• ベストアンサー

ご閲覧ありがとうございます。

ご閲覧ありがとうございます。 早速ですが質問です。 清少納言の「雪のいと高う降りたるを」で、中宮定子と女房たちはどのような雰囲気で交流していたのでしょうか? お分かりになる方がいましたら、ご回答お願い致します。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15295/33014)
回答No.1
kuroboshi0
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 大変助かりました(´ω`)!

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 「雪のいと高う降りたるを」の知的で洒落たというのは

    清少納言が書いた、「雪のいと高う降りたるを」の古文ですが、みんなが清少納言を賞賛したのはなぜかということですが、中宮定子の知っている漢詩の内容を思い出して、簾を上げて外の雪景色を見れるようにしただけで、なぜ賞賛されるのでしょうか? これのどこが機転の効いたやり取りなのでしょうか? 教えてください。

  • 授業に生かす 清少納言と紫式部

    高校の古典の授業として、『枕草子』の299段『雪のいと高う降りたるを』を題材に、清少納言と紫式部の比較?ができないかと、今考え中です。 この話は、当時清少納言が仕えていた中宮定子に漢詩にまつわる質問を投げかけられ、それを清少納言が見事に解釈し行動したということで、定子やまわりの女房たちも感心したという少し自慢のような話、とも言われています。 このような作品からわかる清少納言の性格と紫式部を比較してみたらおもしろいのではないかと考えています。 しかし一方的な授業ではなく、生徒も一緒に参加できたり、発言ができるような授業にしていきたいとも思っています。 何か良いアイディアはないでしょうか?注文が多くて申し訳ないのですが、、、何か良い知恵があれば、教えてください。 よろしくお願いします^^

  • 香炉峰の雪

    中宮定子が清少納言に「香炉峰の雪ってどんな感じでしょうね?」と問いかけたところ 清少納言は御簾(すだれ)を揚げて見せた とあります 白居易の「香炉峰の雪は御簾を上げて見る」という故事に倣ったとの事ですが この定子と少納言のやり取りは実話(少なくとも信憑性のある資料などに残っている)でしょうか?

  • 清少納言

    中宮定子が亡くなられた後の清少納言の後半生は惨めであったとされていますが、どのような有様でしたか

  • 宮に初めて参りたるころ

    「宮に初めて参りたるころ」での清少納言と中宮との距離感ってどのくらいなんですか。中宮と話しているのに顔をみせないでいるというのはどういう状況なんでしょう。途中で雪で曇ってはっきりとは顔も見えないだろうと中宮が言っていますが、清少納言は外にいるわけじゃありませんよね?天気とか関係あるんですか? 教えてください!

  • 枕草子でのいじめについて

    レポートを書く上で気になったので… 紫式部の源氏物語には、いじめに関する記述つ(桐壺の巻など)が多く記述されていますが、清少納言の書いた枕草子には、 源氏物語のような、いじめに関する記述はあるのでしょうか? 中宮である定子が、道長に虐められたという話は聞いたことがあるのですが、そういった記述が見つかりません。 定子のことでなくても、枕草子の中でいじめについて書かれている部分を、教えて頂きたいです。 よろしくお願いします。

  • 雪のいと高う降りたるを

    『雪のいと高う降りたるを』で分からないところが あるので質問させてください。 「少納言よ、香炉峰の雪いかならむ。」と言ったのは 中宮様だと授業でならったのですが、そう判断した根拠はどこの部分ですか? 少納言にそう質問した意図は何ですか? ↑の2つ教えてください!!

  • 枕草子

    枕草子の「雪のいと高う降りたるを」で、清少納言が御簾をあげて喜ばれたのは何故ですか? それと、「中納言参りたまひて」の「これ隆家がことにしてむ」の意味がわかりません。 わかる方がいらっしゃいましたら、どちらか片方でもいいので教えてください。 よろしくお願いします。

  • 枕草子の質問

    枕草子の質問 清少納言が初めて宮に参上した時の一場面です。 「(中宮が)物など問わせ給ひ、のたまはするに、久うなりぬれば、」 という文章があって、現代語訳には 「(中宮様が)何かとお尋ねなさり、お話しなさるうちに、時間も経ってしまった」でした。 たしかに「のたまふ」には仰る、言うという意味がありますが、お喋りをする、お話しなさるなんて意味はないですよね?「物語のたまはする」とかだったらわかりますが、この文じゃただ中宮様が質問し、その質問に何かを付け加えるように言葉を言って、(その質問が長いのか)時間が経ってしまった、という風にしかとれないです。ただ中宮様が一方的になにかを言っているというふうにしか取れないですし、お話し、お喋りをする、という、清少納言と中宮様の相互の動作だとはとれませんでした。 どうしてこの文はこの訳になるんですか?教えてください。

  • 定子と彰子

    中宮定子に仕えた清少納言、中宮彰子に仕えた紫式部。 前者は主人である定子を手放しで賛美しています。確かに美人で明朗闊達、思いやりもあり、現代に生きていれば、男女ともに好かれる女性だったと思います。 一方、後者の彰子&紫式部の関係はどうだったのでしょうか?清少納言が定子を賞賛するほどは、彰子が大好き!とは感じられません。源氏物語を書くに当たってのスポンサー的役割を果たしていたのが彰子の父・藤原道長だったようですが、作中でこき下ろされている女三宮のモデルが彰子ということも聞いたことがありますし、受領階級の式部が貴族として崇めるのは皇族だけであって、本当は権力者の娘が本当は大嫌いだったと読んだことがあります。 定子は父・道隆が没し、実家が没落、自身も出家したにもかかわらず、一条天皇の寵愛があせることなかったことから、本当に魅力的な女性だったと思いますし、源氏の母・桐壺更衣を彷彿とさせます。 反面、後から策略家の父・道長により入内した彰子はどれだけの魅力があったのでしょうか?定子の遺児・敦康親王の養母となり、愛情深く育てたという説もありますが、自分に男児が産めなかった場合のための駒として育てたという説もあります。夫に好かれたかったという気持ちもあったと思います。定子の死後、一条帝の寵愛は彰子一人とありますが、権力者の娘ですし、調和を重んじる帝は道長を怒らせないようにという配慮もあったのではないでしょうか。当時の天皇は、妃の実家の権勢に応じて寵愛するのが常識でしたし、彰子の実家は並びなき権門だったので、寵愛したのは、父が道長だったというだけのように思います。実際一条帝は、定子の妹を身分に関係なく寵愛していますし。そう考えると意外と弘徽殿の女御は彰子がモデルになっているのではないかと思うこともあります。権力者の娘だから、表向きは皇子も産ませて、大事にしているが・・・という感じで。 一条亡き後、孫にも先立たれるほど、あの時代で現代人と同じくらい長生き(86歳くらいで没)したことを考えれば、正直しぶとく生きて、失礼ながら身分が高かっただけで、あまり美人ではなかったようにも思います。権力者の娘として何の苦労もなかったとは言い切れないとしても、壮絶な短い一生を終えた、才色兼備の定子と比べれば、権勢の華やかさでは勝っても、魅力はいまひとつ冴えないように感じられます。ちなみに源氏物語でも権力者(源氏)の娘というだけで、何の苦労もせず、個性のない明石の中宮が私は一番嫌いです(笑)