• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:〔存在性のアッピール力(力)〕ということに感慨することはありませんか?)

存在性のアッピール力とは?

mashumaro2の回答

  • ベストアンサー
回答No.9

お礼を拝見致しました。有難うございます。 >本能的にというか直感的に見分ける何かが、未だ私達に残存存続していやしないか はい、単に事後的に外から習得する知識とは異なるところの自ら湧き出る直感的な力や方向性のような、そういった一連の謎めいた人間の精神現象(感応)とは一体何なのでしょうね。 「未だ私達に残存存続していやしないか」は──日常の知性・認知力、経験受け取りと紡ぎに対するある種のアンチ・テーゼ的な──近代科学合理主義から零れおちた何か──の意なのでしょうか。 ──こういう話がある。或る猟人が白い鹿に逢った。「白鹿は神なりと云ふ言伝へあれば、若し傷けて殺すこと能はずば、必ず祟あるべしと思案せしが、名誉の猟人なれば世間の嘲りをいとひ、思ひ切りて之を撃つに、手応へはあれども鹿少しも動かず。此時もいたく胸騒ぎして、平生魔除けとして危急の時の為に用意したる黄金の丸を取出し、これに蓬を巻き附けて打ち放したれど、鹿猶動かず。あまり怪しければ近よりて見るに、よく鹿の形に似たる白き石なりき。数十年の間山中に暮せる者が、石と鹿とを見誤るべくも非ず、全く魔障の仕業なりけりと、此時ばかりは猟を止めばやと思ひたりきと云ふ」(遠野物語61)  少し注意して、猟人の語るところを聞くなら、伝説に知性の不足しか見えないような眼が、いかに洞ろなものかは、すぐ解るだろう。この伝説に登場する猟人は、白鹿は神なりという伝説を、まことか嘘かと、誰の力も借りず、己の行為によって吟味しているではないか。そして、遂に彼は「全く魔障の仕業なりけり」と確かめる。漠然と感じていた白鹿の神への畏れが、懸命な吟味により、猟を止めばやと思うほどはっきりした形を取った、と彼は語るのである。だが、彼は猟は止めない。日常生活の合理性は、自分の宗教的経験に一向抵触するところがないという、極く当り前な理由によると見て少しも差支えないでしょう。  同時に、進んでこうも考えられよう。この名誉ある猟人は、眼前の事物を合理的に実際的に処理することにかけては、衆に優れていた筈だが、そういう能力は、基本的には、「数十年の間山中に暮せる者が、石と鹿とを見誤るべくも非ず」とあるところに働いている感覚と結んだ知性の眼を出ない。と言うのは、この眼がいよいよ明らかになっても、これは、人生の意味や価値を生み出す力を持っていない。そういう事を、猟人は確かめたという事になろう。そういう次第なら、遠野の伝説劇に登場するこの人物が柳田さんの心を捕えたのは、その生活の中心部が、万人の如く考えず、全く自分流に信じ、信じたところに責任を持つというところにあった、その事だったと言ってもいい事になりましょう。  すると、この猟人が、本当に衆にすぐれていた所以は、一ぱいに働いていた彼の個性の力にあったと考えざるを得なくなります。だが、彼の個性の力と此処で言うのには、自己を主張するという現代風の意味はない。何度も繰り返すようだが、彼は自然の懐に、しっかりと抱かれて生きていた。その充実感を、己の裡に感じ取っていたという、ただそれだけの事を言うのでして、これが素朴な人々の尋常な生き方であった事が、納得いくなら、現代の人々の愛好する自己主張という言葉は、自然との異常な断絶を背景としているのが見えて来るのではないでしょうか。猟人に、自己を主張するというような事が思い附けなかったのも、彼にはその相手がなかったからだ。己れに疎遠な外界との対立を、まるで感じていなかったからだ。言わば、自然全体のうちに、自分は居るのだし、自分全体のうちに自然は在るというのが、彼の生きて行く味わいだったのです。かくの如く、己れを取巻く自然が充分に内面化されている場所は、自己とはかくの如きものと主張する分別の如きが出る幕ではない。そういう言い方も出来ると思う。  このように言って来れば、彼の個性の自由な働きを支えているのは、想像力と結んだ彼の自然感情である事は、もはや明らかでしょう。彼は、自然がその心をこちらの心へ通わせて来る、というどうしても疑えぬ事実について語るのだが、其処には、決して明瞭な言葉にはならないものがある。語りかけて来る自然の恐ろしさは、何とは知れぬ親しさを秘めているし、自然の美しい心は、異様な奇怪なものを含んでいる。彼は、言葉にならぬ自然という実在に面しているのだが、その直接な経験が、言葉にならぬというその事が、彼に表現を求めて止まないのです。言わば、実在は彼を信じ、君の信ずるところを語れと迫る。彼は心を躍らし、その最上と思われる着想、すなわち先ず彼自身が驚くような着想によって、実在を語る。どうしてこのような物語が、人から人へと伝えられないわけがありましょうか。──「信ずることと知ること p194-p197 小林秀雄 全作品26」新潮社

krya1998
質問者

お礼

 (補足欄から)  3. 私たちは対象界に対するという仮想的主格性を与えられ、この世界を対象客体としてみる。  しかし、『其処には、決して明瞭な言葉にはならないものがある。語りかけて来る自然の恐ろしさは、何とは知れぬ親しさを秘めているし、自然の美しい心は、異様な奇怪なものを含んでいる。』  そして、『言葉にならぬ自然という実在に面したその直接な経験が、言葉にならぬというその事が、私達に表現を求めて止まないの。』  つまり、『実在は人という道具を信じ、君の信ずるところを語れと迫る。人は心を躍らし、その最上と思われる着想、すなわち先ず自分自身が驚くような着想によって、実在を語る。』  マシュマロ2さん、URLなどの紹介は引用ではなく、本文をここまで書いてくれたことを心より感謝します。  小林秀雄さんの文章中、“猟師”という主語を“私達”とか“私”という語に書き換えておりますことをお詫びし、お断り申し上げます。  有り難う御座いました。

krya1998
質問者

補足

 mashumaro2さん、再度のご訪問に感謝します。  ご紹介の「信ずることと知ること(小林秀雄 全作品26新潮社より p194-p197)」は人間の存在や自分の今のあるべき生き方の纏めにたいへん有益でした。  有り難うございます。  ●>本能的にというか直感的に見分ける何かが、未だ私達に残存存続していやしないか● ◇mashumaro2さん ⇒ 【はい、単に事後的に外から習得する知識とは異なるところの自ら湧き出る直感的な力や方向性のような、そういった一連の謎めいた人間の精神現象(感応)とは一体何なのでしょうね。】  ●krya1998 ⇒ 【世の中にたくさんの創造論がありますが、やはりある意識(根源)創造の意識の側面を機能開始(目的や理由、価値や理念は全くない。究極ですから自己以外に存在しないし、目指すものがない。)して、そのプロセスでそういう機能・能力を通して紡ぎ出すことにより、つまり解釈することより創造の一部とほんに一側面を創出しているのだと存じます。その能力の塊を一応人間という夢の中の行為主格としているのでしょうね。創造とはつまり、創造の意識とは唯一根源者のが夢を見ている意識だということだと存じております。】 ◇mashumaro2さん ⇒ 【「未だ私達に残存存続していやしないか」は──日常の知性・認知力、経験受け取りと紡ぎに対するある種のアンチ・テーゼ的な──近代科学合理主義から零れおちた何か──の意なのでしょうか。】  ●krya1998 ⇒ 【つまり、創造界(夢界)の事項としては考察する対象できない。物質現出以前のことなんですね。目が見えない。目が目を見る事はできない。意識が意識の結果や内容物(客体存在)を知る事はできても、意識は意識を意識できない。別の方法か、意識の上の存在の立場から意識する以外には不可能だという事になりませんか。】  ●krya1998 ⇒ 【以下、私の勉強に即して、ご紹介の著述を読んだリポートです。】  1.●フレーズ:「信ずることと知ること(小林秀雄 全作品26新潮社より p194-p197)」● 最初に小林秀雄さんの著述からの引用文の内容に触れることなく、この著述の題名を単に一つのフレーズとして思うことを、申し述べます。  “信ずること”と“知ること”とは往々対峙した事柄として取り上げられています。しかし“知ること”や “理解すること”なく“信ずること”は無理が伴うと存じます。  “盲目的信仰”とか、“不合理なるが故に信ずる”などという言い方が生じてくるのは、“信ずること”と“知ること”の間の懸隔の故だと存じます。  私達は“信ずること”とは一つの生き方としての“献身”という動作に過ぎなく、“知ること”とは対峙できないものです。  知らないものを信ずる事はできない。愚生が学び精進していることは哲理であるから、そうだと確信し生き方として“献身”するだけです。献身の生活を信仰と呼んでいます。  2. 名うての猟師が対象を見間違えた。このような話は私達の勉強する哲理の中にも出てまいります。  それは見間違えたのか。白鹿は神であれば、白岩を置いて身を翻して去っているかもしれない。  そしてこの幻蒙界の辻褄が合うように、なんだ白岩であったとなさしめているかもしれない。  はりつめた情況の中で白鹿とみている意識心理情況と、それがだらしもなく普通界に戻った認知力での確認とどちらが真実存在か。だからこそ、「全く魔障の仕業なりけり」とも湧き上がってきていることなのでしょう。このようにこの世では全てのことに二重の側面があるように思います。  この世としての合理とされる生活と、そうでない世界。それはともに併存しながら、その両面を私達は存在し生きていく。現実と超現実。どちらが真実実在か。  そこの綾が唯一存在であり、個々たる我らの意識の世界の悩ましい綾ということなのでしょう。猟師は現実界で現実の生き方で生きるが、決して他の一面のない世界にはなりえない。  猟師はそれを許容して、自己が存在している界とその界自体としての自己をそのまま自己としているので、自己の存在している界や自己に対して自己主張をする必要を感じない。  そういう存在性と認識と処理の能力は、この世的な『人生の意味や価値を生み出す力』とは関ることがない。自分は猟師である、それ以上でもそれ以下でもない。  白鹿は白鹿、神である。それだけである。ということなのでしょうね。  (お礼欄へ)

関連するQ&A

  • 信じる力(言霊など)*宗教の話ではないです

    信じる力(イメージの実現や言霊など)*宗教とかの話ではないです私の母が言葉の力(いわゆる言霊信仰)やイメトレによる願望実現などを信じる方だったのですが、私自身は「そんなに楽に叶ってちゃ苦労はしない」と思っていました。 ですが、この間私の大好きなアーティストのライブ抽選があり、会いたいあまりに知らず知らずのうちに会って盛り上がる想像をしたり(夢にまで見ました)、友達と「絶対当たるよ!」等と前向きな話をしたりしていました。 後で知ったのですが、倍率はかなり高かったそうですが、無事私と友達二人とも当選でした。しかも、友達は一口、私は二口応募での当選でした。 抽選までは無我夢中で、言霊やイメトレなどは意識していませんでしたが、当たってから母の言うことも一理あるのかなあと思い始めています。私が元々くじ運があまりよくなかったのもありますが。 もちろん、当たらなかった人が努力が足りないとか、そういうことが言いたいのではないです。 運ももちろんあると思いますし。 信じるか信じないかは自由だと思いますが、貴方は言霊やイメトレなどある種見えざる力のような存在を信じますか?

  • 彼女の存在を話す?隠す?

    彼女の存在を話す?隠す? すでにいくつかご相談させていただいておりますが (http://okwave.jp/qa/q5861730.html) (http://okwave.jp/qa/q5871331.html) 彼女がいる人からアプローチを受けています。 彼女との関係は、彼の話を信じるならば 「腐れ縁」「結婚はイメージできない」感じのようです。 彼が私にアプローチしてきた時 私は彼に彼女がいることを知りませんでした。 会話の中で「いるのでは?」と感じたため聞いたところ 「いる」との返事でショックでした。 彼とは、友人の結婚式で知り合ったため、共通の友人が何人かおり その友人たちは全員、彼に彼女がいることを知っていましたので 私が聞かなくても、いつか私の耳に入っていたと思います。 ですから、隠し通すことは難しかったと思います。 そこで皆様にお聞きしたいのは 彼女の存在を話す男性からのアプローチと 存在を隠す男性からのアプローチとでは どちらが遊びで、どちらが誠実なのでしょうか? あるいは、どちらがマシなのでしょうか? どちらも誠実でない気もするし 存在を話すことで逃げ道を作っているようにも思えるし 存在を話した上で真剣にアプローチしているように見えなくも無いし 隠すことで本当に遊んでやろうという感じもするし・・・。 とりあえず彼とは、近々また会う予定ですので どういうつもりで私にアプローチして来ているのか もし本気なら、彼女と別れてから来て欲しいこと 私は彼と付き合いたいと思っていることなどを 正直に伝えようと思っています。

  •  複製品と実物との存在性のアッピール力の違いなんですが。

     複製品と実物との存在性のアッピール力の違いなんですが。  無論、複製品自体もたいへんな技術の立派な作品だと存じます。  http://www.asahi.com/culture/update/1009/TKY201010090176.htmlにおける、オルメカ文明の巨石人頭像は、飾られている現場に立ち会わないでこの写真を見る限り、何のおもちゃかなと思いました。  がしかし、記事を読んで考古学的実物の複製だと知りました。  それで、http://okwave.jp/qa/q6242136.htmlの質問(考古学のカテの質問)を起しました。  幸い貴重なご回答を頂き、ご説明の最後は「質感」の違いということで閉めくられておられます。  私も最後は「質感」だと存じます。  それでこの「質感」のアッピール力の正体や本源って何なのかなという心理(学)的疑問が残りました。  多分それは、材質からの存在感みたいな、年代雰囲気とか、質量感や重量感みたいなものでしょう。  それで、材質からの存在感みたいな、年代雰囲気とか、質量感や重量感というものって、心理(学)的には一体なんと説明できるのだろうという疑問へと展開したのです。  或いは見る側とその複製品なり実物なりとの関係なんだと存じますが。    お教えや何かコメントを戴ければ幸いです。どうぞよろしくお願い申しあげます。

  • 「アピール」について

    タイトルの言葉について気になることがあったので、初めて質問させていただきます。 アピールという単語についてですが 例えば私とAという人がいて、Aが私を殴ったとします。 それにたいして私は本心は痛いけど、痛くないように仕草でアピールする。 といったような「本意ではない行動を見せる」といったような時にアピールを使うことは正しい使い方なのでしょうか? よく格闘技の中継などで選手がこういうアピールをしているので正しいのかな。と思ったのですが。 読みにくい文章ですが、わかる方回答よろしくお願いします。

  • 言葉に力は存在する?

    こんばんは。 以前、 ・恋人いない暦=年齢、自分にはもう無理? http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3886587.html ・ネガティブ思考をなんとかしたい http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4023165.html ・自分に取り得が無い http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4050835.html などの質問をした者です。 今回はカテゴリとして微妙な気もするのですが、人生相談としての意味合いがやや強いかと思いこのカテゴリに致しました。 ここからが質問の本題なのですが… 言葉には、「力」ってあるものなのでしょうか? 自分がしてきた質問などを振り返ってみながらふと思ったことなのですが… たとえば、ネガティブな言葉を自分に投げつけるだけでも、悪い方向に言ってしまうのでは無いかと思いました。 冒頭で出した過去の質問からもある程度分かるように、 僕は、恋愛経験なんぞ無いし、顔も性格も、スタイルも悪い。 良いところもなく、更に、ネガティブ思考になりやすい人間です。 恋愛経験などに関しては、ほぼ諦めていることには変わりありません。 (今まで経験が無かったわけですから……) そして、顔や性格、スタイルに関しても、諦め始めている状況です。 ですが、まだほんの少しくらいは何とかしようと思ってはいます。 少なくとも、性格やスタイルくらいは何とかできるところが多分あるのでは無いかと思います。 そこで、「今までネガティブな言葉を投げつけてしまった結果が今の自分である」と仮定するならば、 「無理矢理にでもいいからポジティブな言葉を自分に投げかける事によって、少しでも自分が改善されるのではないか」とふと感じました。 しかし、これって本当にそうなのでしょうか? 「やってみなくちゃわからないだろ」といわれそうなのですが 何かしら試してみた、そうしたらこんな結果が出たという話。 そもそも言葉に何かしらの力は存在するのか などなど、何かしらの経験談やコメントなどいただけると幸いです。 うまくまとまっていない質問ですが(補足要求があればできる限り答えます)、よろしくお願いします。

  • 真の傍観者は存在するのでしょうか。

    真の傍観者は存在するのでしょうか。 つまり純粋な観測者は存在するのかというのとおなじようにですが。 http://okwave.jp/qa/q5963456.html  純粋な観測者は存在しない?

  • アイドル的存在の好きな人について!!

    http://okwave.jp/qa/q6649284.html 上の相談もみてほしいです。 好きな先輩はアイドル的な存在なのですが・・・・ 実際にアイドル的存在の人と付き合った方はいるのでしょうか。 もう・・付き合わずにこのまま一生会わないほうが いいのかな・・・・ でも、希望があるなら付き合いたい!!

  • 包茎が治る=女性の力

    20歳を過ぎて、彼女と頻繁にセックスするようになってから、 あるいは結婚してから、仮性包茎が「治って」、ズル剥けになった 人はいますか。 先日回答されていた、kuri-to-risuさんの以下の回答は結構参考になります。 http://okwave.jp/qa/q8914177/a24758475.html オトコが成長する、「一皮むける」には、最終的には女性の力が大きかったりする好例です。 他にも、こうした経験のある方はいますか。

  • 面接後にアピールのメールを送るのはありですか?

    こんにちは。 転職サイトから応募したあとで、↓のような質問をさせて頂いた者です。 http://okwave.jp/qa/q7520338.html 企業へ直接アピールメールを送りませんでしたが、 幸いにも1次面接を先日おえ、結果の連絡を待っているところです。 1次を振り返ると、ああ言えば良かったなと、いろいろ後悔しているところなのですが、 この段階で、人事の方へアピールメールを送るのはどうなんでしょうか? とりあえず1次は好感触で終えてはいるのですが…… 前回の質問にも書かせてもらった友人の例があるので、悩んでしまいます。 もしよろしければ参考までにご意見を教えていただけませんか? 宜しくお願い致します。

  • アピールはどちらから?

    以前、告白して断られてしまった男性と、勘違いかもですが最近なんだかよい感じになっています。それはこちらで質問したとおりです。http://okwave.jp/qa/q8554822.html 万が一気持ちが変わって私を少しでも意識してくれているのなら、もう一度彼に気持ちを伝えたいと思います。ただ振られているのだから相手からのアクションを待ったほうが良いとも思います。しかし相手がもし私に好意を持っていてくれても振った手前行動を起こしづらいですよね?こういった場合どちらからアクションを起こすのが筋(といいますか自然)でしょうか?立場的には彼はずっと目上の方で組織のTOPです。そういうことを鑑みると再度私から・・・?とも思うのですが、どうでしょう? それと、それ以前に最近私からは「好きですアピール」をしていません。ごく自然にしており視線もなるべく向けないようにしています。彼の親しげな態度は「もう諦めてくれた」と思っているので安心しているだけなのでしょうか?