふられているところが、ここに示したロジックの重要なところです。 人間がどうこう、ねずみがどうこう、猫がどうこうというのは、たしかに生を語る上での十分な材料にはなりますが、既出のものです。 それらを論じても、相対的にどうか?であり、科学の進歩にはなれど、いまいち、哲学としては私には意味薄です。   生きる意味や、魂、そういうものを論ずるに当たり、それら各々の立場で論ずることは、個としての魂を論ずるアプローチであり、その方法はありふれています。その方法もいいのですが、それ以外のアプローチとして、「生きることの魂」です。 >1.生きるという行為。  行為は個体にコントロールされています。   本当にそうなのでしょうか? 仮に、生きるということを行為の一種と位置づけて考えても、私が、私の行為一切をコントロールしているようには思えません。 2.生きようとする意志  意志は魂によって発せられるものではないですか。   どうでしょう。あらかじめ、魂はこういうものであるという想定の上で導かれた結論は、あまり意味を持たないようにも思います。 >世界の存在する意味を理解することは、人間の領分ではありません。    人間の領分というのは、可変であり、あえてその限界を定めてそれに従うことは、逆に、人間の領分を狭くしているようにも思います。 人間の領分、生きることの魂は、人間の領分におさまるでしょうか? 人間というのは、我々にたいする一つの見方であり、我々そのものは、さまざまな見方で見ることもできるのではないでしょうか? >せっかくのアカデミックな題材の中に、全く的外れな意見を書いてしまいました。せっかく書いたので、送信します。   よろしければ、何度でもご意見、お待ちしています。 ありがとうございました。

noname#6163
質問者

補足

質問と、御礼の補足です。 >仮に、生きるということを行為と位置づけて考えても、私が、私の行為一切をコントロールしているようには思えません。   ここで言う私の意味は、おっしゃられるような、個体という意味です。個としての私、または、私という個です。 個が、個の行為の一切を、無意識か意識的か、また、環境の変化に応じて、制御しているとは思えないという意味です。あくまで、制御していると見る、という、見方であり、事実を的確にあらわしたものではないと思います。 この題材(行為について)では、主的な個とは、能動とはどういうことかというその意味へも、言及が必要かもしれません。一切の行為が、その発露点を個体としているのか? これは、まだまだ言い切れないでしょう。 また、発露場所を個体としている行為も、全き個体のコントロールによるかというと、それも言い切れない。 また、その現象を、行為と見るのか否かで、話の原点に分岐の可能が見られます。 そういった、諸々の論理的制約を緩め、しかも論理の力を使えるアプローチとして、「生きることの魂」を提示させていただきました。

  • ticky
  • ベストアンサー率36% (123/337)
回答No.2

私は、魂というのは、ある人の存在は、とても貴重なものであり、それに対する我々の思いから発生するのだと考えます。 人一人一人の存在が貴重であるから、私の人生が他にはない貴重なすばらしいものであるから、、人の存在のコアを「魂」と呼ぶなら、永遠に違いない。こうして、魂の永遠性が生まれたのだと思っています。 おっしゃる「生きることの魂」。 新しいview pointですね。表現として的確だと思うし、全くの同感です。 良い名辞を手に入れました。ありがとう。ちょっと感激。

noname#6163
質問者

お礼

こんにちわ。 >良い名辞を手に入れました。 どんどんもってってください。   我々のもつ存在に対する思いが、その存在の魂を認めさせる。 「存在」を、生きることに置き換えれば、生に対する思いが、その生に魂をもたらすということでしょうか。   ご意見ありがとうございました。 魂は隠れている、という見方が今までにあったような気がします。 そういうようなアプローチからくらべて、別なアプローチもあっていいだろうと思い、質問させていただきました。   受け入れられたようで、うれしくおもいます。

  • trozky
  • ベストアンサー率9% (32/341)
回答No.1

創元SF文庫の「黙示録3174年」にカソリックの神父の言葉としてありましたが、人間に魂が宿っているのではなく、生きている人間そのものが魂だそうです。

noname#6163
質問者

お礼

プラトンがギリシャの詩人を批判したように、現在も、宗教的な発想は、根拠を共有できないという理由で、受け入れられがたいようです。 実際には、プラトンは詩に現れるその説得力、真実味、神秘性までを批判することはできなかったようですが、生きることの魂、これは、なんとなく誰にでも分かる、多少はあれど通じるんじゃないかと思い、質問させていただきました。 なぜなら、生きることの魂を論ずるときに、私や、個々、独我といったものを、引き合いに出す必要がないからです。   その神父の言いたいこと、また、なぜそういう言い回しを選択したのか、よく分かる気がします。 ありがとうございました。

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