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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:へびがわたしを噛むのか わたしが蛇を迎えにいくのか)

へびがわたしを噛むのか わたしが蛇を迎えにいくのか

heyboyの回答

  • heyboy
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回答No.16

思いっきり横ヤリで しかもこう言う仏教的な哲学が苦手ですが 自分が思ったままに回答します!! (α)絶対消えない筈、 消えたのではなく単に見えないだけ。 (β)デーモン作用がよくわからないけど でもデーモン作用はアダムが林檎をかじった時から 起こった事であり絶対的になくなる事はありえない だから人が介入したぐらいで変わる事は絶対ないと 思われるのですが、、、、。 (γ)現実と言うかリアルは絶対不変でしょ? (δ)十二分なほど哲学的ですがそれが何か? デーモン作用が意味不明ですが(ほかもだけどwww) 自分的には縁起があるからONないからOFFではなく 常に縁起は起きているけどそれが目に見えるか 見えないかの差だけで起き続けていると仮定しますね 、、、、、。 (話は反れますが足元の蟻だって尊い生命はある それにも気が付き踏まずに歩く事は出来ますか? 蟻から見えれば人間はデーモンですからね) まあ、結果的に自分から蛇に近づいて噛まれるのではなかろうか? って視点も面白いと言うか いくら自分自身が神に反抗してやってのけたと思っていても 実は釈迦の手の平の中と言うのは自分的には普通かな? 神は自分の内にも外にも存在すると言うのが 最近の自分の考え方なのでー。 では失礼しました。

bragelonne
質問者

お礼

 ヘイボーイさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  《横やり》かどうかは 問題ではありません。回答を寄せているかどうかが 大事です。そうではないでしょうか? そうでない投稿者も散見します。  さて  ★ (α)絶対消えない筈、 / 消えたのではなく単に見えないだけ。  ☆ これは おそらくそういうことだとわたしも考えます。つまりすでに次のように述べています。  ☆☆ (No.2補足欄&お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~  《神》から見て・もしくは世界の総体において 悪は《消えない》。個人にあっては 《前史から後史へ入った》なら その限りでデーモンは――《種子:記憶に蓄えられたもの》としては――《消える》。    《消える》と言ってはいますが わたしの表現としては むしろもっと弱いものなのです。つまり・・・ただ《デーモンないし悪もしくは罪》が なにものかによって 覆われる。よって表には出ない。けっきょくその意味で《消える》と言っているのですから 《消えてはいない》とも言えます。  でも前史での現われとは 一線を画しているのが 後史だと言えるとも思います。  デーモンよ さようならと。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ (β) ・・・でもデーモン作用はアダムが林檎をかじった時から / 起こった事であり絶対的になくなる事はありえない  ☆ これについては 二通りの反応を持ちます。  (1) そういう定義でしたら 《原罪》という主題にかかわりますね。じつは これについては いまでは――イエスの出現のあとでは―― まったく問題にならない。こう思います。神は ひとが原罪に落ち入ることを知っていたわけですから その落ち入ったあとの人間をあらためてその原罪の《消えなさ》をイエスの登場によって削除したとわたしは考えます。  言いかえると 原罪といった概念のなかった人びとのあいだで元から その無かった状態にありつづけたそのありさまに帰ったのでしょうし この《帰り》というのは アダムとエワの時までさかのぼるのですから けっきょくいまでは初めから 原罪はなかったことになる。こう考えます。  (2) 《鬼》と訳しておきましたが ここで《デーモン》は要するに わが意志の《へそ曲がり》に発して しかもこれが凝り固まった状態(および そこに特には 情念が伴なわれることが多い場合)を言います。敵対心や復讐心に燃える場合というのを No.13のお礼欄に出しました。そういう事例のたぐいです。  で この場合のデーモンは 一方で――たとえ前史から後史へと回転したとしても――たぶん消えない。他方で もし後史というのが現実であるならば すでに(α)のところで触れましたが 消えないけれども覆われ包まれもはや表に現われない。このようにいまは思っています。  No.13のお礼欄に紹介した《復讐心》の物語――つまりそこでは そのデーモンが《あたかも消えた》――を参照してもらえればさいわいです。  ★ (γ)現実と言うかリアルは絶対不変でしょ?  ☆ あぁ これは 《突然変異》のような変化を予定しているものです。でもそれによっても あたかも蛹が蝶に変態するかのように《人間(現実)が変わる》と わたしは予感しています。ので 問いました。論証はありません。出来ません。その点 澄みません。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  まあ、結果的に自分から蛇に近づいて噛まれるのではなかろうか?  って視点も面白いと言うか  いくら自分自身が神に反抗してやってのけたと思っていても  実は釈迦の手の平の中と言うのは自分的には普通かな?  神は自分の内にも外にも存在すると言うのが  最近の自分の考え方なのでー。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ がおもしろいのですが これについてひとことです。  もしこの釈迦か神かのなぞの何ものかが 心を持っていて 次のような空想の事態が現実になるようにじんるいをみちびいたとしたら どうでしょう?  ▼ (イザヤ書11:6-8) ~~~~   狼は小羊と共に宿り   豹は子山羊と共に伏す。   子牛は若獅子と共に育ち   小さい子供がそれらを導く。   牛も熊も共に草をはみ   その子らは共に伏し   獅子も牛もひとしく干し草を食らう。   乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ   幼子は蝮の巣に手を入れる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまりこの事態をさらに比喩として デーモン作用のことを言っていると採ればどうでしょう?  すなわち 《毒蛇の穴に戯れること あるいは 蝮の巣に手を入れること》が デーモン作用を受けたり追い求めたりすることだとすれば です。どうでしょう?  

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