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少し考えてみました2。たびたび申し訳ありません。もし良ければ意見を聞かせてください。
またもやですが僕はことばでいう「ある」「ない」について考えました。「心はあるのか」と考えるより何を「ある」というの言葉で表すのかを考える方が先だと思ったからです。 僕は「ある」「ない」のような対義語は表裏一体だと考えています。 なぜなら、例えば「荻窪にスペースシャトルはない」ですよね。ですが、「スペースシャトル」は存在します。存在する、ということは「置かれている場所」が必ずあるはずです。存在しない、となるとそもそも「ある」「ない」が問われません。以上から「ある」「ない」という考え方は「場所」があって初めて成り立つ考え方だと思います。僕は、「ある」というのは「そういう領域において’ある’」ということだと思います。つまり、「区分」です。 しかし「心」はどうなんだ?置き場所はないじゃないか?と聞かれたりするかもしれません。それについてはですね、僕は「人など」が「環境」や「個体」に反応するパターンみたいな物を「心」という言葉で表しているのだと思っています。マッチに火をつけたときの「炎のゆらめき」みたいなことです。 次に、そうだと仮定するとポイントは「個体」ということになるかと思います。私たちが「個体」や「環境」を感知できるのは皮膚や目などの「感覚器官」があるからです。もし皮膚の感覚、嗅覚がなくなり目も一方なくなったら、この世は「平面」「二次元」に感じられると思います。ということは、わたしたちが世界を「物」や「個体」のように感じられるのは、私たちの「感知できる」限界が「三次元」までだから、と考えることはできませんか?テレパシーが使える「触角」があれば、世界は「三次元+テレパシーによる感覚」という風にその人には感じられると思います。僕は、「感覚」というのも「三次元まで感じられる」「白黒の色まで」というような「区分」だと思います。 以上、「ある」「ない」は表裏一体、感覚は「区分」ということから、無限-実態不明の何かが常に存在し、(xとyのグラフが真っ黒に塗りつぶされた感じ)そこになんらかの意味を見いだす(感覚や言葉で領域を決めること)「私」だけがあると言えるかもしれません。また、「私」という感覚は「炎のゆらめき加減そのもの」だとすると「死」というのは、「感覚」などの「区分」が無くなり、「区分による個体と個体の反応」も無くなり、実態不明の無限に同化すると解釈できないでしょうか?さらに、このことで「幽霊をみた」(幽霊はその人の世界にだけ存在する)や「夢」「オカルトな体験」も納得できると思いました。(少々怪しくおもわれるかもしれませんが) 物の「構造」に限りがないこと(構造の構造)からも、やはり「領域を区分」しているだけなのでは? 皆さん、どう思われますか?。
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あなたにとって、「有」は本当にあると思えますか? この世のありとあらゆることを全て弁証法によって疑えば、 何も本当に「ある」と断言できることは無くなります。 これは科学で裏付けされているなどという言い訳ではどうにもなりません。 よって、全てを感じ意識しているのは「人間」という価値観においてです。 また時間を加えた四次元も感知しているのですが、 これは人の論理では判断できないとする方が見合っている気がします。 「ある」と「ない」の比較については書かれる通りだと思います。 「場所」は人の意識となります。学問は人の言葉でしか成り立たない次元のものだと思います。 経験と遺伝的な情報によって「ある」「ない」と脳が指令を出すのですが、 死は自己体験なので誰も理解できませんし、死後を語ることは意味のないことです。 それ故「区分による個体と個体の反応」とするのは少し理論が浅いように思います。 無限は「区分」では計ることができないということで、 宗教においてはその無限を「神」や「仏」として考えるところになります。 ただbaystars41さんの日常がそこに含まれていない時点で、空論です。 全ての学問も論も人が含まれていなければ成り立ちません。 学問は人の為に作られた学術なのですから。 この辺りは近代西洋思想では陥りやすい罠です。
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- cyototu
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伝統的な物理学が主張するように、この宇宙で起こる出来事が全て因果律でつながっている世界を想像してみて下さい。そのような世界では、今現在の貴方の中に、未来に起こる出来事の「可能性」があるわけではなく、完全に決まった何かがあるはずですね。何故なら「可能性」とは確率論的な世界でのみ意味を持つ概念であり、決定論的な世界での概念ではないからです。その場合、貴方の今現在の中に、これから起こる全未来がすでに存在していることになります。したがって、まだ起こっていないことがすでに存在していることになりますね。このような世界で「ある」と「ない」はどういう関係にあるのでしょうか。また、もしこの宇宙が本質的に確率論的に出来ているとしたら、そこでの「ある」と「ない」とはどういう関係にあるのでしょうか。30%の確率で雨が降るとしたら、その雨水はあるのでしょうか、ないのでしょうか。 「ある」と「ない」の意味は途轍もなく多面的ですね。