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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:論文での「です・ます」調)

論文での「です・ます」調の使用の理由

このQ&Aのポイント
  • 論文は「である」調で書くべきという一般的な考え方があるが、その理由はあまり明確ではない。
  • 「である」調ではなく「です・ます」調を使用することにも意義があり、取り組む価値がある。
  • 「です・ます」調は専門分野を取り扱った書籍などで使用されており、読みやすさや取り組みやすさを提供する。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.10

ANo.6です。 敬体を用いる主な理由を「(論文は)とっつき易く、平明である(必要性がある)」としたうえで書き込みます。間違っていたらごめんなさい。 >「私たちの「意識の部屋」には番人が許可したものしか入れないのです。」 という内田樹さんの文の引用がありましたが、例えばそれが 「われわれの「意識の部屋」には番人がいます。入室許可権を掌握する絶対的存在です。」 だとしたらどうでしょう。なにやらややこしいですよね。番人の方に論旨が移行してしまいそうな文になってしまったのはお見逃し下さい(笑)。ANo.5さんのご意見ともやや重なりますが、内田さんの文章が読みやすいのは単に敬体であるだけでなく、用いる語彙や字面の印象にも工夫がなされているからです。 >どうやら論文というものは、門外漢に分からないよう、厳めしく書くことが必要なようだ 黒田龍之介さんの文の引用で、専門家たちがむやみやたらと難解な文章をこさえて、自家薬籠中のものとして情報を手放さない姿勢を指摘した一文ですが、果たしてその姿勢は非難されるべきことなのでしょうか。 私は、論文や研究書の類は門外漢に分からないよう書く必要性もあるのではないかと思います。インターネットの登場以降、情報の非対称化がぐんぐん進んでいますね。これは専門分野の知識をより多くの人が共有できるという点で非常にいい傾向でもあるのですが、問題点もあります。それは、ずばり曲解がおきるということです。とっつき易い情報に変換されることによって、うわべだけのペダントリーに利用され、誤った知識が蔓延してしまう可能性があるのです。 論文に話を戻しますと、難解な論文を読む/書くことができるというのは、専門分野に取り組む資格があるかどうかの指標にもなるのではないでしょうか。例えば、この質問のページを小学生の男の子が閲覧したとします。私たちの書いている内容が、彼には理解できません。つまり、彼にはこの問題に取り組む資格がないのです。仮に私たちが小学生にも分かりやすく、かつ興味を惹くように書いた場合、彼はなんとなく理解した気になって最終的にベストアンサーの意見を我が物顔で言いふらすことでしょう(ちょっと意地悪な書き方ですが笑)。 極端な例でしたが、実のところ、その逆のパターンともいえる事例があります。有名なのでご存知かもしれませんが、ソーカル事件というものです。詳細:下記URL↓ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6 これは、アラン・ソーカルという大学教授が難解な数式などの権威主義的使用を批判するために、科学用語と数式をちりばめたでたらめな疑似哲学論文を評論誌に送り、それが掲載されてしまったという珍事件です。 以上の事柄を総括すると、「とっつき易く、平明である」ことと「とっつきにくく、難解である」ことのどちらにも問題点があるようです。両者を折衷した「とっつきにくく、平明である」文章というのが理想形なのかもしれません。いずれにしてもどちらか一方ということでなく、中庸を探し当てることが最重要であるというのが、私の意見です。 ところで、質問者さんは敬体の入門書として内田樹さんの著書をあげていますね。彼の文章というのは敷居が低く、読み終わったあとに高次の考え方に至るよう書かれており、上質な啓蒙書・入門書だと思います。それと似た作風として、村上春樹さんと宮崎駿監督が挙げられます。このお二人は「敷居が低く、高い出口を用意する」ことを意識して作品に取り組んでいるようです。もちろんエンターテイメントであるので意味合いは変わってきますが、難解なものを単純化し、考えるという行為に興味を持たせるという点では共通しているように思われます。これはとても素晴らしいことだと思いますので、質問者さんの試みにも同じようなものを感じ、大変興味深いです。論文はぜひ「です・ます体」でやってほしくなりました。 どうも贅言に満ちたくどくどしい文章になる嫌いがありますが、曲解がおきないよう細心の注意をはらっているということで、ご容赦ください(笑)ちなみに、「~でいらっしゃる」という書き方は特別敬体といって敬体とは区別されているようです。

m-knight
質問者

お礼

>内田さんの文章が読みやすいのは ~ 用いる語彙や字面の印象にも工夫がなされているから なるほど、確かにそうですね。 逆に「入室許可権を掌握する絶対的存在」のように漢字を多く(=画面を黒く)すれば「難しく見える」という効果(?)が「である」体と結び付くと、「厳めしい文章」の出来上がり、と(笑) 他の方とのやり取りの中でも「です・ます体"だから"判りやすい・判りにくい、という訳ではない」ということを述べましたが、実際専門書の類ではなく力を抜いて読めるエッセイならば「である体」で書かれていても小難しく感じないのも同じような理由からかもしれません。 かといって確かにエッセイと論文は違うものですし、「中庸を探し当てることが最重要」というご意見には多いに賛同します。 >難解な論文を読む/書くことができるというのは、専門分野に取り組む資格があるかどうかの指標にもなるのでは 私も、あらゆる専門知識を万人が持つべき(持てるようにするべき)とまでは思いません。それじゃあ「専門」知識ではないですし。つまり、初心者に「難しい、簡単に書け」とイチャモンつけられる筋合いはない、とは思います。 自家薬籠中の物にしておきたい、というだけならまぁいい(?)んです。 しかし専門家自身が「専門書は厳めしくあるべし」と言うのは、「難しげな術語や文章そのもの」に酔っているだけなんじゃないか、という(穿ったと言われても仕方ない)見方をしてしまいます。 黒田さんが「査読委員に叱られた」という「論文」が実際どんなものだったのか判らないので何とも言えませんが、ネットと違って、想定される読者層が専攻の学部生まで含めるにしてもほとんど「同業者」だけに予めほぼ限定されている物の敷居を更に上げたがるってどうなのかなぁ、と思うのです。 なのでソーカル事件は、日本語の状況に置き換えるなら「四角張って黒々とした漢字熟語を多用して、更に『である』体で賢そうに見える文章の威力と、そうした文章の作法に浸りきった人々への痛烈な皮肉」というふうに思え、斯様な試みをしようとしている人間からすると小気味良い物に思えてしまいました。 ここへきて支持して下さる方が2名も現れ、嬉しいやら緊張するやら(笑) ありがとうございます。

その他の回答 (9)

  • Ishiwara
  • ベストアンサー率24% (462/1914)
回答No.9

ANo.5,8です。 > です・ます体「だから」判りにくいのか、文体以前の問題で判りにくいのか、という判断が必要だと思います。 「です・ます体」だから分かりにくい/分かりやすい、ということは、ないと思います。もちろん「文体以前の問題です。「です・ます体」と「である体」は、極端な言い方をすれば「異なる言語」のようなものです。 > 「文法的にもおかしいし意味も伝わりにくい文」というのが散見‥ 現代の「です・ます体」の最大の欠点は、「美しいです」という表現に結論が出ていないことです。昔は「美しゅうございます」で解決していましたが、今はこの表現はほとんど使われません。「美しいです」は肯定派/否定派に分かれています。否定派は、納得できる代替案を提示していません。 > 谷崎の「文章読本」 私の好きな本で、繰り返し読み、何度も引用しました。「言っていることと、自分でやっていることが乖離している」点でも、実に興味のある本です。 > 実行するならば、そうするつもりです。寧ろ、その理由について述べることは、・・・私の研究分野(関心)に係わっていることです。 実行を応援しますよ。

m-knight
質問者

お礼

確かに「異なる言語」かもしれませんね。それだけ多様な文体で書き表わし得るということが、長所であり扱い辛さであり… >現代の「です・ます体」の最大の欠点は、「美しいです」という表現に結論が出ていないこと それも気になってはいます。何となく幼稚な印象も(個人的には)抱いてしまいます。他に書きようがないので、必要な時にはそう書きますが。 しかし「全然+肯定形」の表現が、流石に論文では用いられないにせよある程度の市民権を得てきており、もっと言えば「とても+肯定形」を否定する人は現代にはもう(ほとんど)いない(元は「とても○○出来ない」のように否定でのみ用いられるものだったそうで)ように、言葉もある意味でイキモノなんだから変化も已む無し・「誤用」も普及すれば「標準」になると思うので、私は「肯定派」に一票です(って話が変わってますね >実行を応援しますよ。 おお、ありがとうございます!!

  • Ishiwara
  • ベストアンサー率24% (462/1914)
回答No.8

ANo.5です。私は国語の専門家ではありませんが、技術者としてマニュアルの研究をやってきたものです。 マニュアルを「です・ます体」で書いたほうが、ユーザーに親しまれるか、理解しやすいか、という問題が長い間論争の対象となっています。私の立場は「ノー」です。「です・ます体」で好感が持てない、分かりにくいマニュアルは、山ほどあります。 また、「である体」をもっと低学年から教えるべきだ、と主張している者です。昔は5~6歳から「学びて時にこれを習う」なんて暗誦していました。 商業文でも「本件は貴殿の責任において処理されたい」なんて、敬語つきの「である体」は、ごく当たり前でした。これは決して尊敬レベルと文体の混乱ではありません。 もともと「である体」と「です・ます体」は、書き言葉/話し言葉という点で分離していったものと思います。しかし日本人の習慣として、話し相手には丁寧に接すべし、というルールがあるため、尊敬調の多くは「です・ます体」で、非尊敬調(ふつう調)の多くは「である体」で、という分業ができたものと思います。 さて、いったんそのような分業が事実上支配的になった後に、論文を「です・ます体」で書くことはどうか、と問われれば、理論上は許容されるが、違和感は避けられないと思います。単なるきまぐれでなく、理由があって「です・ます体」を使うなら、冒頭で理由を述べて読者の理解を得ることが必要と思います。

m-knight
質問者

お礼

度々ありがとうございます。 >「です・ます体」で好感が持てない、分かりにくいマニュアルは、山ほどあります。 これについては、です・ます体「だから」判りにくいのか、文体以前の問題で判りにくいのか、という判断が必要だと思います。 しかし「です・ます体」なら常に好感が持てるというわけではない、というのは同意します。谷崎潤一郎の『文章読本』なんかは、「であります」という文体ですが美しく、個人的には好感を持てますけれどね。 まぁ総合的に見て、「丁寧さを(過度に)重視したがゆえに文法的にもおかしいし意味も伝わりにくい文」というのが散見されるのも事実でしょう。接客業の挨拶マニュアルとか。 >冒頭で理由を述べて読者の理解を得ることが必要 実行するならば、そうするつもりです。寧ろ、その理由について述べることは、本題ではないにしろ一節は費やすことができるほど、私の研究分野(関心)に係わっていることです。(ならさっさとやればいいじゃないか、とお思いかもしれませんが、実際に起こりうる反応を事前に見てから考えようと思い、ここでご相談させていただいているものです。)

回答No.7

No4の回答者ですが、 あなたは、尊敬語、謙譲語は使わないが、丁寧語は使われているという文章を想定しているようですね。 しかし、そんな書き方をする文章ってどこで使われてるんです? それはちょっとキテレツな文章では? 使いたい敬語だけを選んで使っていいと言うなら、謙譲語は使うが尊敬語と丁寧語は使わない、という文章も、あなたにとってはまともな文章ということになる? 尊敬・謙譲・丁寧はセットで使われるのが敬体というものだと思っていたので、 丁寧語だけは独立して良しという発想は無理がある気がします。 それは、敬体と常体を混ぜこぜにした文章ではないでしょうか。 例えば共通語と関西弁を混ぜた文のような違和感が生まれるのではと思います。

m-knight
質問者

補足

何度も同じフレーズを用いるのは自分でしつこい気がしますが、入門書なんかは「ですます体」が使われる事もしばしばですよね。 ですが、「○○はおっしゃっています」という書き方はされていますか? 少なくとも、著名な人物の理論などを引用する時に「デカルトはこうお考えになりました」などという書き方は見たことがありません。「デカルトはこう考えました」ですよね?これはおかしい文ですか? (この場での反論には若干相応しくない気はしますが、仮におかしいとしても、言葉は変化していくものでもあり、「言葉の乱れだ」と非難された言葉の用い方が数年後・数十年後には当たり前になっているという例は数多あります) おおかた「論文でですます体は使わない方が無難そうだ」という結論に至りかけてはいますが、実行するとすればそういった入門書のような文体をイメージしています。

回答No.6

ミもフタもなく聞こえるかもしれませんが、「皆そうしてるから」というのが最も納得のいく回答になると思います。「で・ある体(以下、常体)」と「です・ます体(以下、敬体)」の違いを縷々述べたところでそう建設的な意見は期待できません。どちらの文体でも駄文・名文あるいは駄論・卓論は存在しますし、印象が変わるだけで表現し得ない事柄もありません。 「皆そうしてるから」ということは「今までもそうしてきた」ということでもあります。つまり、査読者あるいは論文に目を通すことの多い人たちは、常体の文章に慣れきっています。誤解しないで頂きたいのですが、なにも敬体の文章に対する鑑識眼が弱いと言いたいワケではありません。質問者さんが仰ったように、「論文は『である』調で書くべし」という考えが頭にすっかり入ってしまっているのです。その考え方の是非はここではあまり問題ではなく、そこへ敬体=「今までと異なるもの」を持っていくという行為が一番の問題になってきます。 突然ですが、アニメにたとえて考えてみます。 今までは全て手描きだったのがある時点からCGを多用するようになり、それにつれ「情熱が伝わらなくなくなった」「技術ばかりでテーマ性が見えない」などの声があがるようになりました。しかし、果たして本当にそうでしょうか。手描きでもCGでも素晴らしいものはたくさんあるはずです。このことから何が分かるかというと、「今までと異なるもの」の登場によって、根幹ではなく枝葉に囚われる事態に陥る可能性が存分にあるということです。 これを論文における常体と敬体の問題にあてはめると「今までは全て常体だったのがある時点から敬体の論文が登場しだし、それにつれ「単文孤証の駄論が多くなった」という声があがるようになる」といったところでしょうか。少し強引なあてはめ方ですが、ささいな変化から謂れのない非難を浴びるというニュアンスを酌んでいただけたら助かります。 アニメはさておき論文の場合、根拠の正しさや論理的構成、それをふまえての新しい見解などが評価されますので、美文であることや文章の取っ付きやすさなどはさほど徳とされません。そればかりか根幹に関わりのないところでノイズ=敬体が持ち込まれると、それだけで眉をひそめられることになります。 つまるところ、敬体が「今までと異なるもの」であり、常体で書くというなんら問題のない風習を無用の混乱から避けるために常体を用いるべきなのです。査読者とて人間ですので「なんか敬体ってイヤダナー」と思ってしまうものです。「そう思ってしまう方が間違っている」と指摘したところで、おいそれと価値観は正せるものではありません。敬体を用いたいというマイノリティがぐっと我慢するよりほかないのです。さきほどからマジョリティに屈するような記述が多々あるのは、相手側に非があるからといって我を通すのは無益であるからです。どうしても非を正したい場合は、然るべき手段で訴えなければなりません。例えば、論文の文体についての論文を書くなど…。長々となってしまいましたが、以上の理由で、私は「皆がそうしてるから」が一番納得のいく回答だと思います。 それと、質問者さんが言うところによれば敬体を用いたいのは「徒な興味ではなく、内容にかなり深く係わっているからこその試み」とのことですが、やはり難しいのではないでしょうか。少なくとも敬体であることの決定的な利点が見つからない限り、字数が少ないという利点(?)のある常体の文をわざわざ敬体にする必要性は認められないと思うのです。またしても先ほどのアニメの話ですが、CGを多用したものでも高い評価の作品はありますよね。それは、CGという手法に囚われない評価がなされるようになったということもありますが、CGという手法自体が、手描きでは決してなしえなかった表現を生むことができたということもあります。敬体において、それと同じくらいの決定的な利点。それをみつけることができれば、敬体ライセンスを手にすることができるのではないでしょうか。ちなみに私は残念ながら思いつきませんでした。 アニメの話が出てきたりしてまとまりのない文章ですみません。参考になれば嬉しいです…

m-knight
質問者

お礼

>ささいな変化から謂れのない非難を浴びる 充分に想像できる事態ですね(私自身、実行したら発表の場で総ツッコミを食らうでしょう)。黒田龍之助さんの本の前書きで、 論文集の査読委員からは「文体が論文ではない」(中略)と叱られる。どうやら論文というものは、門外漢に分からないよう、厳めしく書くことが必要なようだ。(『ポケットいっぱいの外国語』p.1) という部分がありまして、非常に共感を覚えたものです。もちろん、論文でも面白おかしく書け、なんてことは思いませんけれどね。 アニメの喩えは説得力がありました。 自分も「決定的な」と言えるほどの利点は思い付きません…(自分にとっては)読み易く感じるから、という程度です…。 まぁそれでも冷静かつ論理的に突き詰める事ができれば、一定の説得力は持てるかな、とは思いますが。 ところで「論文の文体についての論文」に関しては、柳父章先生がかなり有力な論客だと私は信じています(私の疑問の出発点です)。「である」という書き方の出現等について由来を詳細に研究しておられる方です。 それを否定派の論拠にするか否かは捉え方次第ですが、「論文は『である』調で書くべし」という考えが頭にすっかり入ってしまっている方々に(別に考えを改めろとまでは言いませんから)一度読むことをお勧めしたいです…って差し出がましいですね。 うーん、敬体は、論文ではなく「本」を出す事になりでもした時に使うのが無難ってことですかね(苦笑

  • Ishiwara
  • ベストアンサー率24% (462/1914)
回答No.5

正確には「です・ます体」「である体」であって「調」ではありません。 「です・ます体」は、もともと敬語であって、敬語は相手との関係を前提に成り立ちます。論文は、相手との関係が「透明」なものですから敬語を使う意味も必要もありません。「である体」で書くべきです。 「です・ます体」のほうが読みやすいと感じるのは、その人が積み上げてきた経験から来る偏見です。ほんとに読みやすいのであれば、法律の文章などを全部「です・ます体」にする提案があってもいいと思います。

m-knight
質問者

お礼

>「です・ます体」「である体」であって「調」ではありません。 ご指摘ありがとうございます。今後気を付けます。 論文は相手との関係が「透明」なものだから、という理由も、少なくともこれまで検索で出てきた結果に比べれば納得がいきます。 ただ、「です・ます体」の方が読み易いと感じることを、「経験による偏見」と仰るのは、部分的にはそうだと思いますが、児童書や入門書(の一部)が「です・ます体」で書かれているという事実は、「である体の方が読みやすいだろう」という意図の表れでもあると(意識的か無意識にかは判りません)、私は感じています。もちろん「語りかけ」の意味合いが強いことも承知していますが。 確かに論文は入門書でも児童書でもありませんが、伝えるために書いた物は人に読んでもらってこそ、という点ではどの書物も文章も同じではありませんか?(法律の文章については、「である体」か否かに係わらず読み易くしようという意図は自分には感じられません…(苦笑)

回答No.4

論文の中には非常に難しく、読者が苦しみながら理解に励まなくてはならないものもたくさんあるでしょう。そこへ敬語を加えて、敬意を盛り込み、文章の複雑さを少しながら増し、字数を長くするというのは論文を書く者の態度としてどうも間違っている気はしませんか。 読者の理解の妨げにならないよう、敬語は省く。というのが「である調」の理由であると私は以前から考えています。 例えば「~~が指摘している。」と書くところ、敬体では「~~氏が指摘していらっしゃいます。」となりますからね。「~~といいたい。」だと「~~と申し上げたいのです。」とか。 難しさで頭を抱えている読者のイライラが増しこそすれ、薄れはしないでしょう。 でも内容がスカスカで単純なら敬体で書いてもかまわないと思います。

m-knight
質問者

お礼

字数が多くなる、というのは事実ですね。 しかし、敬体と言っても私は「です・ます」調と言いました。 「~です」「~ます」と「~でいらっしゃいます」「申し上げます」は違いますよね? 尊敬語や謙譲語などの事を言っているわけではありません(質問文と、No.3までのお礼文を見ていただければ判ると思います) 私だって、そんな意味で「丁寧」な論文を読みたいとは思いません。 私が意図しているのは、「~と○○は指摘しています」程度(?)のことです。

  • sanori
  • ベストアンサー率48% (5664/11798)
回答No.3

こんにちは。 通常、論文でですます体が登場するとすれば、最後のところで謝辞を書くところぐらいでしょうか。 ですます体は、文章に「意味」を付加します。 その意味とは、「語りかけ」、「丁寧さ」であり、ときには「執筆者の思い」をも表します。 仮に、製本された論文があり、それがですます体で書かれていたとしましょう。 その論文を手に取って読んだひとは、論文ではなく講演資料と勘違いするかもしれません。 ただし、ご質問のケースでは、発表用の資料とのことですから、ですます体は‘あり’かもしれません。 (しかし、あまりお勧めはしませんが) 上に「ときには執筆者の思いをも表す」と書いた理由は、こうです。 <例> A「源氏物語は優れた文学作品である」 B「源氏物語は優れた文学作品です」 Aには、「優れた文学作品」であることを、客観的事実ないしは一般的見解のニュアンスがあるのに対し、 Bは、「‘私は’優れた文学作品だと‘思う’」という、筆者の主観を表しているかもしれないと考えるのが普通だと思います。 この違いは、やはり、「語りかけ」と「丁寧さ」から来るものです。 >>>いわゆる論文ではなく、専門分野を扱っていても「○○入門」といった書籍では、「です・ます」調の物が少なからずありますよね。 そうですね。 >>>「である」調に変えるだけで一気に「難しげな論文」調になります。 そうですか? 子供にとって大人の敬語が難しげに聞こえるのと同じことだと思います。 私は小学校の卒業文集で、である体の文章を書きました。 いずれ、先生に見せたときに「である体に直しなさい」と言われたら、あまり抵抗せずに、言われたとおりにしましょう。 あんまり勝負するところではありません。

m-knight
質問者

お礼

ご意見ありがとうございます。 >Aには、「優れた文学作品」であることを、~この違いは、やはり、「語りかけ」と「丁寧さ」から来るものです。 仰りたい事は判らなくもないのですが、例に挙げていただいた文では、ある特定の事物を「優れている」と「評価」している時点で客観性が薄く感じられます。 仮に「敬体の入門書」で手近にある内田樹さんの『寝ながら学べる構造主義』から一文引用してみますと、 「私たちの「意識の部屋」には番人が許可したものしか入れないのです。」(p.35) これを「である」調に書き換えると、 「私たちの「意識の部屋」には番人が許可したものしか入れないのである。」 となります。 単なる事実を述べているという点で、文の意味するところは両者で何ら変わらないにもかかわらず、後者の方には肩肘張っているような印象を受ける人は少なくないはずです。 ですます調が「語りかけ」の意味合いを持つという点には同意します。 私が自分で書いたとおり、一般書籍でも「ですます」調がほとんど入門書や児童書にしか見られないのも、そうした感覚があるからでしょう。 しかしNo.1の方が仰る通り、英語(等)では(少なくとも日本語のように境界のはっきりした)敬体・常体という文体の区別はありませんよね(何でも「欧米に倣え」が正しい、と言いたい訳ではないですよ)。 なら、そもそも明治期に海外の文献を読む事で知識を摂取してきた国として、「である」体は翻訳の際の選択の一つにすぎなかったのではないかと考えるわけです。 もちろん、それでも100年は経つ「慣習」ですから一笑に付すつもりはありませんが、しかし「である」体を用いることに「慣習」である事以上の正当性や道理を今一つ感じられないので、一学生ながら一石を投じてみたいと思った次第です。

  • extrabuta
  • ベストアンサー率43% (29/67)
回答No.2

 私も、あなたの考えに賛同します。本来、論文とは、自分の考えをまとめ、第三者に掲示する文章です。私論ではありますが、『である』調は自分の考えを強くまた自信を持った考えであることを第三者に誇示するための表現だと思います。その意味では、正論なのかもしれませんが、学生が、演習で発表する論文に措いて、そこまでの表現は必要ないと思います。  わたしは、逆に『です・ます』調の表現のほうが論文としては素直なよいものだと思いまが、それでも自信が無ければ、指導教官や先輩たちに聞いてみるとよいでしょう。しかし『です・ます』調の表現だけで、落第点にはならないと思いますよ。

m-knight
質問者

お礼

援護射撃ありがとうございます。 他の学生さんは皆「である」調で書いていて、人によってはそれを読み上げる際に適宜「です・ます」に置き換えているといった状況です。 それに卒論や修論の準備段階という位置付けではあるので、少なくとも慣例上は「である」にする事が「行き過ぎ」とも言えないという事情は、あるにはあります。 発表さえすれば、単位が貰えないという事はまずあり得ない(優か可かはともかく)ので、そこらへんの心配はないんですけどね。

  • aokii
  • ベストアンサー率23% (5210/22062)
回答No.1

英語にすれば同じですので、ですますのほうが自然でいいと思います。であるはもう旧態文書です。

m-knight
質問者

お礼

旧態文書とは言い過ぎな気もしますが、「英語にすれば同じ」は我が意を得たり、です! そう、元々「である」は翻訳文体だと言いたいんです…。

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