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存在性のアッピール力とは?
- 存在性のアッピール力とは、特定の言葉や表現が持つ力や魅力について考えることです。
- 存在性のアッピール力の本質は何でしょうか?同じ言葉でも、説得力や存在感には個人差があることを経験します。
- 言葉や表現の力であるいうことを言霊といいますが、その力は個人によって異なるようです。
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お礼を拝見致しました。有難うございます。 >本能的にというか直感的に見分ける何かが、未だ私達に残存存続していやしないか はい、単に事後的に外から習得する知識とは異なるところの自ら湧き出る直感的な力や方向性のような、そういった一連の謎めいた人間の精神現象(感応)とは一体何なのでしょうね。 「未だ私達に残存存続していやしないか」は──日常の知性・認知力、経験受け取りと紡ぎに対するある種のアンチ・テーゼ的な──近代科学合理主義から零れおちた何か──の意なのでしょうか。 ──こういう話がある。或る猟人が白い鹿に逢った。「白鹿は神なりと云ふ言伝へあれば、若し傷けて殺すこと能はずば、必ず祟あるべしと思案せしが、名誉の猟人なれば世間の嘲りをいとひ、思ひ切りて之を撃つに、手応へはあれども鹿少しも動かず。此時もいたく胸騒ぎして、平生魔除けとして危急の時の為に用意したる黄金の丸を取出し、これに蓬を巻き附けて打ち放したれど、鹿猶動かず。あまり怪しければ近よりて見るに、よく鹿の形に似たる白き石なりき。数十年の間山中に暮せる者が、石と鹿とを見誤るべくも非ず、全く魔障の仕業なりけりと、此時ばかりは猟を止めばやと思ひたりきと云ふ」(遠野物語61) 少し注意して、猟人の語るところを聞くなら、伝説に知性の不足しか見えないような眼が、いかに洞ろなものかは、すぐ解るだろう。この伝説に登場する猟人は、白鹿は神なりという伝説を、まことか嘘かと、誰の力も借りず、己の行為によって吟味しているではないか。そして、遂に彼は「全く魔障の仕業なりけり」と確かめる。漠然と感じていた白鹿の神への畏れが、懸命な吟味により、猟を止めばやと思うほどはっきりした形を取った、と彼は語るのである。だが、彼は猟は止めない。日常生活の合理性は、自分の宗教的経験に一向抵触するところがないという、極く当り前な理由によると見て少しも差支えないでしょう。 同時に、進んでこうも考えられよう。この名誉ある猟人は、眼前の事物を合理的に実際的に処理することにかけては、衆に優れていた筈だが、そういう能力は、基本的には、「数十年の間山中に暮せる者が、石と鹿とを見誤るべくも非ず」とあるところに働いている感覚と結んだ知性の眼を出ない。と言うのは、この眼がいよいよ明らかになっても、これは、人生の意味や価値を生み出す力を持っていない。そういう事を、猟人は確かめたという事になろう。そういう次第なら、遠野の伝説劇に登場するこの人物が柳田さんの心を捕えたのは、その生活の中心部が、万人の如く考えず、全く自分流に信じ、信じたところに責任を持つというところにあった、その事だったと言ってもいい事になりましょう。 すると、この猟人が、本当に衆にすぐれていた所以は、一ぱいに働いていた彼の個性の力にあったと考えざるを得なくなります。だが、彼の個性の力と此処で言うのには、自己を主張するという現代風の意味はない。何度も繰り返すようだが、彼は自然の懐に、しっかりと抱かれて生きていた。その充実感を、己の裡に感じ取っていたという、ただそれだけの事を言うのでして、これが素朴な人々の尋常な生き方であった事が、納得いくなら、現代の人々の愛好する自己主張という言葉は、自然との異常な断絶を背景としているのが見えて来るのではないでしょうか。猟人に、自己を主張するというような事が思い附けなかったのも、彼にはその相手がなかったからだ。己れに疎遠な外界との対立を、まるで感じていなかったからだ。言わば、自然全体のうちに、自分は居るのだし、自分全体のうちに自然は在るというのが、彼の生きて行く味わいだったのです。かくの如く、己れを取巻く自然が充分に内面化されている場所は、自己とはかくの如きものと主張する分別の如きが出る幕ではない。そういう言い方も出来ると思う。 このように言って来れば、彼の個性の自由な働きを支えているのは、想像力と結んだ彼の自然感情である事は、もはや明らかでしょう。彼は、自然がその心をこちらの心へ通わせて来る、というどうしても疑えぬ事実について語るのだが、其処には、決して明瞭な言葉にはならないものがある。語りかけて来る自然の恐ろしさは、何とは知れぬ親しさを秘めているし、自然の美しい心は、異様な奇怪なものを含んでいる。彼は、言葉にならぬ自然という実在に面しているのだが、その直接な経験が、言葉にならぬというその事が、彼に表現を求めて止まないのです。言わば、実在は彼を信じ、君の信ずるところを語れと迫る。彼は心を躍らし、その最上と思われる着想、すなわち先ず彼自身が驚くような着想によって、実在を語る。どうしてこのような物語が、人から人へと伝えられないわけがありましょうか。──「信ずることと知ること p194-p197 小林秀雄 全作品26」新潮社
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- mashumaro2
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こんにちは。 聖典の多くの得難い言葉も貴重な発掘品も、現代に生きる私たちの無意識のもとで、あたかも生々流転に対する畏怖と崇めの念を醸し出すような神秘性と不可解な部分を孕むもので、さらには悠久の時間と歴史の流れにじっと耐えてきたというその重みと信頼に充ちているのかもしれず、 このあたりがkrya様が仰るところの「アッピール力」になり得るのかなと思う次第です。 しかしながら、いかに周知の事実として「本物/実物」であったとしても、これは【偽物/模造品】だなあと、己の内に「見切る」あるいは確信することすらもなかにはあるのではないでしょうか。 そして、その場合の「存在性」については、いったいどのように解したらよろしいのでしょう。 また往々にして、故人の生前の逸話次第ではいかようにも存在性(モノ/作品)が伝説化ないし力が増すようにも思われます。 恐らくそれを多くの場合人々が待望、熱望しているからなのでしょうけれども、これも何の為せる技なのだろうとも思うのですよ。 何か──拙い自身の人生にそれを寄り添わせたいかのような── (余談ながら、煩脳渦巻く古美術の世界での真贋の目利きは、作り手が込めたであろう魂とは凡そ無縁のところで、チマチマと何とも泥臭い人間ドラマを呈していることも決して少なくないと経験上痛感するのです。) そしてつまりは、存在に対峙した私たちの「知ること」「信じること」が、やはりご質問の「存在性のアッピール力に感慨する」一つの鍵なのかなと考えていたところ、似たようなタイトルの面白いテキストがあったことを今思い出しましたので、長文にはなりますけれども後ほどあらためて投稿させていただきます。
お礼
mashumaro2さん、ありがとうございます。 普通私たちの誕生って、アヴェロンの野生の狼少女じゃありませんから、どんな個人人間の誕生も一定の歴史経過の中で培われた知性・認知力、経験受け取りと紡ぎの全体の中に入ってきます。 つまりは私達は、当然、諸々、いえ全てが押し付けられ、且つ、ア・プリオリに前提仮定させられていることの中での対峙となっています。 だから、創造前の不穢の原初・Infinite (原初不飾者)的認知力って仮想なのかもしれません。 私の質問や、この質問を起す経験も本当はあまり根拠性はないのかもしれません。 しかし本能的にというか直感的に見分ける何かが、未だ私達に残存存続していやしないかという思いがどうしても打ち消せないでいます。 そういうことで皆様のご回答をおまちしているのですが、図らずもmashumaro2さんのご訪問とコメントをいただきましたので、もうしばらく待たせていただきます。 旧暦重陽の被せ綿が旧友からも届き、またmashumaro2さんのご訪問で晩秋を迎えることになりました。
- Caolli
- ベストアンサー率50% (3/6)
人(自分)がしてきたこと(事実)には何か意味があると思いたい願望があるのではないでしょうか? ですから「本当に根っこまでいって、確信しているときのその人の存在とことば」に何か感じるのだと思います。
お礼
【人(自分)がしてきたこと(事実)には何か意味があると思いたい願望がある】は自分では一応ないと判断しておりますが、下層意識にあって操られているかも知れません。 でも一応それは否定します。 あくまでもことばの存在性、人間の存在性や実物を写し取った模造品の存在力についての思いです。 質問やご回答のベクトルの問題から、今まで回答投稿を避けてきた http://questionbox.jp.msn.com/qa6254107.htmlに昨日、回答を投稿してみました。 《言葉は自分であり魂であるという観念があったのではないでしょうか? ことばは大事にされた。言葉は真実でなければならなかった。 しかしやがて真実でない言葉が出てきた。それは人間も真実でなくなったという事ですね。 実直性が失われ、しかもそれで済み、それで通るようになった。 真実であり、真実のことばを発する人が稀になった。言葉に力が失われた。 存在してない人が存在に関係ない言葉を発する。そういう仮初の世界が浮遊物のように表面出てきている。 鸚鵡は知りませんが、動物や自然はでそれぞれでその真実を語っていませんか?真実ってなんでしょうか?》 という内容です。私のことを動機としてなく、聖典や多くの人のぎしっと入ってくる言葉や発掘品の本当によくできている複製品の影のうすさ。 これはなんだろうと、ここ40年ほど思い続けてきました。 それがこの質問の動機であり、みなさんにお気づきの事をお尋ねしているのです。 たいへん失礼ですが、私には自分の意味性を考える必要もないし願望もない。 私は全てであり、全てが私だと思っています。この思いは、五歳のころは漠然としていましたが、喜寿に届く年齢になって更に明確になってきました。 私はいないのだと。誰もいないのだと。
補足
Caolliさん、私は自分の真実実在への或いは真実実在的意味の確認も求めても居ないし、その必要性も感じてもいないのですが、自分の際(自分が存在している身分性)でやっていくことをやっていくだけです。 これは、mashumaro2さんの二度目のご回答の猟師だって、そうしていると思います。 私はそれ以上でもそれ以下でもなく、ちょいとの間、誰かが私を通して何かの夢を見ているのでしょう。 創造界っていう夢を。自己性の確認も主張もないのです。 そういう事を意図してはとても生きていられません。雀がちゅんちゅん枝から枝に行くようなものです。 金木犀が咲いて終わるだけでしかない。何もないのです、自分へのお土産って。
- jaicca
- ベストアンサー率15% (2/13)
>それが文字という単なる記号でしかないものであっても、Aさんの力とBの力が違う。 およそ哲学というものは、常識をわかりにくい言葉で表現したものにすぎない。 ゲーテ およそ哲学というものは、常識をわかりにくい言葉で表現したものにすぎない。 とん平 存在性のアッピール力、説得力は違いますか?名前を隠したらどうですか?
お礼
有り難う御座います。 仰せのとおり、荀に説得力のあるご回答です。 ゲーテの場合は言語と言語環境が違いますね。 翻訳を日本語環境で読んでいます。正に同じ哲学だと存じます。 私はだから、米国に本部がある私どもの会長のメッセージなども敢えて翻訳をしない、いえむしろできないですね。 論語など漢文の文章や漢詩も日本の古文的読み下しですから、多分向こうのしかもその環境での意味や情況、そして情感は私の抱くものとは違うでしょうね。 対米敗戦直後、中国青年と結婚し先年夫(私には義兄)を彼岸に見送った姉は、向こうの親戚との会話のために、80過ぎてから中国語習っています。 姉も漢詩が素敵だというのですが、彼女が読み上げる発音はとても私の思っている漢詩のイメージと違います。
- cpsirg
- ベストアンサー率0% (0/1)
一流のものにアッピール力が無いと思われる一例。 http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E8%8A%B8%E8%83%BD%E4%BA%BA%E6%A0%BC%E4%BB%98%E3%81%91%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%83%E3%82%AF&lr=lang_ja
お礼
あぁそうですね。世の中で一流って、しょうがないですね。 有り難う御座います。
- ausfeper
- ベストアンサー率33% (46/138)
まとまらないのでぐちゃぐちゃに書きます。ごめんなさい。 >その分るってこと自体が私の問題事項なんです。 様々なものの新しいものと古いものを見てきた経験から脳が総合的に判断して分かる、感じるんだと思います。 先入観や知識、経験からくるものでしかないと思います。 「古天明平蜘蛛」や「九十九髪茄子」と同型の古い茶器を並べられて選択させられても僕には当てられそうにないです。 この茶器の存在を知ったのは「信長の野望」というゲームです。 ちゃんとした茶器にはほとんど触れたことも写真などをしみじみと見たこともないので良し悪しや雰囲気なども見当がつきません。 もしアピール力があるのなら僕にも何か伝わると思いますが、多分何も感じないでしょう。 もしアピール力があれば骨董品でガラクタを掴まされる人はいなくなると思います。 知識や経験でニセモノを見抜く力を養わなければならないのは本物にアピールする力なんかないからだと思います。 その物がイイモノだと分かるのはやっぱり知識と経験だと思います。 粘土でも木彫りでも何でもいいんです。 A.魂を込めて超一流の職人が作ったもの。 B.Aと全く同じものをロボットに作らせたもの。 (魂を込めるところまで同じという意味ではありません。材料や外観などです。) この2つは多分区別はつかないと思います。 1.ノーヒントで2つを並べてあるだけで2つの違いが分かると思いますか? 2.「一方は職人、他方はロボットが作りました」の看板があって多くの人が当てられると思いますか? 僕だったら 1.の場合同じものを2つ並べてあるだけ、または双子的な作品としか思わないと思います。 2.の場合は多分確率50%だと思います。 オバマの演説は生まれたばかりの赤ちゃんにとって騒音でしかない。 オバマに説得力があるんじゃなく、オバマに説得力を感じる人生の人たちが多かった。 よくオーラがある人と言ったりします。 でもこのオーラは赤ちゃんは感じない。 僕はオーラはその人が発してるのではなく受け取る側が勝手に作ってるのだと思います。 kryaさんには木下優樹菜や西野カナのオーラは感じないと思います。 でも若い女の子の中には感じる人がいると思います。 結局そのものに力があるのではなく受ける側の問題だと思います。 人生経験で無意識に刷り込まれたものによって作られた虚像だとも思います。 知識や経験に左右されないアピール力の強いものが思いつきません。 堺雅人はNHKの大河ドラマ篤姫で将軍・徳川家定役をやった人です。 大河ドラマは見ないんですか?
お礼
ausfeperさん、ご所論は理解申し上げます。多分、仰せのことが正しいと存じます。 ご所論に反対はなく、実はわたしもその通りに思います。 相手、対象、そして対する自分の条件や知識、成長度や観念、育ち具合。これは大事ですね。 そしてこの両者の思いと認識。 分らないものは分らない。 分らない奴には分らない。 その通りでしかありませんよね。 このくらい変哲もないことはありません。 一定の思いがなければ、孔子もイエスもどうでもいい ロマン・ロランも私の駄文も同じですね。 そのことは誰でもよくしっておりますよね。 だれもそうではないとは言わないと存じます。わたしもその通りだと存じます。 有り難う御座います。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
とてもかんたんなことです。 その昔 苛斂誅求に痛めつけられていた百姓らは 隠し田をもつくって最小限の食糧を確保しようとするずる賢い一面も持ち合わせましたが あるいはそして時には一揆をも起こしましたが 相手も――将軍から天子から代官までのお二階さんである相手も――人間である・同じ人間であるとかたく信じ 年貢にも耐えました。 日々の暮らしを人びととともにありがたくいとなむということ 言いかえるとおのれを何があってもうんうんと推してあゆむということ この存在をほかにして 何が《アピールの力》だというのでしょう。 社会において立派な仕事を為す人びと そのことがとうといと言うのは 上に触れた基礎としての存在のゆえにであり その存在のためにゆえであろうと考えます。 もし多少ともその成し遂げたことや指導力などが立派だと言うとすれば それは――確かにここまでやったのだという感慨はおぼえるでしょうが―― ただそのことに思い入れをしたりそのことの姿に酔ってしまうような反芻をしたりしているだけではないかと考えます。 基礎としての存在――どん底に位置するその存在―― これこそが《アピールするちから》を持つ。こう考えます。 もしそのほかに 表層やさらにその上辺に位置する存在のあり方やそのような存在によって成し遂げられた仕事が人びとにアピールしているとすれば それは その大きな部分において じつは どん底の基礎としての人間存在から逸脱しているというその奇異さに目がくらんでいるだけではないでしょうか。 説得力にしても 基礎としての存在がものを言うのだと考えます。つまり アピール力です。そうでない場合は 一時的な成功であろうと見ます。 一介の人間 市井のおばさんおぢさん その存在がアピールのちからを持つ。かんたんな答えだと考えます。
お礼
bragelonneさん ご訪問、有り難う御座います。 よく熟読玩味しまして、勉強します。有り難う御座いました。
- ausfeper
- ベストアンサー率33% (46/138)
1. 個人々々の好みやエゴに左右されると思います。 自分に都合のいいことを言ってる人はより説得力があるように感じる。 自分の好きな絵には凄みを感じやすい。 2. 文字情報だけだと1.にも書いたとおりkryaさん好みの内容や文体だったんだと思います。 (1) 実物と模造品について:見た目だけ似せようとして作り方が違えばそれは違和感を感じると思います。 作り方が同じでも経過時間や環境で違いは分かってしまうと思います。 (2) 誠意のある言葉はあるのか?:説得力のある回答は見当たらないです。強いて言えば#6後半の一部。 (3) 厳密性と分りやすさ:長いけど#65 (7) 背景を知ってしまったら先入観。知らなかったらまた違うと思います。 イチローに野球について話してもらってもイチローを知ってる人と知らない人では説得力がぜんぜん違うと思います。 同じ内容を堺雅人(野球経験なし、生年月日8日違い)に言わせても説得力はあまり変わらないと思います。 kryaさんブラウザは何を使ってますか?
お礼
ausfeperさん、ご回答有り難うございます。 【1. 個人々々の好みやエゴに左右されると思います。自分に都合のいいことを言ってる人はより説得力があるように感じる。自分の好きな絵には凄みを感じやすい。】 【2. 文字情報だけだと1.にも書いたとおりkryaさん好みの内容や文体だったんだと思います。】 ◆krya1998 ⇒ 確かにそういうこともありますね。 私が問題としたいのはそういう結果や現象もさることながら、自分の好みや都合とは別に、真実や存在性のアッピール力とはなんだろうという事なんです。 2. 【(1) 実物と模造品について:見た目だけ似せようとして作り方が違えばそれは違和感を感じると思います。作り方が同じでも経過時間や環境で違いは分かってしまうと思います。】 ◆krya1998 ⇒ その分るってこと自体が私の問題事項なんです。 【(2) 誠意のある言葉はあるのか?:説得力のある回答は見当たらないです。】 ◆krya1998 ⇒ みなさんのご回答も拝読しましたが、このご質問には私は回答欄投稿はしませんでした。ご質問も、ご回答も私の関心のこととは違うようです。 【(3) 厳密性と分りやすさ:長いけど#65】 ◆krya1998 ⇒ はい特に異論はないご回答であると存じます。普通の通り、常識通りだと存じます。 【(7) 背景を知ってしまったら先入観。知らなかったらまた違うと思います。イチローに野球について話してもらってもイチローを知ってる人と知らない人では説得力がぜんぜん違うと思います。同じ内容を堺雅人(野球経験なし、生年月日8日違い。この堺さんって知りませんでしたので検索した知識では私より40年まではいかない差のようです。)に言わせても説得力はあまり変わらないと思います。】 ◆krya1998 ⇒ そういういえ、背景や書いた人を知らなくても、書いた人の何かがあるものだと存じますよ。 実は仰せの“先入観”とか、“知らなかったら”というお話が当然いただけるだろうとは危惧していました。 存在というもの、その事実の凄さ。 そういうものがあるのではないかと存じております。 ですので、そういうことをお感じになられている方の同感と不思議さにアクセスしたいと存じております。 【kryaさんブラウザは何を使ってますか?】 ◆インターネットのためのソフトですね。krya1998はマイクロソフトのInternetExploreです。 何か教えてくださることでもありますか?特にこのブラウザとかで困っては居ないのですが。 大学図書館に46ほどいて7年ほど前にやめました。 現役中も、自宅でPSをするときもみなさんのお世話になりました。でもご注意やご助言は大事にします。 甥がIBMの開発にいました。もう60になるのですが大分前にやめました。彼にいつも相談するのですが、素人のいうことが彼にはかったるいようですね。
- pollux0375
- ベストアンサー率26% (15/56)
とても難しいです。 同じ本でも、2年前に偶然買ったときは価値を感じなくて、 捨ててしまった本でも、いまは買いなおして読んで感激する という経験があります。 役者の演技も、最初は「ふ~ん」で終わったのに、何度も 見直したら、その演技のすごさと奥深さを感じてびっくり し「これがプロの役者の演技か!」と思った経験も最近 ありました。 AさんとBさんとの違いだけではなく、聞く人の状態にも かなり影響されそうな感じがします。 でも、誠意を持って考えた言葉には、いわゆる「行間」で 聞く人の心に届きやすいものになるのではないかと思います。 「ここにあります。」 と 「ここにありますよ。」 の この2つの言葉だけでもニュアンスはあきらかに違います よね。 どうも、話す人と聞く人との心が共鳴するかどうかのよう な気がします。 どんなに深く研究された説明でも、私はアインシュタイン の一般相対性理論の話には説得されません。(理解できな いので) ぐだぐだした話で失礼しました。
お礼
pollux0375さん、ご回答有り難う御座います。 pollux0375さんと殆ど同じ経験を痛感しております。その通りだと存じます。 話はちょいと余談になりますが、機会って難しいですね。 西洋では前髪でつかめっていいますね。日本では太刀風三寸っていいますよね。 ばっさりやられてからでは遅いし、あんまり早く身を躱しても何の益にも為りませんね。 過ぎ去ったものは、それが買いなおせる本ならいいんですが。 私も科学理論でゴタゴタしている宇宙論や存在論はあまり意味性が分りません。 でもその世界の、そういうプロセスに入っている人には有価値なんですね。 お説を拾い読みして、結論を睨むとプロセスは関係なくわかっちゃう。 いえ実はここ数十年ヒンドゥの思想を勉強していますが、そこに書いてあるものばかり。 そこに書いてあるものだけ拾い読みしているのかも知れませんが。 心への届きやすさ、響きやすさですか。ちょいとして書き方でのニュアンスですか。 有り難う御座います。私もこの“ちょいとして書き方でのニュアンス”って大きいと存じます。 原点での、角度や位置の違いは大きいですね。
お礼
(補足欄から) 3. 私たちは対象界に対するという仮想的主格性を与えられ、この世界を対象客体としてみる。 しかし、『其処には、決して明瞭な言葉にはならないものがある。語りかけて来る自然の恐ろしさは、何とは知れぬ親しさを秘めているし、自然の美しい心は、異様な奇怪なものを含んでいる。』 そして、『言葉にならぬ自然という実在に面したその直接な経験が、言葉にならぬというその事が、私達に表現を求めて止まないの。』 つまり、『実在は人という道具を信じ、君の信ずるところを語れと迫る。人は心を躍らし、その最上と思われる着想、すなわち先ず自分自身が驚くような着想によって、実在を語る。』 マシュマロ2さん、URLなどの紹介は引用ではなく、本文をここまで書いてくれたことを心より感謝します。 小林秀雄さんの文章中、“猟師”という主語を“私達”とか“私”という語に書き換えておりますことをお詫びし、お断り申し上げます。 有り難う御座いました。
補足
mashumaro2さん、再度のご訪問に感謝します。 ご紹介の「信ずることと知ること(小林秀雄 全作品26新潮社より p194-p197)」は人間の存在や自分の今のあるべき生き方の纏めにたいへん有益でした。 有り難うございます。 ●>本能的にというか直感的に見分ける何かが、未だ私達に残存存続していやしないか● ◇mashumaro2さん ⇒ 【はい、単に事後的に外から習得する知識とは異なるところの自ら湧き出る直感的な力や方向性のような、そういった一連の謎めいた人間の精神現象(感応)とは一体何なのでしょうね。】 ●krya1998 ⇒ 【世の中にたくさんの創造論がありますが、やはりある意識(根源)創造の意識の側面を機能開始(目的や理由、価値や理念は全くない。究極ですから自己以外に存在しないし、目指すものがない。)して、そのプロセスでそういう機能・能力を通して紡ぎ出すことにより、つまり解釈することより創造の一部とほんに一側面を創出しているのだと存じます。その能力の塊を一応人間という夢の中の行為主格としているのでしょうね。創造とはつまり、創造の意識とは唯一根源者のが夢を見ている意識だということだと存じております。】 ◇mashumaro2さん ⇒ 【「未だ私達に残存存続していやしないか」は──日常の知性・認知力、経験受け取りと紡ぎに対するある種のアンチ・テーゼ的な──近代科学合理主義から零れおちた何か──の意なのでしょうか。】 ●krya1998 ⇒ 【つまり、創造界(夢界)の事項としては考察する対象できない。物質現出以前のことなんですね。目が見えない。目が目を見る事はできない。意識が意識の結果や内容物(客体存在)を知る事はできても、意識は意識を意識できない。別の方法か、意識の上の存在の立場から意識する以外には不可能だという事になりませんか。】 ●krya1998 ⇒ 【以下、私の勉強に即して、ご紹介の著述を読んだリポートです。】 1.●フレーズ:「信ずることと知ること(小林秀雄 全作品26新潮社より p194-p197)」● 最初に小林秀雄さんの著述からの引用文の内容に触れることなく、この著述の題名を単に一つのフレーズとして思うことを、申し述べます。 “信ずること”と“知ること”とは往々対峙した事柄として取り上げられています。しかし“知ること”や “理解すること”なく“信ずること”は無理が伴うと存じます。 “盲目的信仰”とか、“不合理なるが故に信ずる”などという言い方が生じてくるのは、“信ずること”と“知ること”の間の懸隔の故だと存じます。 私達は“信ずること”とは一つの生き方としての“献身”という動作に過ぎなく、“知ること”とは対峙できないものです。 知らないものを信ずる事はできない。愚生が学び精進していることは哲理であるから、そうだと確信し生き方として“献身”するだけです。献身の生活を信仰と呼んでいます。 2. 名うての猟師が対象を見間違えた。このような話は私達の勉強する哲理の中にも出てまいります。 それは見間違えたのか。白鹿は神であれば、白岩を置いて身を翻して去っているかもしれない。 そしてこの幻蒙界の辻褄が合うように、なんだ白岩であったとなさしめているかもしれない。 はりつめた情況の中で白鹿とみている意識心理情況と、それがだらしもなく普通界に戻った認知力での確認とどちらが真実存在か。だからこそ、「全く魔障の仕業なりけり」とも湧き上がってきていることなのでしょう。このようにこの世では全てのことに二重の側面があるように思います。 この世としての合理とされる生活と、そうでない世界。それはともに併存しながら、その両面を私達は存在し生きていく。現実と超現実。どちらが真実実在か。 そこの綾が唯一存在であり、個々たる我らの意識の世界の悩ましい綾ということなのでしょう。猟師は現実界で現実の生き方で生きるが、決して他の一面のない世界にはなりえない。 猟師はそれを許容して、自己が存在している界とその界自体としての自己をそのまま自己としているので、自己の存在している界や自己に対して自己主張をする必要を感じない。 そういう存在性と認識と処理の能力は、この世的な『人生の意味や価値を生み出す力』とは関ることがない。自分は猟師である、それ以上でもそれ以下でもない。 白鹿は白鹿、神である。それだけである。ということなのでしょうね。 (お礼欄へ)