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徳川将軍の墓

徳川将軍の墓 家康は日光、秀忠は増上寺・・その他・寛永寺 と3箇所に分かれている理由を知りたい 増上寺は浄土宗、寛永寺は天台宗であるが・・・

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  • Saturn5
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回答No.1

徳川家康は三河の頃から浄土宗だと思われ、家臣も大半が 浄土宗ですので菩提寺になったのではないでしょうか? また、徳川家康は当初は墓所が駿河の久能山でしたが、 後に関東の日光に改葬されています。 天台宗の寛永寺は徳川幕府のブレーンである天海が 天台宗だからでしょう。 wikipedeaより 近世を通じ、寛永寺は徳川将軍家はもとより諸大名の帰依を受け、大いに栄えた。 ただし、創建当初の寛永寺は徳川家の祈祷寺ではあったが、菩提寺という位置づけ ではなかった。徳川家の菩提寺は2代将軍秀忠の眠る、芝の増上寺(浄土宗寺院) だったのである。しかし、3代将軍家光は天海に大いに帰依し、自分の葬儀は寛永寺に 行わせ、遺骸は家康の廟がある日光へ移すようにと遺言した。その後、4代家綱、 5代綱吉の廟は上野に営まれ、寛永寺は増上寺とともに徳川家の菩提寺となった。 当然、増上寺側からは反発があったが、6代将軍家宣の廟が増上寺に造営されて以降、 歴代将軍の墓所は寛永寺と増上寺に交替で造営することが慣例となり、幕末まで続いた。

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