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この文章の要約がどうしてもできません…

この文章の要約がどうしてもできません… 長文で大変申し訳無いのですが、教えていただけると助かります ここに一人の人間がいたとする。彼が自分の属している言語圏から出て全くことなった言語圏に入ってゆくとしたらどういう変化が生じるのだろうか。それは、移り住んだ言語圏の言葉を多少知っていて、それを組み合わせ、あやつりながら生活するという程度ではは終わらない。彼の用いる言葉の一つ一つが言語圏と表裏一体をなしている歴史と生活体系の総体に根ざしているのであり、その結果、一つの言語を発し、もしくは一つのセンテンスによって他者を呼び、あるいは事物を指示すること自体がその歴史を含んだ生活体系の中で否応なしに強いられる体験の一つにほかならず、したがって、異質な体験によって自分の存在の根のこまかな末端まで洗われざるをえないということになる。この場合、自分の存在は、鋭敏となった感覚とほとんど等価である。一つ一つの何気ないような日常的な体験さえもが存在の核心にひびいてくるのである。そのようであれば、自分が発する言葉の重みは、それが生まれた歴史の深みと生活を持って、自分がただ必要としたいその言葉の有用性を正確に背後からうちのめすのである。それを知っているのは観念ではなく感覚である。だから感覚は言葉が有用性のみで生きてはいないことを直接的に知らせてくれるのである。 私は、時おり、外国に住むということは、草木が移植される状態に似ているように思う。つまり有機的な感覚体験が存在全体をゆりうごかすということである。新しい土壌に存在のこまかな根の先が、おののきながら極端に微細な感覚と化してはいりこんでゆくのである。その場合、言葉を用いるということは、よきしにしろあしきにしろもっとも確実な手ごたえを与えてくれる。 森有正の言い方にしたがえば「犬(いぬ)」は「犬(シャン)」とちがうのだという意味において、指示された視覚的には同一に見える事物や存在が言語圏の相違によって全くちがったものになるということである。その上、用いられた言葉は、たとえ日常的な些細な買い物であっても表面的な有用性において生きたのであってリアリティがあるわけではない。さながら符牒のような役割を果たしたにすぎない。そのように考えてみると、われわれは単純な言葉の背後にあるはかり知れない深みをあらためて気づかずにはいられない。言葉は幾層となく積み重なった過去のそれ自体の歴史と、その言語圏の生活体系の頂点に露呈しているのだということを感ずるのである。 このような体験は同時に次のようなことを示してくれる。つまり、その単純な言葉の深みを知るということが、逆に知覚したこの「私」なるものの実体をほとんど等価にあらわしてくれるということを。言いかえれば「私」とは遥かな歴史の集積の上に露呈し、個性という名辞で呼ばれた一つの輪郭をもつ存在にすぎないということである。「私」のなかに流れこんでいる「私」の住んでいた言語圏の歴史や生活体系の一切がこの「私」においてあらわれているという意味においての「私」なのだ。「私」とは無限に複数の「私」の前に生きた、そして「私」とともに生きている存在たちの集約としての「私」なのである。「私」は話している。そのことは同時に無限に複数の、通常的な「私」と共時的な「私」によって話されているのである。リルケルは『初期詩集』のなかで次のように歌っていた。 ぼくはひとりだったためしはない。 ぼくより前に生きて、 ぼくより先に別れてゆこうとした人々も、 ぼくという存在のなかに 生きていたのだ。……… ぼくには空間が必要なのだ、 一族全部が生きるに足りるほどの空間が。 このとき「私」という一つの名前を持ち、一つの顔立ちをした片々たる個性というものに何ほどの意味があるだろうか。われわれが外国に住んで見出す最初のものは、外の世界よりも実はこのような「私」ではないだろうか。しかし、もしこうした「私」を見出したならば、その「私」とは、たとえいかに矮小な存在ではあっても、外国のことなった言語圏の歴史とその生活体系の総体に優に匹敵しているのであり、拮抗している存在だ、とも言うことができるのである。われわれはこのようにして、外国の体験の一つ一つがわれわれの内部を掘り下げ、一個の「私」を突きぬけてかぎりなく字間の彼方にひろがる世界を開示してくれるのだということを理解する。「私」とは一個の「私」である以上に「私」の属する言語圏の歴史や生活体系そのものであり、伝統であるとも言うことができる。換言すれば「私」はヨーロッパならヨーロッパの内部に入りこんでゆくことができる。そしてこの行為が、あらためて、はじめてのように見出された「私」の内部に下降するようにと促すのである。

みんなの回答

noname#232424
noname#232424
回答No.3

さて, https://okwave.jp/qa/q9358598.html のほかに「セカンド・オピニオン」もでたことだし,満足しましたか 笑? まず,ぼくが「著者はだれか(書かないと著作権侵害になる)」,「字数制限はいくらか」と補足を求めましたが,あなたは学習してませんね。注意してください。 この問題は,世評で「難関大」とか「有名大」といわれる大学の人文科学系学科の,推薦入試で課された「小論文」だとぼくは推測しています。問1が「要約せよ」であり,問2が「課題文の内容をふまえ,あなたが本学科で学ぶに際しての心構えを述べなさい」みたいな設問でしょう? 大学公式サイトの入試情報では,小論文の過去問については「解答例は省略」とされていたでしょう。受験問題集にも掲載されていない。そこで,ここで質問するにいたった。 ぼくの採点者としての視点でみて,ぼくの解答例もNo.2の方の解答例も,いずれも「正解」です。ぼくが「人によって書き方は変わる」と述べた範囲内にありますが,どう違うかあなたにわかりますか。ぼくは,異文化に触れることで「私」がわかるという点を強調しています。いっぽう,No.2の方は,異文化理解に強調点があるように(ぼくには)読めます。 これを出題したのが「哲学科」でなどあれば,ぼくの解答例のほうが向いていると思います。いっぽう,「国際文化学科」などであれば,No.2の方のように読むほうが,問2は解答しやすいでしょう。すなわち,推薦入試であれば,国語力だけでなく「適性」も見られているのですよ。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率80% (9717/12085)
回答No.2

>この文章の要約がどうしてもできません… ⇒確かにむずかしい文章ですね。 推測や想像が混じったかも知れませんが、私は次のように読みました。 (要約) 外国へ行くということは、単に物理的に異なった空間に入ることではない。遠大な歴史の頂点でそれを全身に受け留めることであり、さらには私(自分)がその一部になるということでもある。そういう文化の中に生身で入って、有機的な感覚体験にひたることである。このような認識と行為をもってはじめて、私はその国の内部に入って行けるのであり、そこで「生きる」ことができるのである。そうすると、まったく違った風景が見えてくるし、私はそこから養分を取り込み、自己の内奥を深めることにもつながっていく。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.1

こんばんは。 「「自家製じゃないから」と言って、利用しないのは、愚かだ」

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  • この文章の要約がどうしてもできません……

    この文章の要約がどうしてもできません…… 長文で大変申し訳無いのですが、教えていただけると助かります💦  ここに一人の人間がいたとする。彼が自分の属している言語圏から出て全くことなった言語圏に入ってゆくとしたらどういう変化が生じるのだろうか。それは、移り住んだ言語圏の言葉を多少知っていて、それを組み合わせ、あやつりながら生活するという程度ではは終わらない。彼の用いる言葉の一つ一つが言語圏と表裏一体をなしている歴史と生活体系の総体に根ざしているのであり、その結果、一つの言語を発し、もしくは一つのセンテンスによって他者を呼び、あるいは事物を指示すること自体がその歴史を含んだ生活体系の中で否応なしに強いられる体験の一つにほかならず、したがって、異質な体験によって自分の存在の根のこまかな末端まで洗われざるをえないということになる。この場合、自分の存在は、鋭敏となった感覚とほとんど等価である。一つ一つの何気ないような日常的な体験さえもが存在の核心にひびいてくるのである。そのようであれば、自分が発する言葉の重みは、それが生まれた歴史の深みと生活を持って、自分がただ必要としたいその言葉の有用性を正確に背後からうちのめすのである。それを知っているのは観念ではなく感覚である。だから感覚は言葉が有用性のみで生きてはいないことを直接的に知らせてくれるのである。  私は、時おり、外国に住むということは、草木が移植される状態に似ているように思う。つまり有機的な感覚体験が存在全体をゆりうごかすということである。新しい土壌に存在のこまかな根の先が、おののきながら極端に微細な感覚と化してはいりこんでゆくのである。その場合、言葉を用いるということは、よきしにしろあしきにしろもっとも確実な手ごたえを与えてくれる。  森有正の言い方にしたがえば「犬(いぬ)」は「犬(シャン)」とちがうのだという意味において、指示された視覚的には同一に見える事物や存在が言語圏の相違によって全くちがったものになるということである。その上、用いられた言葉は、たとえ日常的な些細な買い物であっても表面的な有用性において生きたのであってリアリティがあるわけではない。さながら符牒のような役割を果たしたにすぎない。そのように考えてみると、われわれは単純な言葉の背後にあるはかり知れない深みをあらためて気づかずにはいられない。言葉は幾層となく積み重なった過去のそれ自体の歴史と、その言語圏の生活体系の頂点に露呈しているのだということを感ずるのである。  このような体験は同時に次のようなことを示してくれる。つまり、その単純な言葉の深みを知るということが、逆に知覚したこの「私」なるものの実体をほとんど等価にあらわしてくれるということを。言いかえれば「私」とは遥かな歴史の集積の上に露呈し、個性という名辞で呼ばれた一つの輪郭をもつ存在にすぎないということである。「私」のなかに流れこんでいる「私」の住んでいた言語圏の歴史や生活体系の一切がこの「私」においてあらわれているという意味においての「私」なのだ。「私」とは無限に複数の「私」の前に生きた、そして「私」とともに生きている存在たちの集約としての「私」なのである。「私」は話している。そのことは同時に無限に複数の、通常的な「私」と共時的な「私」によって話されているのである。リルケルは『初期詩集』のなかで次のように歌っていた。   ぼくはひとりだったためしはない。   ぼくより前に生きて、   ぼくより先に別れてゆこうとした人々も、   ぼくという存在のなかに   生きていたのだ。………   ぼくには空間が必要なのだ、   一族全部が生きるに足りるほどの空間が。  このとき「私」という一つの名前を持ち、一つの顔立ちをした片々たる個性というものに何ほどの意味があるだろうか。われわれが外国に住んで見出す最初のものは、外の世界よりも実はこのような「私」ではないだろうか。しかし、もしこうした「私」を見出したならば、その「私」とは、たとえいかに矮小な存在ではあっても、外国のことなった言語圏の歴史とその生活体系の総体に優に匹敵しているのであり、拮抗している存在だ、とも言うことができるのである。われわれはこのようにして、外国の体験の一つ一つがわれわれの内部を掘り下げ、一個の「私」を突きぬけてかぎりなく字間の彼方にひろがる世界を開示してくれるのだということを理解する。「私」とは一個の「私」である以上に「私」の属する言語圏の歴史や生活体系そのものであり、伝統であるとも言うことができる。換言すれば「私」はヨーロッパならヨーロッパの内部に入りこんでゆくことができる。そしてこの行為が、あらためて、はじめてのように見出された「私」の内部に下降するようにと促すのである。

  • この文章の要約がどうしてもできません……

    この文章の要約がどうしてもできません…… みなさんだったら、どのように要約しますか? できるだけ、本文をそのまま使う形でお願いします💦  ここに一人の人間がいたとする。彼が自分の属している言語圏から出て全くことなった言語圏に入ってゆくとしたらどういう変化が生じるのだろうか。それは、移り住んだ言語圏の言葉を多少知っていて、それを組み合わせ、あやつりながら生活するという程度ではは終わらない。彼の用いる言葉の一つ一つが言語圏と表裏一体をなしている歴史と生活体系の総体に根ざしているのであり、その結果、一つの言語を発し、もしくは一つのセンテンスによって他者を呼び、あるいは事物を指示すること自体がその歴史を含んだ生活体系の中で否応なしに強いられる体験の一つにほかならず、したがって、異質な体験によって自分の存在の根のこまかな末端まで洗われざるをえないということになる。この場合、自分の存在は、鋭敏となった感覚とほとんど等価である。一つ一つの何気ないような日常的な体験さえもが存在の核心にひびいてくるのである。そのようであれば、自分が発する言葉の重みは、それが生まれた歴史の深みと生活を持って、自分がただ必要としたいその言葉の有用性を正確に背後からうちのめすのである。それを知っているのは観念ではなく感覚である。だから感覚は言葉が有用性のみで生きてはいないことを直接的に知らせてくれるのである。  私は、時おり、外国に住むということは、草木が移植される状態に似ているように思う。つまり有機的な感覚体験が存在全体をゆりうごかすということである。新しい土壌に存在のこまかな根の先が、おののきながら極端に微細な感覚と化してはいりこんでゆくのである。その場合、言葉を用いるということは、よきしにしろあしきにしろもっとも確実な手ごたえを与えてくれる。  森有正の言い方にしたがえば「犬(いぬ)」は「犬(シャン)」とちがうのだという意味において、指示された視覚的には同一に見える事物や存在が言語圏の相違によって全くちがったものになるということである。その上、用いられた言葉は、たとえ日常的な些細な買い物であっても表面的な有用性において生きたのであってリアリティがあるわけではない。さながら符牒のような役割を果たしたにすぎない。そのように考えてみると、われわれは単純な言葉の背後にあるはかり知れない深みをあらためて気づかずにはいられない。言葉は幾層となく積み重なった過去のそれ自体の歴史と、その言語圏の生活体系の頂点に露呈しているのだということを感ずるのである。  このような体験は同時に次のようなことを示してくれる。つまり、その単純な言葉の深みを知るということが、逆に知覚したこの「私」なるものの実体をほとんど等価にあらわしてくれるということを。言いかえれば「私」とは遥かな歴史の集積の上に露呈し、個性という名辞で呼ばれた一つの輪郭をもつ存在にすぎないということである。「私」のなかに流れこんでいる「私」の住んでいた言語圏の歴史や生活体系の一切がこの「私」においてあらわれているという意味においての「私」なのだ。「私」とは無限に複数の「私」の前に生きた、そして「私」とともに生きている存在たちの集約としての「私」なのである。「私」は話している。そのことは同時に無限に複数の、通常的な「私」と共時的な「私」によって話されているのである。リルケルは『初期詩集』のなかで次のように歌っていた。   ぼくはひとりだったためしはない。   ぼくより前に生きて、   ぼくより先に別れてゆこうとした人々も、   ぼくという存在のなかに   生きていたのだ。………   ぼくには空間が必要なのだ、   一族全部が生きるに足りるほどの空間が。  このとき「私」という一つの名前を持ち、一つの顔立ちをした片々たる個性というものに何ほどの意味があるだろうか。われわれが外国に住んで見出す最初のものは、外の世界よりも実はこのような「私」ではないだろうか。しかし、もしこうした「私」を見出したならば、その「私」とは、たとえいかに矮小な存在ではあっても、外国のことなった言語圏の歴史とその生活体系の総体に優に匹敵しているのであり、拮抗している存在だ、とも言うことができるのである。われわれはこのようにして、外国の体験の一つ一つがわれわれの内部を掘り下げ、一個の「私」を突きぬけてかぎりなく字間の彼方にひろがる世界を開示してくれるのだということを理解する。「私」とは一個の「私」である以上に「私」の属する言語圏の歴史や生活体系そのものであり、伝統であるとも言うことができる。換言すれば「私」はヨーロッパならヨーロッパの内部に入りこんでゆくことができる。そしてこの行為が、あらためて、はじめてのように見出された「私」の内部に下降するようにと促すのである。 饗庭孝男「想像力の考古学」

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