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縄文時代と弥生時代の建物の違いの付いて教えて下さい
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- pri_tama
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再度投稿します。 何気に次の古墳時代も、黒井峯遺跡の調査だと一部の庶民はまだ竪穴式住居に住んでいた様です…。(竃[かまど]などの技術革新は見られますが) http://www.gunmaibun.org/guide/3/3-6-14.htm ただ、この時代から平地式住居と呼ばれるものが出てきますから、何らかの革新があった事は間違いないと思います。 http://www.mediajoy.com/chikatsu/cs/cs11.html 私個人の意見としては、鉄器の普及が原因の一つかなと思っているのですが…。(建築材料の作成効率が全然違ってきますから) また、わざわざ庭の周りに垣根(かきね)を囲うなど、弥生時代以前の集落共同体から、個人や一家と言った物に価値観を見出すなどの意識改革が有ったのかも知れません。(ただの歴史好きの空想ですが(^^;))
- pri_tama
- ベストアンサー率47% (674/1410)
住居に限ると、極端な違いは…。 三内丸山遺跡(縄文時代) ← 高床式建物も有るよ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%86%85%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E9%81%BA%E8%B7%A1 吉野ヶ里遺跡(弥生時代) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%87%8E%E3%83%B6%E9%87%8C%E9%81%BA%E8%B7%A1 三内丸山の六本柱建物跡は、巨大な柱である事と、柱の穴の間隔、幅、深さがそれぞれ4.2m、2m、2mで全て一致することで、これはその当時既に測量の技術が備わっていたことを示しており、また4.2mは、他の遺跡でも確認されており何らかの技術の共有をしていた可能性が考えられています。(柱の腐食を防ぐ対策も行われています) 三内丸山遺跡が国の特別史跡になったのは2000年ですから、縄文時代の研究はまだ十分ではないのではないかと思います。 (三内丸山には複数方式の竪穴式の住居が展示されていますし、一部の研究者からは立派過ぎないか?と言う声も…。) ただ、集落と言う点を見ると吉野ヶ里遺跡は、明らかに城郭施設の様な防御的な要素がありますから、この点は縄文時代とは明確な違いかもしれません。 水稲耕作による富の集積化や中国の複数の記録にも残っている「倭国大乱」と言った事象が影響しているのかもしれません。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E4%B9%B1
お礼
pri_tamaさん ありがとうございます お教え戴き感謝しています 縄文時代に既に巨大な高床式の建物があったのですね 縄文時代・弥生時代 不思議な時代ですね だから面白いです 縄文時代も弥生時代も 普通の人は同じような家に住んでいたように思えます 縄文と弥生が文化の違いがあるのなら なぜ一般の人の住まいがあまり違わないのでしょうか 教えて頂いたのに 疑問がまた大きくなりました ありがとうございます
- kitkat77
- ベストアンサー率32% (63/196)
http://www.new-agriculture.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=103462 縄文時代と弥生時代の違い、それは非文明時代と文明時代の違いとも言えますが、最大の具体的な違いは水稲耕作です。 というので、稲を乾かすのに弥生時代は基礎柱を高くして上に家をのせ 柱の途中でネズミ侵入防止のネズミ返しを作っていたというのが有名です。 http://shushen.hp.infoseek.co.jp/hitori/nenrin4.htm 学問的詳細には、年代の区切りは難しいようです。
お礼
kitkat77さん ありがとうございます 早速のご回答感謝しています 柱の途中でネズミ侵入防止のネズミ返しを作っていたのですね。 知りませんでした。
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