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日本は「豊葦原瑞穂國」と呼ばれていましたが、「瑞穂」と並んで「葦」を取
日本は「豊葦原瑞穂國」と呼ばれていましたが、「瑞穂」と並んで「葦」を取り上げたのはどのような理由によるものでしょうか。 「葦」は、竪穴式住居の屋根材として有用である、とは思いますが、何か特別な理由があるのでしょうか。 よろしくお願いします。
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古事記に、最初の二柱の神が誕生する様子の描写を 「葦牙のごと萌えあがる物に因りて」と書き記されています。 この葦牙は葦の芽の事を言います。 その二柱の神の作った島々を「豊葦原の千秋の長五百秋の水穂の国」と記します。 これにより、日本は「豊葦原瑞穂國」と呼ぶそうです。 他に葦には水から真直ぐに生える事で生物の生息地を与えることに繋がり、 生物が集まる事で微生物等により汚れの分解等を促進し、自然の浄化作用において重要な存在であります。 また茅葺の屋根材としてだけでなく、葦簀(よしず)=すだれとして日除けなど、葦舟としての材料、 葦笛など茎が空洞なのを利用した楽器など、その活用法は多岐に渡ります。 また古代エジプトの死者の楽園は葦の茂る原野と記されています。 生活にも活用でき、また神話にも登場するので、葦が取り上げられたのではないでしょうか
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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goo-par1732さん。 私は回答投稿に参加する資格を具有する知識も経歴もありません。 伝説や神話に関心を持ち始めた70も大分過ぎた老人です。 「豊葦原瑞穂國 (とよあしはら みずほのくに)」って私達にはリズムもあり、わたしたちとしては膾炙していることばですね。 「豊葦原」でなければ、「瑞穂國」となりえないことは農業的にも地勢や気候上も頷けそうです。 この言葉はいろいろに出てまいります。 これは今は私達の日本語として発音し、理解しております。 でも最初にこの表現をし始めた状況や人はどんな人なんでしょうか? 大陸や半島をという厳しい風土気候からたどり着いたのでしょうか? 或いは、南インド地域などから環太平洋の海岸や島島をつたいながらきた安曇的な人たちでしょうか? そういう人の出港した地域はやはり草木の天国、受容し育み、育成する女体に似た湿潤な豊かな気候風土ではなかったでしょうか? 私は東京生まれ、東京育ちでここを一歩も出ておりません。 関東の大平野の内、山手線の走る上野の山から江戸湾にかけて、そして神奈川を境に、更に松戸のあたりを境に江戸湾を囲む地域は、江戸湾の河川敷、湿地帯だったそうです。 舞鶴城の江戸城は無論、海苔の浅草、町屋、日光街道の最初の宿場北千住。向島。 将軍の狩場である小菅や堀切、お花茶屋、葛飾の郷。ここらはお江戸の大川なる隅田川の河川敷です。 あらゆる鳥が飛来する将軍の狩場。東京拘置所である小菅の刑務所はその宿所。 荒川放水路とか綾瀬川はなかった。旧(ふる)綾瀬川はあったが。 わたし浅草で戦災に会い、隅田川を越えたここらにきた1945年頃は正に「豊葦原」の地域でした。 多分日本列島の湾岸はそういう景色ではなかったろうか。 山間の厳しい風土気候とは異なるが、どちらかというと古代の南インド地域にも類似しているでしょう。 そして環太平洋の沿岸も同じ景色であったろう。 半島や大陸からの方が最初にこのことばをいったとすれば賞賛と喜びであり、沿岸を伝わってきた方々が最初にいったのであれば、懐かしさかも知れません。 蘆については他の方もご回答です。 インドには神話にも出てくるクシャ(kusya ora ,usha)という多年草の植物が豊富だそうです。 私はこのクシャに類似しているのかと空想して、生物カテで質問を起しました。 この草の生い茂る河というか川にこの草(だと存じますが)を編んで、舟を作り、王妃となる女性がいわくのある息子を流しました。 マハーバーラタのカルナですね。カルナは老武士夫妻に拾われ育てられます。 そんな草がこの「豊葦原」の葦ではないか。と想像しております。 そして日本の太平洋岸の湾岸地域はどこも大きな「豊葦原」の世界であった、つまり瑞穂が豊かに実る土地であった、と思い続けてきました。 「豊葦原」なるが故に、実り豊かである。という美称でもあるのではないでしょうか。 義兄の分骨に、先年、環太平洋の国を旅したとき、やはりそんな印象をもちました。 古代の人の喜びの声とことばだと存じますが、的外れでしょうか? なおこの葦類似の草ではないかと思い少し前に質問を生物カテで出しました。 http://okwave.jp/qa/q6134582.html でそ。 できれば何かコメントをいただけるとありがたいです。 どうかよろしくお願い申しあげます。すみません。 クシャのことは、http://en.wikipedia.org/wiki/Kushaには少ししか乗っていません。
お礼
krya1998 様。 「葦原」の原風景について独特の見解を示して下さってありがとうございます。 『書紀』は、隋・唐の都を知る「渡来した中国人」と「漢文を知る日本人」によって編纂されたと思っています。 ですから「豊葦原瑞穂國」と称したのは、「賞賛と喜び」の感情であったと思います。 インド神話に出てくるというクシャ(kusya ora ,usha)についても大いに関心があります。
- 桜木 覚(@Sakuragikaku)
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豊「葦原」瑞穂國は、豊「葦」瑞穂國ではありません。 豊かなのは葦ではなくて葦原です。 葦原は、湿地帯のこと。干潟を形成します。 干潟が豊かであるということは生物層が多様ということで、魚介類も鳥も獣も豊かな場所となります。(干潟の重要性はラムサール条約などでもいわれていることです) 瑞穂が農耕民の主食だとすれば、葦原は狩猟採集民の主食を象徴していると言えるでしょう。
お礼
ご教示ありがとうございます。 記紀の時代では、葦原とは広々とした湿地を意味しているのですね。 大変参考になりました。
- hinode11
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現代では生活の三要素として衣、食、住が採り上げられます。 しかし古代は、生活の二要素として食、住を採り上げたのはないでしょうか。古代から現代までの間に価値意識が変化したのです。 (1)食料がなければ人々は死にます。最重要の食料として米を採り上げ、「瑞穂」と表現しました。 (2)最重要の住宅資材として葦を採り上げ、「葦原」と表現しました。「葦」は、竪穴式住居の屋根材だけでなく壁材でもあります。つまり葦は、冬の寒さから人々を守る最重要の住宅資材でした。葦がなければ人々は冬を越すことができなかった、つまり凍死したでしょう。
お礼
葦は、今日でも琵琶湖や淀川で大切に保護されています。 古代から重要な植物だったのですね。 古代に思いを馳せています。 ご回答ありがとうございました。
お礼
ご教示ありがとうございます。 なるほど! よく解りました。 「葦船」は、どこかの国で今も使用されている様子をテレビで観ました。 「葦笛」もあるのですね。 葦は、毎年新しい芽を吹く生命力の強い植物ですから、国家が永遠に続くことを願ったものでしょうね。 古代エジプトの話も思い出しました。 すっきりしました。