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「潜在意識について」……「潜在意識とは、精神分析などで活動はしているが

「潜在意識について」……「潜在意識とは、精神分析などで活動はしているが自覚されない意識(辞典より」とありましたが、この解説からは重要性を感じないのに、一般人になぜ重要視されているのでしょうか? 私の疑問! 自覚されない意識とは、重要度が低いから意識されないのでは? 重要度が高いなら、無意識にあり、とうてい言語化できるものではないのでは?

みんなの回答

回答No.15

 No.1&8&12&14です。    ★ (No.14補足欄) ~~~~~~~~~~    ☆  時間差をともなってでも、後でそうだと認めその答責性をわが身に引き受ける。   ……「私は自由意志で行動する」という真実を述べたいという指向を持ちながら、ある点において矛盾を容認するのですか?  ★ (No.14お礼欄) ~~~~~~~~~~~  補足。    「自由意志で行動する」は前に、「事後的に《わたし》は引き受ける」は後に。  ここで「行動完了後に死亡したら、《自由意志で行動する》は嘘だ」と言われてしまう点です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 自由意志の《自由》の意味を考えます。  1. 台本があってその筋書きどおりに考えたり振る舞ったりするようには ひとは出来ていない。  2. むしろ台本は ひとそれぞれが作るものである。  3. その自由には――ひとの能力とその生との限界を別とすれば―― 限りがない。根拠はない。無根拠で ひとはその意志行為において自由である。  4. つまり 公理として自由である。良心・信教の自由から一般にひとのあらゆる自己表現にわたって自由である。  5. この自由を享受するわれわれ人間は 一人ひとりその自己表現において 互いにその内容に関して 問う自由もあたえられている。(つまり 表現の自由である)。批判する自由 あるいは 説明を求める自由などであり つまりは ひとは 自由と同時に――その自由じたいの中に――答責性という側面をも持つ。それが 自由の意味である。  ☆ かくして 《答責性に裏打ちされた表現の自由》は 《わたし》のみづからの思惟やおこないが 表現されたものであるなら そのすべてに及ぶことになります。  時と所を問いません。  あやまちであったという場合であっても とうぜん わが意志行為であるとまづは認めるところから 歴史は始まっています。  知らなかったもの・意識していなかったものであっても わたしがその当事者であるなら その自由と責任との一端をにないます。そして わたしがわが身においておこなったことであれば 当事者であることにおいてだけではなく その表現行為の張本人であると認めざるを得ないはずです。  (ただし 緊急避難や自己防衛 あるいは 脅迫を受けての自白やその他の行動 といった例外も考えられていると思います)。  こういったところだと思いますが どうでしょう?  ★ (No.14補足欄) ~~~~~~~~~~~    ☆ それは無意識のなせるわざであるから、おれには責任がないなどと言い始める  ……(α) 「無意識だから責任がないと主張する人」は、無意識だから責任がないのではなく、責任をとりたくないからでしょう?    ☆ 《無意識》ということがらをあたかも独立した領域であるかのように持ち出してくる  ……(β) 私はそのような独立したという意見を持っていませんし、そのような科学者にもあったことがありません。むしろ、その逆の主張しか見たことがありません。一体、誰がそんな主張をするのですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (β)にかんしては 一般論です。そして 《昔》の話です。ただし ちょっぴり触れるだけですが いわゆる構造主義の考え方には 世界は無主体の過程だという前提があるようで 個人の責任というものにはきわめて薄い関心しかないという傾きがあるようです。  (α)は おっしゃるとおりかも知れませんし あるいはまた《責任を取りたくないから たとえば無意識説を持ち出して来る》ということがあるかも分かりません。  たとえばですが 回答No.2は 《クルマにキーを入れてから 意識していない状態でいる》と言っていますが これは 初めの意志行為において――しかも意識もあります――むろん自由ですが 責任もともなっています。ですから 《意志に無関係にはたらいている》とうそぶいていられるわけがありません。  そうですよね? そのクルマには乗らずに 勝手に動くがままにしておいた場合なら どうですか? そしてそのあとは 自分はまったく意識していなかったという場合です。しかも この場合には 時間差がありますね。つまり仮りにクルマが何かにぶつかって事故を起こしたということになったら その時点と初めにキ―を入れた時点とのあいだにです。  自由というのは ひとにとってこの上のない宝物ですが あまりにも素晴らしいのと同じほど 答責性をも同時に帯びています。人間はこの自由を その自由いっぱいに享受するようになるといいですね。

回答No.14

 No.1&8&12です。  ★ (No.12お礼欄) 「事後的に《わたし》は、自分の答責性において引き受ける」では、自由意志は後に在ります。この時間軸のズレを解消する考えが浮かばないので教えてください。  ☆ この一点についてのお尋ねだとしてまとめてよいと思います。もしくは それにお答えすれば ほかの関連事項も疑問がおおむね解消すると考えます。  けれども まったく単純なことだと考えるのですが どうでしょう? すなわち  ★ 時間軸のズレを解消する考え  ☆ は――同じことの繰り返しによる説明になるとしても―― あとでその・その時には意図していなかったわが行為を わたしの意志行為に含まれますと言って(または 内面において認知して)引き受けるというものです。  たしかに――少し世間を広く見渡すなら―― やってもいないことを おまえがやっただろう?と嫌疑をかけられて 白状せよと責め寄られるといったことも起こるかも知れません。ですから 次の条件も重要であるようです。  ☆☆ (回答No.8) 自分のおこなったことである限りはという意味です。  あるいはさらに重ねて述べます。  ★ (問い) 潜在意識から表に現われたそのときには まだ自覚し得なかった。つまり意識していなかった。つまり すでに行為を行ない終えたあとに その内容を意識した。――こういう場合に その行為は わが意志行為であるのかどうか?  ☆ 時間差をともなってでも あとで そうだと認めその答責性をわが身に引き受ける。というのが わたしの答えです。  ちなみにこのときの責任は 答責性(説明責任)を果たせば おおかたの人びとにあっては――けっきょくお互いさまという事由において―― ゆるし合えるものと思っております。  言いかえると ぎゃくにそれは無意識のなせるわざであるから おれには責任がないなどと言い始めるなら もうその問題は茶の木畠に入ってしまって収拾がつかなくなる。のではないでしょうか?  このような意味において 《潜在意識》という言い方もそれが表に現われたのなら それについて自覚したのがいつの時点であるにせよ自覚した時点で意識したのだから むしろ《意識》の問題として扱うのがふつうでなければおかしい。こう考えるということを言いたかったのでした。  まして 《無意識》ということがらをあたかも独立した領域であるかのように持ち出してくるのは よほど地球大の寛容さをみづからが持っているか それとも 同じく地球大の甘えん坊であるかだと思います。昔は 下半身――これが 《エス》であり無意識の欲動であると言いたげなようでした――から出た行為は ひとの人格にはかかわらないし わたしの責任を問われてもどうしようもないとうそぶいてい〔られ〕た場合も見かけました。  長くなりました。どうでしょう?

nisekant
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 申し訳ありませんが、補足。「自由意志で行動する」は前に、「事後的に《わたし》は引き受ける」は後に。 ここで「行動完了後に死亡したら、《自由意志で行動する》は嘘だ」と言われてしまう点です。

nisekant
質問者

補足

時間差をともなってでも、後でそうだと認めその答責性をわが身に引き受ける。 ……「私は自由意志で行動する」という真実を述べたいという指向を持ちながら、ある点において矛盾を容認するのですか? それは無意識のなせるわざであるから、おれには責任がないなどと言い始める ……「無意識だから責任がないと主張する人」は、無意識だから責任がないのではなく、責任をとりたくないからでしょう? 《無意識》ということがらをあたかも独立した領域であるかのように持ち出してくる ……私はそのような独立したという意見を持っていませんし、そのような科学者にもあったことがありません。むしろ、その逆の主張しか見たことがありません。一体、誰がそんな主張をするのですか?

回答No.13

 #10  お礼欄【「中途半端な表現」と言い切りながら、文章に表現力が見当たらのですが】ということですが、 私の回答欄の文章は【ご質問をどうもわざと中途半端な表現にされていて投稿がしにくいですね】というものです。  何かnisekantさんはもっと深くお考えなのだろうに    あまりそれをことば表現されていないような感じを受けました。      それを中途半端なご表現なのではないですか?わざとそうされておられるのかな、と思いました。       それで、どこからどう私の勉強の結果を説明申し上げたらいいのか、まよいます。ということなんですが。

回答No.12

 No.1&8です。  ★ (No.8お礼欄) 自由意志の説明だとすると、「そうするつもりのなかったこと」「意図していなかったことでも」という言及が、あえて語を自由意志にする理由が分からないのですが。  ☆ まづ 《自由意志の説明だとすると》という書き出しには 抵抗を感じます。  ★★ (No.1お礼欄) ・・・これは「人間は自由意志で行動している」という前提においてのみの有効な見解のようにみえますが。  ☆ というお尋ねでしたから その《前提》の内容を説明したのが 回答No.8です。  《自由意志の説明》とは微妙に違うと思います。つまり自由意志とは これこれこうだという説明をしているわけではなかったという意味です。まづこのことの確認をします。  ということは   ★★ (No.1お礼欄) 「人間は自由意志で行動している」という前提  ☆ とは何かと言えば 次のようだと答えたものです。  ☆☆ (回答No.8) 意図していなかったことでも 事後的に《わたし》は 自分の答責性において引き受けるという意味です。  その上で こういうお尋ねでしょうか?  ★ (わたし bragelonne の解釈として) 《意図していなかったこと》なのに 《わが意志の自由な選択によって おこなった》と言うのか?  ☆ これについては つぎの条件をつけています。  ☆☆ (回答No.8) 自分のおこなったことである限りはという意味です。  人ごみの中でそこに動きが出て波のごとく押し寄せてきたとき 自分の体がよろめいて隣の人にぶつかった。この意図せざるおこないも わが自由意志の為した行為であると見なして引き受けますし そう成ります。  こういう場合は 迷惑をこうむったその隣の人も 事情が分かっています。または 初めに分からなかったとしても 事情を説明すれば 互いに分かりあえることだと言ってよいはずです。  もし質問趣旨に書かれたことに絡ませて考えるなら 人ごみの中ではなく ただ二人のひとが隣り合わせていただけという情況を取り上げてみます。そのとき ふらっと一人がもう一人に体を寄せてしまったという場合です。――《そんなことをするつもりはありませんでした。意図してなどいません》と言うでしょうか? という問題ではないでしょうか?  自由意志とは何かの問いを措いておいて述べるのですが このときその《ふらっとして体が隣の人に寄り添ってしまった》行為は 意図するしないにかかわらず 大きくは・そしてそれがふつうなのですが わたしの自由意志によって為した行為に入るという意味です。  《魔がさした》とか――この程度なら 言う場合もあるでしょうが―― それ以上に《悪魔がそうしろと命令した》などと言うようでは 話にならない(話が始まらない)という意味で 《無意識》やその意味あいを残して《潜在意識》という言葉を用いて自己の行為を説明するのは もしただのボケでなければ 気がだいぶん違って来ているであろうと推し量られます。  しかもこのことは――ブディズムの悪影響だと考えますが―― 哲学の命題であるかのように真剣に探究されてさえいるようなのです。たとえば《空》をそのような意味あいで持ちだして来ています。ゆえにわたしは そのような現代日本人は 魂が去勢されているのではなかろうかとうたがっています。  ひとこと多すぎましたが どうでしょう?

nisekant
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 《自由意志の説明だとすると》という書き出しには抵抗を感じます。 ……返答文に「何々は」が未記載なのは此方ではありません。 《意図していなかったこと》なのに《わが意志の自由な選択によって おこなった》と言うのか? ……ではなく、貴方の考えを説明することにおいて、《意図していなかったこと》を説明内容に含めると矛盾が生じます。 例えば、「自由意志には、意図しないことも含む」は、「意図することには、意図しないことも含む」になります。 「人間は自由意志で行動している」という前提とは、意図していなかったことでも、事後的に《わたし》は 自分の答責性において引き受けるという意味です。 ……「自由意志で行動している」では、自由意志は前に在ります。「事後的に《わたし》は、自分の答責性において引き受ける」では、自由意志は後に在ります。この時間軸のズレを解消する考えが浮かばないので教えてください。

回答No.11

潜在意識と言う事と、無意識と言う事の区別が付きませんので、無意識と言うことの考察をしてみます。アメリカで昔、意識している時間と、無意識状態の時間の統計を取ったデータを見た事があります。人間の生活の中で『意識』している時間は20パーセントを切っているというものでした。 それでは残りの80パーセント以上は『無意識』状態で生活が成り立っていると言う事になります。 もう一つデータが在ります。 ”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球がそれぞれ独立した意識を持っていることを実証した。” この『二つの意識』が関係していると思います。左脳に存在する意識は自我意識です。分別する脳と言う事です。物事を明快に分けて論理を尽くすと言う仕事をしています。この論理の象徴が『言葉』と言うことになっています。ですが『言葉』は現実には全てを言い表す事が出来ません。 言葉で思考している間は、人間は『苦しむ事』になります。『言葉で』生きている事が人間の障害をもたらせているとも言えます。何故ならば『人間はパンのみで生きているわけではないからです』この意味は、目に見える事、訳が分る事のみの生活では成り立ってはいないという意味になります。 今の文明の最先端の中の『精神医療』と言うことの中でこの事を書いてみます。精神と言うこと自体が分かってはいません。人間と精神としての全体像が未だ分ってはいないのです。それはこの言葉で象徴されています。『それはクルト.シュナイガーの言葉{内因性精神疾患の本態が今日までわかっていないのは精神医学の恥辱である。』と言う言葉にも表れています。 心と精神、そして精神と体、或いは心と体と言う関係でもいまだにその全体像が解明できていません。ですが、私の体験では心を病む、或いは精神疾患に罹る、或いは神経症になる、或いは自律神経失調症になると言う事の根本原因とは『心の矛盾』に端を発していると言う事です。 心が苦しくなるという事は『自我意識が、漠然とした不安に襲われる。或いは、違和感に襲われる。或いは分らないものから圧迫を受ける』と言う感じになります。分からない者から圧迫を受けるという現象です。ですがこの不安とは自分自身心が自分自身の心を圧迫していると言う現象の事です。 分り難いので具体例で説明してみます。オリンピックなどでのメダルに限り無く近い演技では『自我意識』は出ていません。自我意識が出ないような演技で始めから終わりまでが、飾られています。 その反対例です。大勢の人の前で話をしたり、何かをしようとした場合ですが、『自我意識』が出て自我意識が体を使うようになって、何もかもがうまくゆかない場合も在る。と言う事です。この事を問題にした場合が『上がり症や吃音や対人恐怖や、失敗を恐れるあまりの強迫観念』等の神経症と言う事になります。 人間が一番うまくいっている状態とは『自我意識が無い』状態とも言えます。その状態とは『無意識の自分に任せている』状態と言う言い方が適当という事になります。その場合は『我を忘れている』と言う状態です。心も体も余り疲れ難い状態です。心をとった場合には殆ど疲れていません、何故なら使っていないからです。我を忘れた状態に持ってゆくなら、心は疲れません。それは無意識の自分に任せた状態という事になります。 心を病む状態とは、自我意識が『心を』支配している状態という事になります。或いは『無意識』には入れなくなった状態と言えます。 意識と無意識は常に行動を共にしています。同じ物を見て同じ事をして、何時も一緒にいます。人に会った場合には『立派な身なりをしていて、確かな人に見えようとも』何処か胡散臭いと感じたりします。もう一つの意識は言葉を持っていません。気配や『空気や言葉によらない』情報で自我意識に伝えています。 『心を病む』と言う事の正体は、心の矛盾や対立や分裂です。それは二つの意識が矛盾してしまうと言う事になります。如何云う事かというと『無意識に入り難くなくなってしまう現象』と言えます。いいかたをかえたなら『無意識の意識』を無視している現象とも言えます。 無視をされたもう一つの意識が『送っているシグナル』が症状と言う意味になります。不安感や、罪悪感や、症状とは、もう一つの意識からの『自分に任せてもらいたい』と言う言葉によらない信号と言う意味になります。 心の健康とは意識と無意識との情報交換がうまく行く時となります。

nisekant
質問者

お礼

回答ありがとうございます

回答No.10

 nisekantさん、ご質問は意識することと重要性ですね。  nisekantさん、意識って意識できますか?  意識している意識を最後まで訊ねてみたらいかがですか?  意識しているってなんですか。意識の結果でしょう?  その経験知覚の内容でしょう。  重要性って何ですか?存在の根底に関るからですか?  nisekantさんが本当はすごい知見を持っているのに、ご質問をどうもわざと中途半端な表現にされていて投稿がしにくいですね。  私も意識とSub- についていくつか質問を出した経験があります。ご検索くださるとありがたいです。  そしてまたご質問なりがあって、私も投稿参加できると嬉しいです。

nisekant
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 「中途半端な表現」と言い切りながら、文章に表現力が見当たらのですが。

回答No.9

ある意識の重要性の高低と、意識が自覚されるか否かは独立の議論です。 重要な事項であっても、その課題が持続的でない場合には自覚的でなくなり無意識的になるのではないでしょうか。

回答No.8

 No.1です。  ★ ・・・これは「人間は自由意志で行動している」という前提においてのみの有効な見解のようにみえますが。  ☆ そうするつもりのなかったことでも 意識しないままみづからの行動に現われたという場合 その潜在意識と呼ぶものの内容を あとづけで《わたし》が自分のおこないとして認めるという意味です。意図していなかったことでも 事後的に《わたし》は 自分の答責性において引き受けるという意味です。  その意味で 《人間は自由意志で行動している》と見なします。そういうものだと考えます。自分のおこなったことである限りはという意味です。  あるいは 何か別のことがらを問うておられましたか?   つまりたとえば そもそも自由意志はあるのか? といった問いだったでしょうか?

nisekant
質問者

お礼

自由意志の説明だとすると、「そうするつもりのなかったこと」「意図していなかったことでも」という言及が、あえて語を自由意志にする理由が分からないのですが。

  • sheep67
  • ベストアンサー率28% (36/128)
回答No.7

下の方への返事と質問文を読んだんですが、 感想としては、中心が2つあるから、と思います。 それは、多分そうじゃないでしょうか? 大事なことが一つだけ、とはおかしいです。 正確にいうと、人は誰でも分裂している、ということじゃないでしょうか?

回答No.6

#4の者です。 >無意識に主軸を与えながら、何故、意識に主軸をあたえるのですか? 「主軸」の意味が未定義ですが、主観的に捉えるという意味であれば、 現象的な多様性を先入化すれば、各自の感情を惰性的に許容できて楽ですが、 その結果、悪しき民主主義的に多数決でしか物事を決められなくなるのと 同じ轍を踏みます(「色んな考えがあっていいんじゃない」ていう思考停止)。 そうではなく、もう1つの民主主義の在り方である、議論において少数派の 正しい意見を汲み取る、という場合の「正しい」というのは、物事を本質的 に捉え、長期的ビジョンにおいて誤差のない指針を得るというのを、意識の 問題に還元するならば、本能的・経験的なものを潜在意識として先入化させて、 日常的感覚において派生している表層意識(短絡的な快適性や短期的な利益) にのみ基づいて、長期的な変化や本質的作用のある操作を、行った結果が、 現代社会の自己チュー化や少子化といった長期的な精神的社会性の破綻なのです。

nisekant
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 「主軸の意味が未定義ですが、主観的に捉えるという意味であれば、」と質問に答えくれそうな素振りを見せながら、質問に答えていないのは何故ですか? 「未定義」の前に、「汲み取り」を気にされた方が良いと思いますが。

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