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余白

いつもお世話になっております。 余白というものにはどのような意味があるのでしょう。 (例えば「白」「空」「虚」「無」「怖」「畏敬」「間」等々) また、余白というものは、無駄でしょうか、 それとも有用でしょうか。 皆様のお考えをお聞かせ下さい。 よろしくお願い致します。

質問者が選んだベストアンサー

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  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.14

追伸: [余白の醸し出す余情や余韻に私たち日本人が美を見出すというのであれば、西洋ではむしろ、空間を埋めずにはいられない恐れに駆られるようでもあり、だとしたら、それは何ゆえなのでしょう。] 参考までに 私の知り合いに書道家がいまして、あるとき一枚記念にとお願いしたのです。何ヶ月か後に一枚の書が送られてきました。 その書には「舞:まい」と書かれていたのですが読みは「無:む」という注釈が付いておりました。つまり「無」という字を「舞」と表現したとのことなのですが、これが疑問の回答に通じるかなと思います。 何もない、何もしない余白も無ですが、踊り続けることもまた同じ無の意味を含んでいるのですね。その違いは形か心の違いですね。 東洋人の美学と西洋人の美学には静と動の違いはあるように思いますが同じように余白の美的観点はあるのでしょうね。

mashumaro2
質問者

お礼

mmky様、順不同につき、お礼が遅くなりましたことをお詫び致します。 実は、他の方のご質問「さかしら」につき、私自身の問題として、かなり考えさせられることがありまして。 決してその質問者の方のことではなく、私自身がつい、わかったつもりになって、さっさと先に進んでしまうところが大いにあったりして。 ああでも、何をもって「わかる」と言えるのか。 う~ん、また、脱線してしまいました、とほほ。 >何もない、何もしない余白も無ですが、踊り続けることもまた同じ無の意味を含んでいるのですね。その違いは形か心の違いですね。 >東洋人の美学と西洋人の美学には静と動の違いはあるように思いますが同じように余白の美的観点はあるのでしょうね。 はい、おっしゃる通りだと思い、とても考えさせられました。 舞は動、無は静。 舞は無を含む。形か心。 鋭いです。思わず納得です。 また変なことを思いついたのですけれども、 舞の「クルクル舞う」という回転するイメージと、昨晩観た演目の老婆(実は人喰い鬼婆)の仕草が、不思議と重なるのです。 何も知らぬ一夜の宿を求めた僧に対し、自ら糸繰車を持ち出して麻糸を手で繰りながら語るのですが… 「あさましや 人界に生を受けながら かかる浮世に明け暮らし 身を苦しむる悲しさよ…」 と、人の一生というものが、まるで糸繰車がクルクル回るかのように経て廻る、自らの力では六道輪廻を離れようがない、などと涙を流す場面がとても印象深かったです(ゆえあって旅の妊婦を実娘と知らずに殺害し錯乱して鬼と化した)。 また、童話の赤い靴(アンデルセン)も、主人公の女の子が「死ぬまで」クルクル踊り続ける呪いをかけられたのでした。 死と再生、輪廻転生、永劫回帰、性的なる意味合い(アメノウズメ、躍動感と肉体)、「間」と動作との連続性、等々…。 これらのイメージが「舞」とかかわりあうなら、また同様に「無」とも結び付きそうな気もしてまいります。 ああ、でもどうなのでしょう、 心を「空白」にする=「無心」になって踊るという意味合いはわかるのですけれども。 ご回答をありがとうございました。

mashumaro2
質問者

補足

追伸を頂戴致しました。どうもありがとうございます。 お礼が遅くなりまして、申し訳ありません。

その他の回答 (35)

回答No.26

ANo.13 【また余談で恐縮ですが、昨晩は靖国神社の夜桜能を観に行きました。】  あぁ、そうすると余談も一種の空白ですよね、まくらやイントロはいかがでしょうか。必要な非本文ではないということでしょうか。でもこれだけ余談が上手におできになる。つまり空白をおけるというのは、いえ空白をテーマにできるというのは、相当の老練性ではないかと思っていました。  ところが戦争を知らない世代とは一驚でした。空白やイントロをどうもてるか。  もうすぐ新学期で、始めて学生の前で授業をする先生もおられるでしょう。無駄話ができない先生にはとても疲れて、授業についていかれない。  無駄話でどこまで行間の自分を出せるか。これが問題ですね。第一講時間で、前期分15回のために準備したノートを半分喋ってしまった。なんて新任の先生の話はよく聞きますね。  私は川べり、海の近く。春から秋まで一日中裸で、水にいました。河童です。  でも木登りは出来ません。いえあまりしません。山登りはします。二ヶ月帰らない事もあります。   桜:桜見に来て桜見る馬鹿 って川柳は私もすきです。   これは桜のところに来て、それはもういいということですね。  梅は先ごろこのサイトでも仰梅ということばを出していたかたがおられました。歩いているが、そこはかとなく漂うな。ってのであたりを仰ぐとお庭先に不器用な枝に白梅が唐突についていた。  梅の風情と桜の風情。でも桜、右近のさくら。左近のたちばな、ですね。  右や左をいろいろいいますが、東は叡智の光、神の意識。  北は祖先や系統、つまり権力の席、クシャトリアですね。それを背にして左が桜、右が橘ですか。  梅は出てこない、西は橘で梅はナンバー2なんですね。西はシュードラ南はヴァイシャでしょうね。  桜はお墓や古戦場に付きものらしいですが、どうしてなんでしょうね?  骨が好きだというより、取り合わせですから日本人の美意識かな?  一度パソコンの操作違いで消してしまって、前に書いた文章が分らなくて、困りました。

mashumaro2
質問者

お礼

krya1998様、お礼が遅くなりました。すみません。 >余談も一種の空白ですよね、まくらやイントロはいかがでしょうか。 >戦争を知らない世代とは一驚でした。 >空白やイントロ なるほど、そうですよね。 余談は一種の空白ですね。 現代に生きる多忙な日本人(敗戦後生まれの世代)は、普段の意識として、 歴史から独立した気になって生きていると思っている面があるのではないか、 でも、仮にそうだとしたら、ちょっと違うのではないかなと思うのです。 歴史の実証性や認識の難しさとは別に、悠久の流れの中の自らの存在というものを意識するならば、 過去から得られるものは決して少なくないと思われます。 それは、過去の美化や礼讃という意味合いではなく。 >桜はお墓や古戦場に付きものらしいですが、どうしてなんでしょうね? >骨が好きだというより、取り合わせですから日本人の美意識かな? やはりkrya様もそのようにお考えになるのですね。 お墓、古戦場、そして骨。 ふと、日本人が好むという「判官びいき」を思いつきました。 下記でいだたいたtansll様のご教示に倣い例えますと、 無常観ゆえに、一瞬の中の永遠をどこか見い出そうとするかのようであり、 それが錯覚なのか、願望なのか、 生きる切なさを反芻するのか、 義経や赤穂浪士、或いは非業の人物に、格別な想いを寄せることも時にありましょう。 そしてまた、徒然草のような随筆も、この国にはありました。 >梅の風情と桜の風情。 >でも桜、右近のさくら。左近のたちばな >右や左をいろいろいいますが、東は叡智の光、神の意識。 桜の川柳と仰梅につき、なるほどなあ、と思いながら読ませていただきました。 そして叡智の光や神の意識。 私は、表層ばかりを漂っていると、あらためて思い知らされます。 日本人は桜にかぎらず花見が好きですよね。 やはり無常観、うつろう時の中の一瞬を、脳裏という余白に焼き付けておきたいという願望があるのでしょうか。 今しか愛でることができない、というそれは、永遠を内に留めておきたいという裏返しのようです。 この国の花は、毎年健気に、美しく咲いてくれるというのに。 ご回答を本当にどうもありがとうございました。 (間延びしないよう、ゆるゆると締める方向でおります。また次回もこちらこそよろしくお願い致します。)

mashumaro2
質問者

補足

懐深くお付き合い下さったのですね、本当にありがとうございます。 そして、「相当な老練性」のくだりに、昨日の「安達が原の鬼婆」を、ふと思い浮かべてしまいました。 (こどもたちにとって、私≒鬼婆かも?!) 追って、お礼文を記させていただきたいと思います。 ところで、日本では「見てはならぬ~」という覗き見系(見るなのタブー)の神話や物語が、なぜ広く親しまれてきたのでしょう。 まるで、登場人物同士の「間」に横たわっている「禁じられた余白や空白」に立ち入ってしまったために訪れる悲劇を反芻してやまないかのように。

noname#112847
noname#112847
回答No.25

空白だけを少しですが・・・ 空白の心に訴えかけてくるもの 無常ならざるもの、またそれを求める心でしょうか。 無常とは思えぬものが、すーと入ってきてしまう。 空白の虚無の中に、虚無でないものを感じてしまう時があります。 言葉以前の響きのようなもの、或いは風景の中の言葉のようなもの 遠い記憶の中にも、目の前の風景にも 空白の一瞬の時間が、一瞬ではないような 一瞬の中に永遠があるような・・・錯覚です。 錯覚と分かっていながらも、あまりにもそれが重く感じられる時もあります。 無常という冷静さの前には、その錯覚が生きるという切なさの感情に変わる事もあります。 無常という一くれの空白の中に自分がいるのでしょう。 そして、その空白は誰が知るよしもないのです。 誰も知らない、ただの空白です。 空白という無常の色です。 心に空白があるから、外の世界に空白を見てしまうのかもしれませんね。 散文的に書いてしまいました。 空白や余白の美には、日本的な無常感が秘められているようにも思われます。 ご参考まで。

mashumaro2
質問者

お礼

tansll様、お礼が遅くなりました、すみませんでした。 >空白の心に訴えかけてくるもの >無常ならざるもの、またそれを求める心でしょうか。 はい、おっしゃる通りだと思います。納得です。 満開の桜を見ながら、心の中ではらはら散りゆくさまを思い浮かべているとか、春に夏の兆しを描いて心急く、とか。 手漉きの和紙をていねいに折り畳んでいくように、儚くうつろう季節感。 消えゆくものを惜しみ愛でる心。 そこに私達は、小野小町の九相図のような流転と風化のイメージを、気付かぬうちに織り込んでいるのかもしれません。 もしくは、伊勢の式年遷宮などの常若(とこわか)や穢れを忌む流れもまた、意識の底流に受け継いでいるのでしょう。 だからでしょうか、私達日本人が、無常ならざるものを、時に空白の虚に求めてやまないというのは。   一瞬の中に永遠があるような・・・「錯覚」というものを。 「うつろい」とは、時の流れのほんの僅かな一瞬にしかすぎなくて、無常であり、ことさら日本の美術絵画や文学で愛惜の情がこめられてきたと思われます。 でも、tansll様がおっしゃるように、人という生きものは、 「錯覚と分かっていながらも、あまりにもそれが重く感じられる時もある」のでしょうね、きっと。 だから、心の内の空虚な余白に、常なるもの、永遠なるものに一瞬ふれる、そんな錯覚をおぼえるのかもしれません。 誰の心の中にも少なからず抱き、自ら求めてやまないというのなら、 この国における「空白や余白の美」は、偽らざる普遍的な精神として、この国のいかなる宗教をも超越するものではないかなどと、 不思議な「錯覚」に襲われたりもするのです。 No.24お礼欄の追記:最後に記した、意識の流れと空間、そして時間軸が、大変交錯しております。 そこに郷愁も絡んできそうな予感もするのです。う~ん…

mashumaro2
質問者

補足

重ねてのご回答をどうもありがとうございます。 「空白や余白の美には、日本的な無常感が秘められているようにも思われます。」のご指摘は、大きな鍵となりそうです。 あらためてお礼をさせていただきます。

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.24

>視覚的な余白と時間。 >ここはまっ先に、先の舞踏、舞踊の余白に通ずるお話と理解しました。 ここは絵画観賞の共時性を考えていたのですよ。 で、mmkyさんから舞と無のお話がでたときに、やっと、あっ と思いました。 舞踊評論の世界は精神療法の研究とも横断性があってわりと身近なんです。 でも日舞はおつきあいの観賞程度にしか知りません。ニケはロマンティックバレエのイメージですね。 >あの即興性の趣、余白との絶妙なコントラストを愉しみ、自ら反復反芻してやまない心というのは、ネオテニーでしょうか。 >人間が成熟の遅延を選択したのかどうか、そしてそれが戦略的だったのか何なのか ネオテニーってなかなか面白いでしょう。大人のなかの子供部分をとことん考えるのに便利です。 生物学的な余白を獲得する戦略、と考えてもいいと思います。 伸びしろ、ですね。 その意味では、精神的に脆く動じやすい心であることも革新の条件となるといえるのですが。。。 神様がいるとするなら、 生物の設計図を描くのに、余白をつくったかもしれないでしょう? 「遠近法との違い」「借景」「劇場空間の視軸」。。。もりだくさん。 わたしが、時間やトゥオンブリに触れたことにも関わるのですが、 有効な領域というくくりをしてみることと、support/surface的な、支持体というくくり (そこで小宇宙を支えている構造体を潜在的にとらえるといったものですが)、 そんなアプローチが思い浮かびます。 >屋内の白い壁にも、何か静寂のうちに、自然神に対する畏怖の心を湛えているように思える わたしは、執筆するときは、白い壁を見て、複雑な考えをまとめることがしばしばあります。 そういう意味では、畏怖よりは親しみですね。 >でも、No.15の回答などを見ましても、何を勝手に告っているのやら、全く意図が伝わっていないようなのです。 けっこう考えた末のギャグかと思って笑ったんですけれど。あの15の切り返しはふつうに見て面白いですよ。 新橋の居酒屋にいるサラリーマンなんかであの切り返しが出来る人がいたら面白い。 まじめに正座して、顔をこころもち上げて、目を閉じながら喋るような不思議な空気で。 でも、もしかしてギャグじゃなかったのかもしれない。 わりとわたしは次の投稿をさらっと書いているんですけれどねえ。 参考になったボタンを押されないように  "余白埋めるなかれ" って余白に書いておくべきだったかもしれません。 実際そんな余白を見たら、考え込みますけれど。。。 16にいただいている山水のお話で、 別れた良人のことなど思い出し、これが勉強に触れようとしたこともない武道派で気持ちの真っ白な人でしたが、 臨済ではそれでよしってわけじゃないはずなんですけれども、まあ、なるようになっていて。 で、お庭がね、とても良かったんですよ。また折を見て投稿させていただきますね。

mashumaro2
質問者

お礼

amaguappa様、お礼が遅くなってしまい、すみません。 >ここは絵画観賞の共時性を考えていたのですよ。 そうだったのですね。 はらはらと「舞」が一行分の余白に舞い込み、neutral様ご指摘の切断効果が偶然生まれました(汗)。 >視覚的な余白は、時間と関わり >伸びしろ、ですね。 >気持ちの真っ白な人 >臨済 そうなのですね。気持ちの真っ白な人。う~ん♪ 先のご質問「遊戯」と繋がりがありそうな。 伸びしろは「代(しろ)」。 「何かの代りをする部分」、こどもの「余白」ネオテニー。 「ゆとりある稼働性の空間」は「遊び」とも申します。 例のトゥオンブリの絵は、こどもさながらの無心や自由、遊戯性を湛えています。 「気持ちの真っ白さ」は禅の自己覚醒にも通じましょうか。 >「遠近法との違い」「借景」「劇場空間の視軸」 >小宇宙を支えている構造体を潜在的にとらえる はい、ご教示に基づき考えてみました。 遠近法との違い ・古典的な西洋絵画にはない余白の存在と効果、それにより誇張される  斬新な構図(非対称、前景と遠景の配置、複数視点等) (例:富嶽三十六景 神奈川沖浪裏) 借景 ・現存の庭園か廃墟廃園かという西洋的時間の断絶とは異質の 流転の予感、  経時経年によるうつろう美を湛える侘び寂びの小宇宙、複数視点 道ゆきとしての劇場空間の視軸 ・日本の舞台装置に存在する余白的空間(歌舞伎の花道、能楽堂の橋懸り) ・あちら(あの世)とこちら(この世)の「間」の橋。 ・舞台造(懸造)との関連性 好きな庭って、どうやって心の内でそう思うのでしょうね。 北京の故宮では、天空(垂直)への志向性を感じました。 神仙思想、山岳信仰でしょうか。 日本の枯山水は、穏やかに広がる海と波、浮かぶ島々ですよね。 常世の古い思想の断片を受け継いでいたりして。 橋懸りは、斜め方向の奥行きが遠近法的です。 舞台上の一点に静止して謡う演者を観るにつれ≪時間も空間も共にうつろうさま≫は tansll様のご回答 「古びた物や自然を見るとき≪時の流れが止まったような感覚に陥る事があります≫これも空白なのでしょう。」 にも通じる、とても懐かしくて不思議な心地がするのです。 時空がうつろうのか、私の心がうつろうのか。

mashumaro2
質問者

補足

瑣事の件につき、了解です。  そのあたり、いまだ空気が読めておりませんが、あまり気にしないことに致します。 拙文のせいで、あの方がご不快になられていないのであれば、それで結構です。 胸のつかえがとれました。 たくさんアドバイスをいただいたので、お礼に少し時間をかけてみたいと思います。 本当にありがとうございます。

回答No.23

ましゅまろさん。ふたたび、こんばんわ。 不躾ですが、ちょっと【スペース】を拝借します。 ゆっきんさんに「こんばんわ」と言いたかったので。 __________________________ 以下、文章をまとめる能力がないため いや、あるいは文章をまとめる労力さえ ケチっているのかもしれません、 そうだとしたら、 とても失礼なことをしている気分になるのですが、 いろいろ思うところがあったので、 ずうずうしく、お【邪魔】し、 パツッ・・パツッと話すことをご容赦くださいませ。 ___________________________ ゆっきんさんと重なりますが、 「余白」に対して 「柔らかで暖かで優しい毛布」のイメージと 「頑丈で冷たくて暴力的な檻」のイメージを持っています。 ___________________________ 季節外れではありますが、 一面の秋桜畑を思い浮かべていました。 もし、今オーストラリアに行ったとしたら、 はたして秋桜は咲いているのだろうか、 とか考えていました。 それにしても秋桜畑はとても美しいよなあ、 とか考えていました。 その一面の秋桜畑に、 花の背丈の「まばらさ」による凸凹があって、 その凸凹による影とか穴とかがあったら、 きっと、より美しいだろうなあ、 とか考えていました。 蝶とか地平線(花平線?)なんかもあると、 より美しいだろうなあ、とか考えていました。 とにかく花「以・外・の・も・の」があったら、 「一面秋桜だらけ」の絵よりも美しいだろうなあ、 とか考えていました。 その秋桜畑に、例えば「カモ」なんかが ヨチヨチと歩いていたら、 なかなか愉快な絵になるんぢゃないかなあ、 とか考えていました。 秋桜畑の光景は、 本来、視覚から入るものなのに、 どうして「思い浮かべてる」のだろうなあ、 とか考えていました。 __________________________ そんなことを考えているうちに、 我輩は吝嗇である、とか言いつつ、 実はわたしは余白だらけの生活をしているなあ、 とか思いました。 __________________________ 秋桜畑の、花「以・外・の・も・の」に、 「余白」を感じるなあ、とか思いました。 __________________________ 秋桜畑の地平線(花平線?)を ぼんやりと思い浮かべているうちに、 「余白」というのは 「切断」という意味があるのぢゃないかなあ、 とか思いました。 それは、 例えば「親父」が 「母と子どもの間」を「分ける」ように、 「なくてはならない役割」 を果たしているのぢゃないかなあ、 とか考えていました。 __________________________ 「とか考えていました」 とどれだけ書いただろ、とか思いました。 この「とか考えていました」という部分は、 きっと「余白」の方がよいのだろうなあ、 とか考えました。 ___________________________ 育った環境に関しては、 言い出しておいて卑怯だとは思うのですが、 これこそ「>余白の余白に消えていく」 ような話題だと思うので、 【以下、余白】にしたいなあ、とか思いました。 ___________________________ 追伸。 わたしの18番における回答の中の 「ゆっくりしゃべってもらわないと  内容を理解できない」 というのは、 意図的「醜」ではなく、「自虐」でもなく、 正確な現実描写でした。 わたしは脳ミソに先天的欠陥を持っているので 言葉をひとつひとつ理解してそれを繋げるか、 読後感を映像化してそれを言語に戻すか、 という方法によってしか、 実際、文章の内容を理解できません。 ___________________________ 今、また無駄な話をしたなあ、とか思いました。 ___________________________ 結局「余白」は、 わたしに必要な「優しさ・慈悲」を内包した 必要不可欠なものであり、 そのわりに掃いて捨てたいものだよなあ、 とか思いました。 ___________________________ まとまりが無い上に、長々と失礼いたしました。 それでは。

mashumaro2
質問者

お礼

neutral様、再度のご回答、とても嬉しいです。 先のご回答で、「無駄」についてご指摘下さったので、「無駄≠勿体ない」と思いつくことが出来ました。 ありがとうございました。 >先天的欠陥 >今、また無駄な話をしたなあ、とか思いました。 それって、そうなの? だってneutral様は、こんなに潔く美しい文章構成をなさるのですもの。 私など、そりゃあもう、心地良さをおぼえて癒されますから(他の方々もそうだと思います)、 それは「個性」「豊かな才能」と背中合わせだと思えて仕方がないのですよ。 >結局「余白」は、 >わたしに必要な「優しさ・慈悲」を内包した >必要不可欠なものであり、 >そのわりに掃いて捨てたいものだよなあ、 はい、そうですね。 そしてそれは、やはり「余裕」なのでしょうね。 どちらにも反転できる可能性を秘めている、という。 その場合の余白って、大きければ大きいほど良いものなのでしょうか。 どうなのでしょうね。 余白が多すぎても、間延びしてしまいそうな感じ←拙文内容 お【邪魔】、切断=「母と子どもの間」を「分ける」ように、 「なくてはならない役割」、秋桜畑の余白… …本当に豊かな発想力をお持ちなのですね。 それも長所以外の何物でもないでしょう? 他に「余白」からは、いったい何が浮かぶのでしょう。 う~ん、私なら…こどもたちが春休みだから、「休眠」かな。 眠りは脳の余白、それともリフレッシュ、とか。 睡眠だって、レム睡眠とノンレム睡眠とが交互に繰り返します。 それは、何故なのでしょうね、いったい。おわかりになりますか。 そしてこどもたちが巣立ってしまえば、まどろみがかった甘ったるい春休みの概念なんて、頭からすっかり消え失せてしまうものかもしれません。 夏休みほど強烈な日差しも長さもなく、また、冬休みほど行事めくこともないけれど、 日本人にとっては、節目やリセットという、とても大切な意味合いがあるのですよね。 まるで、桜の季節をわざと選んだかのように。 ご回答をどうもありがとうございました。

mashumaro2
質問者

補足

はじめまして。 そして、ありがとうございます。 思いつくままに、よろしければ、どんどん余白に書き込んで下さいますようお願い致します。 ではでは。

noname#122427
noname#122427
回答No.22

現状、「余白だらけの生活」を送っている者としてお邪魔致します。 余白、、、 文章が書かれた紙の中の、何も書かれていない部分、がまずは浮かびます。 其処から派生する感覚?として、  各々の感性に任されている部分、  自由な空間、  気ままに吹く風、  何もしない時間  公園で見上げる空  寝静まった後の一人の時間、、、色々出て来ます。 具体的な「余白」に何を思い、見出し、また、埋める?為の手段や内容は、その時々の自分の状態によりけりです。 もう、、、わくわくしちゃって、あれも出来るこれも出来る、と余白の自由を満喫する時と、 自由と言う「縛られていない状態」を、とても不安定で捉えようが無く恐ろしいと感じてしまう事もあります。

mashumaro2
質問者

お礼

yukkinn66ちゃん、ご回答をありがとうございます。 寝ぼけ眼で何をトチ狂ったのか、なんとなんと、補足欄に変に仰々しい文を書いてしまいました。 いつもの如く笑って許して下さいますよう、どうかお願い致します(ぺこり)。 >余白、、、 >文章が書かれた紙の中の、何も書かれていない部分、がまずは浮かびます。 >其処から派生する感覚?として、 この出だしは、とても新鮮でした! こちらに集う方の多くは、やはり、「余白=文章が書かれた紙の上」を思い浮かべるのでしょうか。 私の場合、白いキャンバスやらの画材だったり、白い襖や壁の一部分などで、文章が書かれた紙のイメージは、指摘されなければ下手すると気付かなかったかもしれない程の意識でした。 まあ、よほどそちらの方面には疎い人間ということなのでしょうね、おそらく。 >具体的な「余白」に何を思い、見出し、また、埋める?為の手段や内容は、その時々の自分の状態によりけりです。 はい、何かとてもわかる気が致します。 それがきっと、とても自然なことなのでしょうね、きっと。 下手に余白を埋めようとすると、何故だか案外埋まらないものだったりして。 >自由と言う「縛られていない状態」 その自由って、本当に「縛られていない状態」だとお考えなのでしょうか。 私は、ちょっと、何だか違うような気がするのです。 自由って、むしろ、余白のようなものではないでしょうか。 >現状、「余白だらけの生活」を送っている者 それは、いままで一生懸命休むことなく邁進してこられたから、神様が「pause=小休止、一息」という「余白」をわざわざ用意してくれたのかもしれませんね。 休めるときにきちんと休んでおかないと。でしょう?^^ arayata様を御誘いしようとの御心づもり、本当に嬉しく思います。 ああ、こちらにいらして感想を述べて下さらないかしら。 あの御方ですよね、舞踏や芸術に半生をかけた、という。 ねこの件は、絵を持ち出すのは禁じ手だったように思われますので、どうぞ、すっ飛ばして下さいね。お願い致します。 それにしても…。 「余白余白と騒いだところで、質問者さんがそうと自覚しているいないにせよ、紙面空間上の一範疇以上でも以下でもなく、 所詮は余白だとしか説明しようがないですよね。」なんてね♪

mashumaro2
質問者

補足

お返事が遅れております。ですから、よろしければ余白につき、お書き下さっていただきたく、よろしくお願い申し上げます。 ありがとうございます。

noname#108334
noname#108334
回答No.21

日本経済の余白って。。。 そんな余裕。。。 Shall we dance。。。 白骨化。。。 生き埋め。。。 う~ぶるるる また今度にする じゃあね~~~

mashumaro2
質問者

お礼

日本経済の正念場x円山応挙「波上白骨座禅図」 http://matome.naver.jp/odai/2126224449224287301/2126224890124345602 波の上の余白は何を意味するものだろうか。 それとも、 波の上の白骨自体が、余白そのものなのだろうか。

mashumaro2
質問者

補足

>じゃあね~~~ は~い。 白骨でなく、余白を埋めたくなったら、またどうぞ。 なぜ人は、時として余白を埋めたくなるのでしょうね。

noname#108334
noname#108334
回答No.20

誰が踊らされてるんだか。。。 イヒヒッ。。。 ああはしたない                                  ´

mashumaro2
質問者

お礼

Shall we dance?

mashumaro2
質問者

補足

日本の経済成長の余白はあるのだろうか。

noname#108334
noname#108334
回答No.19

醜を傍において美を際立たせるというのもあるんですね。。。 余裕 ですか。。。                                ´

mashumaro2
質問者

お礼

asura_2012様、再度のご回答をありがとうございます。 >醜を傍において美を際立たせるというのもあるんですね。。。 ヒッチコックの「鳥」なんか、そうかもしれませんよね。 「余白」なく、醜いほどに埋め尽くされた鳥の襲来に、逃げまどうヒロイン。 「余裕」なく逃げまどっているのに、何故、あんなに美しいの?

mashumaro2
質問者

補足

余:(よ) 一人称。われ。わたくし。 + 白:(はく)色の名。しろ。 白色、 はっきりした。 明白 汚れがない 潔白 いう。しゃべる。打ち明ける (by wictionary)

回答No.18

ましゅまろさん。はじめまして。こんにちわ。 「宙ぶらりん」と申します。 「公立共学自転車通学叩き上げ」の「宙ぶらりん」です。 わたしが文章を書くときは、 どうしても「余白」が多くなってしまいます。 これは、私自身が 「【間】を置きながら、ゆっくりしゃべってもらわないと  内容を理解できない」という頭脳の持ち主で、 改行と余白の多い文章を好むため、 自分もそのように書くようになった、というだけです。 無駄な話をしてすみません。 _______________________________________ この質問を拝見したとき、なぜか 先日、このカテゴリーに「冷静になると不安になる」 という質問があったのを思い出しました。 自分もそうなので、ひっかかっていました。 当方、「宙ぶらりん」などと名乗ってはいるものの、 「宙ぶらりん」というものには常に恐怖を感じます。 「宙ぶらりん」なるものと戦っては負けっ放しです。 くりや様のおっしゃる【くう】を作るのが苦手です。 無駄・無為が嫌いで、 物質に限らず、時間・労力にも吝嗇です。 ふたたび無駄な話をしてすみません。 ____________________________________ >余白というものは、無駄でしょうか、 >それとも有用でしょうか。 :まず、【無駄】は【有用】だと思います。 このように「無駄」の「価値」について語り始めると その時点で 「無駄」が「無駄」として存在できなくなる気もしますが、 つまりその、こういうときはなんと言えばよいのでしょう、 「無駄」を「無駄」のまま放っておいてこそ「有用」、 いや、これもちがう、 無駄・・・無駄・・・無駄・・・無駄・・・無駄・・・駄? 無駄?「駄」が「無い」? 「報酬」が無い?「益」が無い?「得」が無い? そういえば 「無責任でいることが許される子ども」は、 「投げたボールが帰ってこない  投げっ放しのキャッチボール」とか 「ゴミ箱に捨てるための落書き」とか 「失敗を繰り返すための料理」とか そんなものを愉しんでいるように思います。 「関係」の中で生きていると 「無駄」に「無駄」と名づけざるを得ませんが、 もともと「単体」で生まれた人間ですから、 「駄」が無くては生きておられぬ、ということもなく、 「駄」が「無い」ときは、 「駄」が背負うべき荷物を 少しの間、己が単体で背負ったらよいだけで・・・ 「無駄」を「無駄」のまま放っておく、 というのは、つまりこんな感じのことだと思います。 で。 「余白」には 「貴重な無駄」が詰まっているように思います。 何かしゃべるほどウソくさくなるのでもうやめときます。 あ~そういえば娘の描く絵にはほとんど余白がないなあ・・・。

mashumaro2
質問者

お礼

neutral様、はじめまして。 ご回答をどうもありがとうございます。 たしか、筋トレにおぼえあり、ですよね。 >「公立共学自転車通学叩き上げ」の「宙ぶらりん」です。 羨ましい! 公立の一番の魅力、それは、(1)勉強せざるを得ない環境(2)通学の負担が少ない(3)遊ぶ時間の多さ(4)放課後付き合いの気やすさ、だと思われます。 私など、物心つかぬうちから、NHK「明るい農村」(朝6時半頃放送)とにらめっこの毎日でした。 そう言えば、いつ頃から、あの番組を見かけなくなったのかしら…?何故…? >そういえば >「無責任でいることが許される子ども」は、 >「投げたボールが帰ってこない > 投げっ放しのキャッチボール」とか >「ゴミ箱に捨てるための落書き」とか >「失敗を繰り返すための料理」とか >そんなものを愉しんでいるように思います。 そうそう、私も似たような感じでした。 デッサンも、数十本もの線をササッと描き、「お!これ、いいかも!」という線を残してあとは全て消す…なんて、くだらないことばかり試して悦に入っておりました。 ところで、「勿体ない」とは、仏教用語だったのですね。 もしくは、森羅万象に命が宿り、それに対する慈しみや感謝の念を抱くという日本人ならではの心。 勿体ないか無駄かということを、つい私達は効率性や経済性、資源的な観点に基づいて価値付与をしがちだと思われます。 ですが、≪慈しみや感謝の心≫というものが、実は、日本人の勿体ないと思う根柢に込められてきているのですよね。 このたび、neutral様から頂いたご回答を通じて、それをあらためて認識することが出来ました。 ちょっぴり、嬉しかったりなんかして^^ ちなみに、その「単体」でない単位とは、一体何だとお考えでしょうか。 >で。 >「余白」には >「貴重な無駄」が詰まっているように思います。 ん。「余白」には、って。 「この質問」のこと?「貴重な無駄」?? …だめ…笑いが止まらない…助けて~(怒涛の笑いの渦へ突入)

mashumaro2
質問者

補足

たくさん書き込んで下さって、どうもありがとうございます。 遅くなって、申し訳ありません。

noname#136007
noname#136007
回答No.17

  芸術において、余白は、重要です。 絵画で、余白をうまく利用している作品は多いですよね。 落語、まんざいでも、話と話の「間」は、重要になります。 間が悪いと、しゃべりを殺してしまいますから・・・ 書籍でも、上下、左右に文字のない、余白は、必要ですよね。 これがないと、息苦しくて、読みづらいですよね。 まあ、こんな事をいくら取り上げても、仕方がないのですが・・・ 質問者様の、疑問の回答になっているでしょうか?  

mashumaro2
質問者

お礼

kunobou様、ご回答をありがとうございます。 >書籍でも、上下、左右に文字のない、余白は、必要ですよね。 >これがないと、息苦しくて、読みづらいですよね。 はい、芸術だけでなく書籍でも、余白は必要ですよね。 ご指摘下さった、絵画、書籍は、五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)のうちの「視覚」に全て頼りきっています。 では、話と話の「間」は、どうなのでしょう。 あれって、五感のうちのどれだとお考えになりますか。 かつて人間が文字を持たなかった頃というのは、現代に生きる私たち以上に視覚に頼らない世界だったのでしょうし、他の感覚をも多用することで、今とは異なる次元の、より豊かで雑多な意味合いを込めていたのかもしれませんよね。 文字を発明し、文字文化の発展が進むにつれ、話と話の余白である「間」の取り方にも何か影響をもたらしてきたのでしょうか。 言語そのものの「間」やリズムの独自性もさることながら、あいづちをうつ/うたないという国民性も、傾向として少しは認められると思います。 日本人はもちろんのこと、私の経験では、ラテン系(殊に南米、南欧)の人々が、親しみをこめてあいづちをするような気がするのです。 個人差もむろんありましょうが、滅多にあいづちをうたない国民性も、傾向として挙げられると思うのです。 日本人は、何故「間」において、あいづちをするのでしょうね。 そしてそれって、他のあいづちをする国民と、似たような由来なのでしょうか。

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