• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:「自分を許せ」とは?)

「自分を許せ」とは?

このQ&Aのポイント
  • 過去のつらかった出来事を受け入れるのに本を読むと「自分を許せ」とあります。
  • 自分をいじめなくていい、他者に過去に自分を低く評価され、それは違うんだよ。とか、あるいは、自分が好きでなければ他人も好きになれないとあったりします。
  • 過去にとらわれて、たとえば、見知らぬ人間同士の中に入っていき、話しかけることがとても苦痛だったりします。本当は誰よりも他人と触れ合って、楽しく過ごしたいと思うのに、それがうまくできません。本当の自分を出したら人は嫌うのではないかと思うと、怖いのです。なんでも完璧でないと、ダメなんじゃないかという気持ちにとらわれてしまっています。こういった気持ちを変えていくにはどうしたらいいでしょうか。そうでないと、さびしい気持ちを抱えたまま続きそうで、こわいのです。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • cowstep
  • ベストアンサー率36% (756/2081)
回答No.6

No2&5回答者です。 あなたが30代半ばということは、平均余命80歳とすれば、まだ折り返し点の前にいます。私はその頃から、人生観が大きく変わりました。それまでは勉強と仕事一筋だったのですが、同僚に誘われてプールに通い始めたのが切っ掛けで、水泳が病みつきになりました。身障者で左足が不自由ですが、最初は25メートル泳ぐのが精一杯でしたが、連日プールに通っている内に段々と距離が伸びて、1500メートルをクロールだけでなく、平泳ぎと背泳ぎの3種目で泳げるようになりました。プールでは、他人が顔馴染みになって、声をかけられるようになり、上手に泳ぐ手のかきを教えて呉れる人も居ました。聴覚障害者と知り合ったのが切っ掛けで手話サークルに入り、結婚するまで続けました。コミュニケ-ションの難しさという点では、視覚障害者より大変でした。それでも、一緒に旅行に行ったこともありました。 このように色々な人との出会いを通じて、人それぞれの人生があることを知り、世界が広がりました。勉強や仕事も、だらだらと長時間続けずに、短時間で集中的に行うようになり、国家資格も3つ取りました。大学受験も、ガリ勉などせずに、睡眠と栄養を十分にとって健康的な生活をすれば、第一志望校に受かったのではないかと、反省しています。 さて、話は人間関係に戻りますが、人との出会いを通じて、人間は成長するということです。私は60歳を過ぎても、30代の時と同じ位の体力を維持し、今でも1500メートルを泳ぐことができます(時間の関係で、プール通いは週1回ですが)。もし同僚がプールに誘って呉れなかったら、勉強と仕事に明け暮れて、書類や書籍の山にうずもれて、狭い世界に閉じこもっていたことでしょう。 私はできるだけ長く現役を続行して、これからも人との出会いや付き合いを楽しみにしたいと思っております。あなたはまだ十分にお若いのですから、気持を切り換えて、新たな人生を踏み出して下さい。

male210287
質問者

お礼

 左足が不自由にもかかわらず、そこまでできるなんて、すごいです。週に一度でもなんだか楽しそうですね。いま私は土日は国家試験の勉強で予備校に通っているので、あまり時間がとれません。自分でやってみたいと思ったものがあれば、とりあえずやってみる、という姿勢が大事なんですね。  職場の人間関係や、あるいは自分の思いが通じなかったことは、あまたあるなかのうちの一つの出来事にすぎない、そればかりが人生ではない。逆に、1つの事に固執していて、みすごしてしまうことがないよう生きていけということなのでしょうか。  過去のつらかった出来事に引きずられて、未来を何度もつぶしてしまった気がします。そういう自分が 許せなかったのです。でも、自分を守るためにはその時取った態度でしかやり過ごせなかった。周りの 人間は関心を持たず、助けてくれず、あるいは逆に責められたりして、とても悲しかった記憶が残っています。それでもなお、こうして今日まで生きてきている。それは、結局はそのとき振りかかった悲しくつらいできごとをどうにかやり過ごせたから生きてこれたのであって、ダメな人間だというわけではないと いうことですね。ただ、そういう周りの人間に守られなかっただけのことであって、それが心を閉ざす遠因となって、心に悪影響を及ぼしたのですね。昔は確かに、自分の力で守れなかった、その時の自分にごめんねっていま言いたいです。でも、我慢して切り抜けるより、あの時は術がなかったのです。そういう自分が許せなかったのです。今となっては、良く頑張った!もうこれ以上責めちゃだめだと。いじめられた自分が許せなかった。しかし、こうしていま普通に仕事をして、ふつうに生活できているんだから、 それでいいんですよね。今の自分は決してダメな人間じゃない。どういう方法であれ、悲しいことや嫌なことを乗り越えてきたから、今があるんですよね。過去の嫌な経験は、きっと決して無駄ではないんですよね。  たびたびのアドバイス、うれしかったです。ありがとうございます。

その他の回答 (5)

  • cowstep
  • ベストアンサー率36% (756/2081)
回答No.5

No2回答者です。 お礼の言葉を拝読して、あなたの理解力と想像力が優れていることに敬服しながら、そこに完璧主義に陥る危険性が潜んでいるように思われます。完璧を期す心構えは、何事をするにも必須で、満点でなくても、最善を尽くし、最善が望めない時は、次善の策を講じることが、成功の秘訣です。その点で、あなたは大化けする可能性を秘めています。 あなたが私の舌足らずな回答をお読みになり、見事に行間を読み取って気付かれたように、「この人は自分のことを嫌っている」という根拠のない思い込みが、結局壁を作る原因になるので、挨拶からでも良いから、人付き合いを自主的に始めましょう。そうすれば、相互補完的な良好な人間関係を築く道が開かれるでしょう。私も還暦を過ぎましたが、現役続行中であり、あなたのような有望な人との出会いが楽しみです。

male210287
質問者

お礼

もし、最善の結果がでなかったとしても、それ自体が自分の存在を脅かすわけではないのですね。 その結果に対する受け取り方だということですね。「自分を嫌っている、嫌われているから誰からも 声を掛けられない。」という気持ちをずっと引きずっています。でも、それじゃダメなんですよね。  自分から心を開くことがとても怖いのです。本当の思いを話したりしたら、この人は去っていく のではないか。でも、他人同士であればそういうことはありうるわけですよね。去る人もあれば、 残る人もある。それを「去っていってしまう自分は自分でない、みな受け入れられるべきだ。」 という、(これも完璧主義の一種なのでしょうが)誤った思い込みを崩さないと、本当に心を 開くことはできないんですね。去る人を恨んだり、怒ったり、去る人が寄って行く人に嫉妬を 抱いたりするのではなく、「たまたま自分とは波長が合わなかっただけだ」と理解すること なのでしょうか?そして、残った人を大事にしていけばいいんですね。  まだその大事な人は自分の前には一度も現れたことがありません。現れたのかもしれませんが、 自分が気付かなかったこともあったと思います。こんな書き込みをしているから若い方かと お思いでしょうが、私はもう30代も半ばの人間です。  人と自分を同じようにに見るのは、不幸の元ですね。一人の自分も自分、決してダメ人間ではない。 ありがとうございました。

noname#137229
noname#137229
回答No.4

多くの人は自分を許す所か、自分自身を認めるのさえ難しいですね。 もっとも、心の奥底では自分が大事、自分が一番なのですけどね。 まあ、矛盾がある訳です、そこの葛藤があるのですね。 そもそも、許すとはどの様な事と思いますか? それが分からないと、許すことなどできませんよ。 物事には、何でも順序があります。 その順序を飛び越えては望んでいることが適うことはないのです。 >>過去のつらかった出来事を受け入れるのに 良いですか・・受け入れる前に、受け止める・・と言う作業が必要なのです。 受け止めなければ、受け入れる事など出来ません。 これが順序と言うものなのです。 もちろん、許すことなど出来ません。 過去の辛かった出来事が何であるのか分かりませんが・・どの様な事なのかを書いてもらえるとアドバイスもしやすいのですけどね。 受け止める・・先ずは事実を冷静に見る事ですね。 これが以外と難しい・・ 過去の辛い事・・感情と結びついていますからね・・ 受け止める作業は出来ていますか?

male210287
質問者

お礼

過去の記憶は確かに感情と結び付くので、思い出すとつらいです。 たとえば、いじめられたこと、親に助けを求めても得られなかったこと、逆に責められたこと。 そういうことが重なって「人はどうせ自分の言うことなんか聞いてくれない、分かってくれない。」 「本当の気持ちを話したら離れて行ってしまうのでは」という不安に結びついていると思います。 そういう不安から身を守るために、無口で、無愛想で、傷つきたくなくて自分の内にこもってきた 事が多かったです。だから、本当は人と親しくなりたくて、もっとその人の事を知りたいのに、 適切な距離の縮め方が分からなくて、相手に嫌な思いをさせたりしたこともあります。 「すべての人に受け入れられない自分は自分ではない。」という思い込みですね。しかし、これが間違いで、そんな人間はいません。拒絶されることもある。しかし受け入れられることもある。それが完璧な人間はいないということです。  しかし、いじめられたり、親に拒絶された自分も自分なのです。かわいそうだった自分なのです。 それを受け入れて認めても、ダメになるわけではないのです。むしろそういう方法でしかあの時の最善な行動はとれなかったのです。いじめられた自分はダメな人間なんだ、と思うことこそ自分を受け入れていない、そうなると自分の行動様式は親やいじめた人間そっくりとなっているのです。意識していないのですが。他人の粗ばかり探し、批判的な目で見る、不満ばかり言う・・自分が最も嫌う人たちのくせや行動がそっくりそのまま自分に取り込まれているのです。それが他人に対する敵意ということになるのでしょ う。いじめられた自分がダメな人間じゃないのです。いじめられた自分をダメだと思う気持ちが自分を ダメにしてきたのです。「どうせ俺は」とか、「やってもダメだ」という悲観的な見方でものごとを とらえてしまいがちでした。結局それは、自分で自分自身をいじめて傷つけて、さらに悪化させている んですよね。  いじめられた自分を認められなかった。本当の自分はそんな奴じゃないという否定が、結局それは どこかで心の屈託や鬱屈として、不自然な態度で現れてきます。でも、傷つけられた自分も自分なのです。それを認めて受け入れる強さが生まれて、外に対し心を開こうと思える気がしました。  悪いところばかりに焦点を当てるのではなく、いったんはそれを事実として認める。それも自分の 一面なんだと。それにもかかわらず、こういういいところがあると長所に目を向ける。じゃ、その長所が 一番発揮されるところはいつで、何処か。それは外に関心を向けていけば、自然と見つかる気がしました。そして、そういう場所で気の合う友達や、あるいは彼女とかが見つかるのかなと思いました。  人付き合いの範囲は、何も仕事場や学校だけがすべてではありません。そして、ほとんどの人は、 人の欠点をあげつらうわけではありません。みんな何らかの欠点を抱えて生きていると気付きました。  人の悪口、欠点をあげつらうことは、結局それは自分自身のそれであり、自分自身を傷つけていることになります。それに気付かなかった自分も馬鹿でした。心のどこかに上記で書いたような不満があったん でしょうね。「認めてくれ」「受け入れてくれ」と。ただ、それには相手を認めないと、当然無理ですね。仮に受け入れられなくても、認められなくても、自分なんです。認められない自分は自分じゃない、ダメなやつだ、すべての人に自分は認められ受け入れられる存在でないと価値がないいう誤った思い込みが、何事にも消極的な、しなびた葉物のような自分を作り出してきたのでしょうね。  相当な長文になりましたが、ご容赦を。

male210287
質問者

補足

補足します。 はっきり言って、思い出すのはつらいです。 無意識のうちにはきっとあるのでしょう。それが意識の上に引き出されたときに、 あきらめのような、自分はダメだとか、あるいは嫌われているとか、他者の良さが見えず、 欠点ばかりが見えて批判するなどといった形ででてきます。あるいは、他人は他人と思えなかったり。 受け止める作業というのが、分かりません。どのようにして過去のつらい出来事と向き合い、 そして、それを受け止め、許すようにできるのか、それをお伺いしたいです。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.3

呼吸法をいろいろ試してみてはどうかと思います。部屋で1人のときに、一日15分などと決めてやります。効果を実感出来るまでには、時間がかかるかもしれないですが。

male210287
質問者

お礼

呼吸法というのは、試したことがほとんどないのでよく分かりませんが・・・。 良く本屋さんで呼吸法の本とか売っていますね。そういうのとか、あるいは朝早起きして 深呼吸してもいいのですかね。アドバイスありがとうございます。

  • cowstep
  • ベストアンサー率36% (756/2081)
回答No.2

人間は誰も長所と短所を持ち合せているのですが、あなたは自分の短所が人から嫌われる原因となることを恐れて、完璧でないから人前に出られないという気持にとらわれて、身動きが取れない状態に陥っているようです。短所をできるだけ改めようとすれば良いのであって、完全に短所をなくそうとするところに無理があります。長所と短所は裏腹な関係があり、短所をなくすと長所もなくなるものです。長所も短所も、その人の個性であって、ひとそれぞれに異なるから、お互いに個性の違いを認め合って、それぞれの長所を活かし、短所を補う相互補完的な人間関係が築かれると、より良い社会が実現するのです。自分一人の殻の中に閉じ籠もっていないで、自分の個性を社会で発揮するようにしましょう。

male210287
質問者

お礼

話し掛けていかなければ、自分に合うか合わないかもわかりませんよね。 あいさつからでもいいんですよね。あいさつからだんだん深い話に行けることもある。 「この人は自分のことを嫌っている」という根拠のない思い込みが、結局壁を作る原因に なるのでしょうね。自分のやったことが、自分ではとても恥ずかしいと思っていても、相手は もしかしたら、さほど思っていない、もしまずいなと思ったら、次に会ったときに謝れば いいんですよね。  ある人からノーと言われても、それは自分の存在が否定されたわけではないし、生きていけない わけでもない。これがわかっただけでも良かったです。ありがとうございました。

  • yu-taro
  • ベストアンサー率39% (3209/8203)
回答No.1

 こんにちは。  何を持って完璧なのかは分かりませんが、完璧という人は子の世には存在しません。人間である以上は、何かしら劣っている所があるものです。東大卒で国家公務員や政治家、一流企業に入社しているからといっても、それは勉強ができたからであって、すべてが完璧ではありません。どこかしら足らないところがあるものです。  友人を作りたいのは他の人も同じで、なかなか他人の中に入っていくのは苦痛なものです。でもそれは何度か試してみると意外と簡単なものです。  他人と話しをするということでは、旅行へ出掛けたときに、おみやげ屋の店員と見所や美味しいもの食べさせてくれる店を教えてなどがきっかけで話して行けばできるようになります。芸能人が旅行や街歩きの番組で見知らぬ人に声を掛けて話をしていますよね。それと同じようにすれば良いことで、これが慣れてくると旅行へ行く楽しみともなります。  それと、ちょっとした失敗を楽しむ心の余裕が欲しいです。私などは旅行でも、あまり計画を立てずに行き当たりばったりで、一人旅ですが、宿もほとんどその日に取ります。空いてそうなところは飛び込みですが、泊まれなかったところはほとんどありません。計画もあまり立てないので、道を間違えたり、迷ったりするのもまた楽しいもので。意外な発見もします。  旅行のガイドブックなどは持って行きますが、あまり見ないで動いていますが、気ままに一人旅もまた楽しいものです。  私は完璧などは追求しません。仕事に関係した国家資格をいくつか取得していますが、100点満点などは求めず、試験に合格すれば良いと思い、勉強して合格点内を目指しました。100点満点取らなくても、合格点内であれば、国家資格は取得できるのです。必要以上に無理すれば時間も掛かり疲れるだけです。  何事も足りないところがあるから楽しいのだと思っています。完璧を求め自分を縛ってしまうと窮屈で苦しいばかりです。  あるがままに生きる。それでいいではありませんか。

male210287
質問者

お礼

 人に話しかけて、拒否されることが怖いのです。相手が気のない態度だったりすると、 なんか自分が話しかけたのが悪かったのかなあみたいな感じに取れたりします。  でも、それは独りよがりなんですよね。私もときどき目的地と行きの電車だけ決めて 行き当たりばったりな旅をしますが、ああいう日常から離れた場所だと、話しかけられても 楽しいし、そんなに苦痛には感じません。  「人によく思われたい、好感を得たい」という気持ちがあるから、かえってぎくしゃくして、 近くにいる人たちと親しくなれないんでしょうね。たとえ拒絶されても、自分が死ぬわけでもないし、 存在が消えるわけでもないと思い、すっとしました。  いままで自分の周りの人の嫌なところばかり見えていた自分ですが、少し目を変えて、ダメなところ があってもいいんだと、自分を許していこうと思います。それが引いては人を許すことになり、短所 ばかりから、長所に目を向けられるようになるのかもしれません。いきなり激変は無理なので、少しずつ 試してみようと思います。悶々としていましたが、得心が行きました。ありがとうございます。

関連するQ&A

専門家に質問してみよう