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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:へびがわたしを噛むのか わたしが蛇を迎えにいくのか)

へびがわたしを噛むのか わたしが蛇を迎えにいくのか

heyboyの回答

  • heyboy
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回答No.28

色々と勉強不足ですが度々失礼します。 原罪はどうなんだろうなあ こんな事を書くとナンですが イエスキリストが十字架の上で 「彼らを許してください 彼らは何をしてくるのかわからないのです」 と言っているぐらいなので 彼らは原罪の呪縛からは説き離れない と言っているようにも聞こえますがね、、、 そもそもが生きるために動物を殺すのは 現代社会では当たり前で罪なんか感じない (ここは人の感覚や価値観の違いはありましょうが) とされているのだろうと思いますが 元々農家だった所では 「食べ物を粗末にしてはいけない」 文化が継承されてますし 日本にも魚の鎮魂のための慰霊碑があったり 聖書で書かれているような子羊を捧げる行為は やはり羊たちへの鎮魂の意味が込められて いるように思えます、、、、。 前にも書いたと思うのですが 人間がアリさえ踏んでも気が付かないように 原罪は見えにくいけど自分らは自然と犯している とも言えるのではないのでしょうか? >【Q:悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみだ。】 面白いですね ふと小さい時にみたヤットデタマンの大巨神の 台詞が思い出されましたが 「罪を憎んで、人を憎まず」を思い出します。 まあ、正と正の戦いって 戦争とかを連想しますからね 本当に正しくたって負ければ悪ですからね、、、。 とりあえず締め切る可能性もあるので 取り急ぎですんまへん。

bragelonne
質問者

お礼

 ヘイボーイさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  最近 この質疑応答の場は 回答者が質問者に――質問趣旨にかかげたたたき台に対して――質問するのだと言った事例を見ました。この質問にかんしては 質問者のわたしは たたき台についてかなり自信があるのですが いかんせん この主題は 神学だとか信仰の核心に迫るものにかかわっているので 決定版というのがないかも知れません。  さて 思うところ感じたところをしるします。  ★ 「罪を憎んで、人を憎まず」を思い出します。  ☆ これは そういうことわざがあるのですから もっと徹底してみんなが考えていくとよいと思います。ちなみにアウグスティヌスの命題を引いておきます。  ○ われわれは人を愛し欠陥を憎むのであって 欠陥ゆえに人を憎んではならず 人ゆえに欠陥を愛してもならない。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そもそもが生きるために動物を殺すのは  現代社会では当たり前で罪なんか感じない  (ここは人の感覚や価値観の違いはありましょうが)  とされているのだろうと思いますが・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この主題は旧くてあたらしいものですよね。殺生を禁じるのなら 問題になります。  わたしは 正直に言って 分かりません。  もし恥ぢしらずの汚名をもらっても言うのだとすれば ひとことあるにはあります。それは 人間以外の動物は 《欠陥とか それを憎む》ということがないと思われることです。感情移入してあわれむという場合などはあるようですが それと殺生の事実とは けっきょく両立していますので 何とも分からないというのが いまの気持ちです。考えてもまとまりません。  そうして そこにも《原罪》を見るということですよね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  人間がアリさえ踏んでも気が付かないように  原罪は見えにくいけど自分らは自然と犯している  とも言えるのではないのでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここに原罪を持って来られては 話が止まってしまいます。  そしてその上でですが それでも次のご指摘はどこか違うように思います。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  イエスキリストが十字架の上で  「彼らを許してください  彼らは〔* 自分たちが〕何をして〔い〕るのかわからないのです」  と言っているぐらいなので  彼らは原罪の呪縛からは説き離れない  と言っているようにも聞こえますがね、、、  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは ひとつには イエスによる原罪のあがないがまだ完了していない段階でのことだと考えます。弟子たちでさえ イエスが逮捕されたあと イエスを否認して 逃げていたくらいですから。  ですから このはりつけと――物語における限りで――復活のあとでは アダムとエワの侵した原罪(その人類としての継承)は きれいに取り除かれた。こう受け取ります。  とげは抜かれた。あとは患部の癒えていく段階だと見ます。  神にとっては千年が一日だということで 現在はやっと二日が終わったところです。三日目に入って真夜中です。(別に真夜中でなくてもよいと思います)。   ともかくも《呪縛》は解けたと考えます。後遺症があるかどうかですが どうでしょうかねぇ。  母斑――あざや ほくろ――として残っていると言うべきでしょうか。どうでしょう?  この前史の母斑をたずさえてでも そうだとすれば すでにわたしたちは後史に入っているとも見られます。  どうでしょうか?

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