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縄文時代と弥生時代の定義は?
ここ数年「いままでおもわれていたより何百年くらい前にも稲作が。」 みたいなことを聞くのですが、 弥生時代の定義って「米作りがはじまったときから」じゃないのですか? 「縄文後期から稲作が始まった」ではなくて、 「弥生時代の始まりがさかのぼる」だとおもうんですが。 弥生時代、縄文時代の定義ってなんなのですか? いままでは米だとおもっていたのでしょうか? 土器なんでしょうか?骨格などなのでしょうか? けど稲って外国のものだから、 はいってきたときにいわゆる「弥生人系」の顔の人もはいってきただろうし、 新しい土器の文化もできてきそうにおもうのですが、ちがうのでしょうか? すべての弥生文化のはじまりは稲だとおもってたのですが、 本当はどうなんでしょうか? ぜひよろしくお願いします。
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主に土器の様式によって区分しています。以前は弥生式土器を使用していた人々が稲作をしており、縄文式土器を使用していた人々が定住せず、採集、狩猟生活をしていたと考えられていましたが、大規模な縄文集落が発見され、縄文人も定住し、何らかの栽培文化があったと考えられています。 だから「縄文時代の晩期に稲作が行われていた」という記述がされたりするようになりました。 ただ、時代区分論は、何を持ってひとつの時代とするのかという、極めて哲学的、歴史論的な議論となってきます。 つまり、土器の様式なのか、生産技術なのか、などなど。 いずれにせよ「文化」はある日突然変化したりはしないのが普通ですので、いろいろな人々と交流し、少しずつ変わりやすい要素から変化していったのではないでしょうか。(民族が入れ替わったのなら別ですが・・) 念のため、日本列島のある部分で弥生文化が始まっていても、他の大部分で縄文文化であったわけで、「日本」が全体として弥生時代にいつからなったのか、難しい問題です。
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- gimpei
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縄文と弥生の境界は定説となっているかは知らない ですが、狩猟移動生活で栽培するのと、定住地で 「ムラ」を形成して「水田」による栽培をするなどの 違いがあるらしいです。 他にも文化の違い、土器を焼く温度の違いつまりは 技術の差など、いろいろな見方は出来ますが、私が 関心をもったのは、自然と共存し原始共産的な縄文と 定住性、貯蓄、貧富の差など現代にまで続く社会の 根源を感じさせる弥生ということ。稲作だけでなく いろんな視点で文化などの違いに注目すれば、 面白いですよ。
お礼
参考URLを見る限り、ず~っと一箇所にいついていたわけでなく、 採集したり栽培してみたりしていたようですね。 けど謎なのは、稲作は外国人が伝えたでしょうから、一緒に弥生文化もはいってきたはずなのに、なぜ縄文文化の中稲作がなされていたのでしょう? (弥生文化って外国文化ですよね?もしかして外国から伝えられたもは稲のみで、 文化は日本産なんでしょうか?) 水田っていうのもあったんですね! 「縄文後期の稲作」は水田でなく、 乾いたところ(乾田?)だったりしたんですね。 ご回答ありがとうございます。
- takao
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縄文式の土器を造っていたのが縄文時代で、縄文が廃れていった頃からの時代を 弥生時代と呼ぶのだと考えていました。 ただ、良渚文明の滅亡などを機に大和へ稲作が伝来し、それが弥生時代のきっかけになった という可能性はあるでしょうね。
お礼
やはり文化なのですね。私は土器はそれぞれの時代の「特徴」であり、 「定義」に近いものだとはおもっていませんでした。 稲作は絶対的な定義ではないのですね。 ご回答ありがとうございました。
- songbook
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確かに、稲作というのが決定的な区分でした。 しかし、その論が通じたのは、もう10年以上前までの話です。縄文時代晩期の遺跡から、稲作のあとが発掘されたことで、縄文、弥生の分かれ目に関する考え方は大きくぐらつきました。 まあ、土器の作り方が違うし、住人の骨格も違うといわれているし(弥生人は、縄文人にとって代わったり、共存することになったりした移民といわれています)、それらをもって、縄文、弥生を区分すればよいのでしょう。 ですが、最も重要とされる「稲作」については、先に述べたとおりの事情で、厳然と、きっぱりとした分かれ目は認められておりません。 とはいえ、弥生人の移民により稲作が爆発的に広まったことは間違いないようですし、それによって、完全な居住地の固定、もつ者と持たないものによる序列の始まり、領地、争いの始まりなど、現在の社会の基盤が作られたことは確かなようです。
お礼
>縄文時代晩期の遺跡から、稲作のあとが発掘されたことで これがよく分からないんです。土器が縄文であってもなんでも、 稲作さえしていれば弥生時代、とおもっていたのですが違うのでしょうか? >弥生人の移民により稲作が爆発的に広まったことは間違いないようですし。 ってことは稲作がはじまるのに弥生人(外国人)が不可欠ってことですよね? ならば稲作と共に弥生文化も広がると思うんですが、 「縄文後期の稲作されていた場所」では文化は縄文だけど、稲作はあったってことでしょうか? とにかく文化に関係なく二つを分けるのは稲作だ、というのは違うようですね。 ご回答ありがとうございます。
お礼
やはり土器ですか…。 「縄文土器を使用しながら稲作をしていた」人々がいたんですね。 ってことは弥生文化は稲作と共に突然外国から伝えられたのではなく、 日本人の間で稲作がきっかけとなりだんだんできてきたんですね。 縄文土器を使用しながらも稲作をしていたという中途半端なのにかかわらず、 「縄文後期」というのは、 「どちらともいえないが、縄文土器なので、はっきり典型的な縄文時代ではないので『縄文後期』といわれている」にすぎないのでしょうか? >いずれにせよ「文化」はある日突然変化したりはしないのが普通ですので 私は弥生文化は突然やってきたのかとおもっていました。 縄文文化からだんだんできていったのですね。 ということは弥生土器と縄文土器の中間、というのはあるのですか? >時代区分論は、何を持ってひとつの時代とするのかという、極めて哲学的、歴史論的な議論となってきます。 では、おなじことを繰りかえすようですが、 便宜上「縄文後期」といわれているだけであって、「弥生初期に縄文文化もまだまだ残っていた」ともいえるんでしょうか? 質問ばかりでもうしわけありませんが、どんどん湧いてくるもので…。 すこしでもわかればできればお教え下さい。 ご回答ありがとうございます。