• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:へびがわたしを噛むのか わたしが蛇を迎えにいくのか)

へびがわたしを噛むのか わたしが蛇を迎えにいくのか

noname#131234の回答

noname#131234
noname#131234
回答No.7

昔についても今についても認識が足らないおかまちゃんが、 未来について哲学することは出来ません。 回答 手懸りとして現合というものがあります。 かまれていないのにかまれたというのは妄想です。 希望退職なのに解雇された。というのはいじめられっこの泣きじゃくりです。 本論 Hegel 法哲学35をお読みになったごようすですね? 補足要求(注意事項 A-No.1お礼 引用文が 間違っていますよ) Hegel 法哲学35 補筆をみると 抽象的意思「Wille」、別しては即自的に今存在している意思が、(法解釈上の)「人」である。人間至高の目的とは、(法の下の) 一法人たることである。ここで、しかし同時に、単なる抽象化された法的「人」の概念が、価値論的に高い位づけを受けているとはいいがたい。法的「人」とは、実体という観点にひきつけて述べるとすると、「主観」とは相容れないばかりか、人の人とたるゆえんである。主観とは、単に人格の可能性に過ぎず、可能性とは、主観の受け皿であり、存在論的に見るとただの修辞である。というのも、全ての生きとし生けるものは、可能性としての主観を保持しているものであり、法の下の「人」は、数ある主観のうちで、主観的連関を対象(オブジェクト)として掌握している一法人であるからだ。法の下にある「人」として、自我は、即自的に現在する。この文脈で、人格こそが自由な現存であるといえ、その現在(如実としてあるということ)は、純粋な自己意識のなかに、孤高として起つのである。 一法人としての自我は、自由を知り満ち足りている。自我は自己の何たるかを、物理的事象から選り分け実体化する。というのも、自己・純粋人格・無を対置したとき、純粋人格を捨て置いて、自我を語ることは出来ず、自己の本源性を無と対置する哲学的ではない誤認となってしまうからである。 にもかかわらず、実存する自我は、法制上「特定の人」として把握された場合、徹頭徹尾、束縛されているとも言える。特定の年齢・身長・どこそこに住所を持つといった具合にである。 言い換えれば、そういう意味で、法制上の「人」は、最高の価値をもつ、と同時に、取るに足らない「もの」であるという見方があるのである。 かくして、一法人という概念の中に、対立的意義として、定律性と非定律性・限定性と非限定性が、ひとつ 結びついているのである。人格の尊厳性は、ある種の統立的矛盾を自己の中に封じ込めている。そういう意味で、「自然的事物」とは、相反するものであり、内容的にも独立しており、自然的なものが何者であろうと寛容な態度では容認することが出来るはずもないのである。 とかいてあります。 質問者様の読解力を疑います。引用には何を使っているのですか? 貴方のオレオレは、思いつきの自然です。 あなたの理論は、それを容認してしまうとヘーゲルさまに怒られてしまうような とんでもない動物的「おさる理論」です。私は騙されませんwwwにょ 「猿の惑星」の平和(やっぱり臭いの?)を乱すつもりはございませんが、 わたしはこころの兎をおされてませんwwwので その御つもりで 本題に戻りますと 「無限なものと 有限なものとの一体性」 というよりは 抽象世界での一箇性というべきところの精神です。 無知の知こそが、普遍と自由の源だといっているだけです。 動物の主観と人間の主観を区別する境界線の「はなし」が出てきて 人格が大事であると述べている。 さて質問者様の人格=はなぢはどうなのでしょうか? 「矛盾」ではなく対述用言的体言Widerspruchです。 わたしたちの中に息づく「もの」ではない「根源」を抽象性に類すると述べているだけであって読み間違いです。 法哲学 の 本来的意味 すなわち インテリジェンス を前提とした権能=Recht としての訳文把握が出来ていないので見逃しているようです。 自然ではないものとは、人的格律としての主観のことです。Gesetzではありませんので・・・ 提案 訳し間違えても意味が通ってしまうフランス語風散文とはわけが違います。 「ウッキィー(=いいぢゃないか;自然原語意訳ウィー)」 (出典『おぢぢ自然旋律 第13 -おさるの障-』)ではだめですよwww ヘーゲルを批判したいと思うのなら もうちょこっとドイツ語を勉強しなさい。 ハイデッガー批判も取り下げなさい。 (英語でも部分的に許可www、 勉強嫌いのおぢぢ様へ わたしは貴方の診方です。 味方かどうかは考えればわかりますwww) 異物は、もう少し心の余裕を養うべきです。今からでも遅くありません。 最近 さるまわしも拍子抜けしているようです、元気を出してがんばってください。

bragelonne
質問者

お礼

 どうも主題をつかむことから始めなければならないところを ひとつの事項をのみ捉えて茶の木畠に入って行ってしまっている。  ご投稿に感謝しますが 方向やねらいが定まっていないようです。  まづ 訳文を それでは掲げておきましょう。  ▼ (ヘーゲル:法哲学 §35 追加) ~~~~~~~~~~  § 35 追加〔人格という概念の高さと低さ〕  対自的ないしは独立に有る意志 すなわち抽象的な意志が 人格である。人間の最高のことは 人格であることである。だがそれにもかかわらず たんなる抽象物たる人格といえば すでにその表現においてなにか軽蔑すべきものである。  人格は 主体とは本質的に区別されている。というのは およそ生きものはいづれも一つの主体である以上 主体はただ人格性の可能性でしかないからである。したがって人格とは この主体性が主体にとって(対自的に)有るところの主体である。なぜなら 人格において私はまったくただ私にとって(対自的に)有るからである。すなわち人格とは 純粋の対自的存在における自由の個別性である。  私はそうした人格として 自分を自分自身のなかで自由であると知り いっさいを度外視しうる。なぜなら 自分の前には純粋な人格性以外になにものも存在しないからである。  しかも私はこの者として 一つの完全に規定されたものである。――たとえば しかじかの年齢 しかじかの大きさ この空間にいるなど まだほかにいくらでも一個特殊的なものがあるであろう。  こうして人格は 高いものであると同時にまったく低いものである。人格のうちには 無限なものとの こうした一体性がふくまれている。この矛盾は どんな自然的なものも自分のなかにこれをもっていない ないしはこれを我慢できないであろうが この矛盾を持ちこたえることができるのが人格の高さである。  (藤野渉・赤澤正敏訳 1967)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これで意味はじゅうぶんに通るし取れるはずです。もっともわたしは あくまで自分の趣旨に合わせて引き合いに出しているというかたちです。  こまかく見れば 《対自的》と《即自的》がちがっていますね。この訳文に即すかぎり 《主体性》のほうが 《即自的》な存在を言おうとしているようですから 人格については対自的の訳語のほうが妥当だと見られます。  ★ 無知の知こそが、普遍と自由の源だといっているだけです。  ◆ 人格の尊厳性は、ある種の統立的矛盾を自己の中に封じ込めている。そういう意味で、「自然的事物」とは、相反するものであり、内容的にも独立しており、自然的なものが何者であろうと寛容な態度では容認することが出来るはずもないのである。  ☆ つまり 人格ないし単純に人間存在はその《自然本性》において潜在的なかたちでにしろ 《ある種の統立的矛盾を自己の中に封じ込めている》。そうなのであるが しかも《自然的なもの〔としての状態にあるひと〕》はその《封じ込め》ないし《含み持つこと》が出来ていない。  このときこの訳文にしたがう限りで言えば 人格が《自然的事物とは相反する》という表現は あやしい。自然本性において 人格ないし人間存在は 自然的事物と 別に相反する必要はない。相反する自然的事物というのは 自由意志のわがまま・つまりへそ曲がりのことであろう。これは 人格にさからう要素を持つ。ただし もともと人格についてはその高さを言おうとしているのであるから この《わがままなへそ曲がりとしての自然的事物(恣意性というべきか)》をも人格は自分の中に湛えている。  ★ 自然ではないものとは、人的格律としての主観のことです。Gesetzではありませんので・・・  ☆ そうですよ。だからぎゃくに《自然的なもの》は この人格としての主観のようには 《無限なもの》をみづからの中に採り入れることが出来ていない。となります。  ★ 法哲学 の 本来的意味 すなわち インテリジェンス を前提とした権能=Recht としての訳文把握が出来ていないので見逃しているようです。  ☆ そうでもないでしょう。あるいは逆に わたし自身の意図は わざわざ《権能》を出して来る必要を認めていないということです。あくまで《自然本性》という概念で扱い得るという姿勢です。  つまり早く言えば わたしはここでヘーゲルを捻じ曲げている。ただその文章を出汁に使っているのみだとも言えるでしょう。(それによって じつは このヘーゲルの文章も生きるとは思っています)。  どうでもよいことですが  ◆ 法人 法的《人》  ☆ こういう訳語は こなれていないどころか 誤解を生みやすいでしょう。 

関連するQ&A

  • へびがわたしを噛むのか わたしが蛇を迎えにいくのか

     たぶん《へび》は 《デーモン(鬼)》と呼べるのではないか。  そして このデーモン作用は 人間にとって社会的な関係において起こる。  (α) このデーモンは 縁起共生の空観において消えるというのか?  (β) 人生においてそのへびに噛まれつづけている(もしくは みづからすすんで迎えている)頃を前史とすれば 果たして このへびなるデーモン作用が消えた後史に ひとは入ることができるか?  (γ) 人間(現実)は変わるか?  ○ 《へび》についての参考資料:~~~~~~  星を散りばめたこんな時間に 独りして  そこで  もし風の音でないとすれば 泣いて  いるのは 誰かしら  今にも泣こうとしているわたしのこんなにそばで  いったい 誰が 泣いているの?  何か心の深い意図に対して憑かれたかのように  わたしは わたしのこの手は そっと 目鼻をかすめて  わたしの中から 多分それは わたしの弱さの中から  一滴のしづくがこぼれるのに  触れたように思っている。  〔わたしは〕わたしの運命をおもむろに超えて  《もっとも純粋なるもの》が  静寂のかなたから  この傷ついた心を照らし出してくれることを  待っている。  〔大波は〕大波のうねりは わたしの耳に〔は〕  咎めのうねりを囁いている。――  岩礁の喉の方へと 欺かれた藻くずを  ものを苦々しくも呑むことになったような  心を締めつける嘆きをざわめかせ  送りやっている。    髪を逆立て 凍ったような手をかざして おまえは  何をしているの?  あらわな胸の谷間を抜ける こんなに執拗な  風に吹かれた落ち葉がざわめき  つづけるのは  何故なの?  この未知の天空につながれて  わたしは きらめいている。  災厄を求めているわたしの渇きに 限りない天体は  輝いている。  ・・・  わたしは ここまで  わたしを噛むあの蛇を追ってきてしまったのかしら。  ・・・  (ポル・ワ゛レリ:若いパルク La Jeune Parque )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  あるいはつまり  (δ) この詩(抄訳ですが)の女は われに立ち還ったか?  * 若きパルク La Jeune Parque (壺齋散人訳)    http://blog.hix05.com/blog/2008/06/_la_jeune_parque.html  * Wikisource: La Jeune Parque    http://fr.wikisource.org/wiki/La_Jeune_Parque

  • 感性・性欲は中立 《ヘビ》なる情欲は理性の産物

     ( a ) ヒトは 時間的な存在である。  ( b ) 時間的なるものには 限りがある。《限りのないナゾなるもの》に向き合いひとは おそれをいだく。相対的な経験世界のうちに生きる存在であることの自覚である。  ( c ) このきよらかなオソレにもとづき 知恵を持つ。境地としての知恵のほかに 理性なるものをも発達させる。  ( d ) やがて 知恵のもとの自由意志は かしこくもか おろかにもか オソレにも逆らい 理性をおのれの都合よいように用いるようになった。  ( e ) そしてさらにこの理性は 意志にも君臨しようとするまでに到る。それだけの発展性は備えていたらしい。  ( f ) その頃には 《無限というナゾなるもの》は 理性が観念としてあたまの中におさめてしまった。《観念の神》の誕生である。のちにこの神――つまり人びとのあたまの中にあるだけの観念の神――は死んだと宣言されねばならないほどだった。初めから死んでいるのに。  ( g ) さてここで突然 この理性が 性欲をめぐって ヘビなる情欲として《観念の性欲》の世界をこしらえてしまった。のではないか? サドとマゾッホらあらゆる想像力を動員して《きよらかな畏れ》に挑戦してみた。  ( h ) 風呂に井戸を掘るたら何たら言う人間は この《オソレ――この上なくつつましやかなひとなる存在のいだく畏れ――》 これをアーラヤ識かどうかは知らないが 深層の心理の中にだけ閉じ込めてしまった。かくて このヰルスに感染したときには 神は ムイシキであるとなった。       *  ◆ 《へび》の問題  § 1 世界の民俗に見る《へび》の生活文化的・社会的な意味  次の文献によって わたしなりの分類をします。   ▲ 蛇(serpent)=『女性のための神話および秘義の百科事典』の一項目 Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)   http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/serpent.html    ○ (ヘビの民俗・その意味するものの分類) ~~~     (α) 水の神⇒ 生活・生命を象徴:知恵そして善なる神::直毘魂     (β) 水の神⇒ 河ならびに嵐として治水防風雨をしのぐ            あらぶる者:悪魔::荒魂     (γ) 脱皮して再生する習性⇒不老不死を象徴。     (δ) 前項より 子孫繁栄のための生殖力を象徴。     (ε) ゆえに エロスを象徴。     ~~~~~~~~~~~~~~      § 2 (ε)の《へび=エロス》なる民俗は 《要らない》。  併せて (β)の――自然現象の部分を問わないかたちでの・つまりは抽象概念となったところの・心理作用としてのごとくの――《へび=悪魔》説 これも要らない。または 信仰なる主観としては キリスト・イエスの十字架上の死とその復活によって克服された。ゆえに要らないと見ます。  この偏見で議論をとおしますので お見知りおきのほどをお願いします。  § 3 エロスが 人の生きることにともなうことと それをヘビに見立てることとは別だと見ます。その比喩からの通念は 要らないということ。  言いかえると 民俗の一説としてはそんなもんだと受け止めればよいのですが その心のうわべに心理作用および集団的な共同心理として咲いたあだ花が ついに 十九世紀・二十世紀になっても今度は《無意識》なる概念として・そしてさらには医学として科学であろうと見なされてオモテ舞台に登場してしまった。  こういう見方を持ちます。  § 4 この場合のムイシキは      (ζ) エロスをめぐるイド=エス(《あれ・それ》)        =リビドー(《欲しいまま・我がまま》):ムイシキ  のことです。  § 5 ムイシキの逆襲(?)  リビドーを抑圧すると――つまりは 自分はそんなヘビなどのことは知らないと決めて自分自身に対して隠してしまうと―― 人はそのムイシキの逆襲に遭うことになるそうだ。  その得たいの知れないムイシキの作用〔だと見立てているもの〕に抗しきれなくて振るった暴力(いじめ・虐待等)にほかの人が遭う。その被害をこうむる。そのとき受けた心的外傷は すなわちトラウマとなって 永遠に消えることはなく そこから人は完治することはないと説く。  すなわち その意味や次元にまで還元されたと言いますか そう見ることにおいて人間としての料簡が狭められてしまった。と考えます。  § 6 ムイシキとは 亡霊なり。  ムイシキなる仮説の登場はひとえに ヘビは エロスをめぐる性衝動の部分をつかさどる悪魔であり・人間の抗しがたい力としての悪霊であるという俗説から来ていると見ました。  その迷信が 現代においても猛威を振るっているようだと見るものです。すなわち エワとアダムのその昔からの亡霊であると。  § 7 聖書におけるヘビの克服物語  イエス・キリストが 第二のアダムとして 敵対していたヘビに勝利をもたらしたという物語が あります。つまり 虚構です。虚構ですが もともと ヘビは悪魔なりという見方が 虚構です。  いちおう理屈をつければ こうです。  悪魔は 死の制作者であって 自分みづからは すでに死んでいるので 死は怖くない。朽ちるべき身体を持つ人間にとっては 《へび=生命。善なる神》という俗説にしたがって その死が死ぬという・つまりは永遠に生きるという〔気休めとしてでも〕希望を持ち得るけれども 悪魔なるヘビは この死が死ななくなったという完全なる死の状態にある。そして その冥界へと人びとをさそう。  イエスなる人間をもさそった。仲間に入れと。ところが ついにこの人間は 死地に就くところまでヘビを嫌った。ほかのナゾの何ものかに従順であった。ヘビなる悪魔などは 屁の河童であると。  ますます怒った悪魔は ついに実際に〔それまでに部下に持った人間たちをして〕イエスを死地に追いやり見世物にまでして磔を実行せしめた。  ところが 死は怖くないアクマも けっきょくその死の世界にまでイエスという人間が自分の仲間となってくれたことに・そのことの思いに一瞬でも心を移してしまうと その身も死なる魂も すでに溶けてしまった。  § 8 聖書の関係個所を引きます。  ▲(創世記3:14-15) ~~~~  主なる神は、蛇に向かって言われた。   「このようなことをしたお前は   あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で   呪われるものとなった。   お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。   お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に   わたしは敵意を置く。   彼はお前の頭を砕き   お前は彼のかかとを砕く。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この部分すなわち   ▲ ~~~~~~~~~~   彼(=エワの子孫)はお前(=ヘビ)の頭を砕き   お前は彼のかかとを砕く。」   ~~~~~~~~~~~~~  という箇所が のちのイエス(エワの子孫として)とヘビの闘いだと言われます。  § 9 つづき――モーセにおける蛇との闘いの事例――  ▲ (民数記21:6-9・・・《青銅の蛇》) ~~~~  〔* 民がせっかく奴隷状態にあったエジプトから脱出してきたというのに そのことを荒れ野をさ迷うあいだに悔い始めたので〕主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。  民はモーセのもとに来て言った。   「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、   わたしたちから蛇を取り除いてください。」  モーセは民のために主に祈った。  主はモーセに言われた。   「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれ   を見上げれば、命を得る。」  モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。  ~~~~~~~~~~~~~  § 10 つづき――イエスは 《青銅のヘビ》か――  ▲ (ヨハネによる福音3:14-16) ~~~~  そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子(=イエス)も上げられねばならない。  それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。  神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。  独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  § 11 いかなる事態であるか?  もし性欲も大自然への畏れも ヒラメキをも含めて感性だとすれば この感性とそして理性との あらそい なのであろうか?  感性は 間違い得るし あやまちを侵す。ただし そのこと自体にウソ・イツワリがない。  理性は あやまち得ないと言い張る。ウソをもほんとうのことだと――つまりおのれの心をもだまし得て――丸め込む。  ただし このような問い求めをおこない説明をあたえるのは 理性でありそれを用いる志向性としての意志である。

  • [心」と歌手

    音楽の技術によって心が洗われて、その心が音楽や歌の技術を高めるといった技術と「心」のお互いの作用、やシナジー効果、あるいは循環の姿はさまざまにあると認めてはいる者です。 しかし、基本として、生活の中での感動や、苦しみを乗り越えての希望や、さまざまな人間性と 人に伝えたい心こそが、歌となるのですから、技術は補助でしかないと思う者です。 パワーが強弱の幅を生み、パワーが音痴を消し、リズムを生み、その想いなりのうねりが、グルーブ感やドライブ感となるところ、 その物まねの技術もうまさには通じるでしょう。 でも物まねともとの歌そのものの世界とではもちろん「心」が違い、かつ音声こそが違っていて、伝わるものが最終的に違ってくるはずです。 「心」の入った練習は 自然にも歌をうまくしてしまうでしょうが、あくまで歌はうまいへたよりも「心」を大事にしてこそ その文化的な価値がよりいっそう広がる世界だと思うのです。 質問1、なぜ「心」を語る歌手がいないのでしょう? 質問2、私の考えが間違っているのでしょうか? わたしは、無学な肉体労働者です。 でも歌は大好きで、この質問は本気のものです。 歌について深く考えてる方や、歌の大好きなかたのご意見をお待ちしています。

  • この蛇は何蛇ですか?

    この写真の蛇は何蛇ですか? 食べ物は何を好みますか? 庭にいて、約1mぐらいでした。 宜しくお願い致します。

  • このヘビは何ヘビでしょうか?

    薄い茶色のシマシマ模様で、長さは50センチくらい、細くて、写真撮ってたら攻撃してきました。 マンションで見かけたので、危なそうなヘビだったら管理人に連絡が必要かなと思いまして、この写真でヘビの種類がわかれば教えて下さい

  • この蛇はなんていう蛇でしょうか。

    十日町の峠で偶然出会いました、珍しいのでしばらく観賞 していました。

  • 蛇の道は蛇・・・じゃなくって

    やってはいけない事をしたくなるとき、 悪い道へ進んだらそれなりのリスクがあるという意味で 「蛇の道は蛇だぞ」 と思っていたのですが、調べてみると、 「蛇の道は蛇」ということわざは 「同じ分野のことは同じ分野の人がよく知っている」 という意味なんですね。 「もちは餅屋」と同じような。 今までずっと間違えてました・・・。 それでは、これから私はどういう言葉で 自分をたしなめればいいのでしょう? 悪い道へ進んだらそれなりのリスクがあるという意味の ことわざ、何か知りませんか?

  • 蛇について

    飼っている蛇が一週間前に目が濁り餌を食べなくなり 昨日目の濁りが無くなりましたが餌を食べない 何故でしょ 脱皮なのでしょうか 目の濁りが無くなりました

  • 蛇って・・・

    おいしいのでしょうか? お母さんが「昔食べたけど味忘れた・・・」といっていたのでたよりになる人がいません。 どなたかご存知の方は例えるとどんな味かを教えてください。

  • へびがついてるといわれました

    とあるサイトで 霊視してもらいました へびが ついているそうで ジョレイの方法も教えてもらいました が ほかのかたには 猫が守護神といわれました が 猫が守護神ならへび 噛み殺しできませんかね へびなんて どこで 取り付かれたのか わかりますか