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死後を明るく捉える考え方は?(無宗教)

死を明るく考えられるようになりたいです。 僕の死後の捉え方は、 天国は無く、 脳が停止して終了 という考え方です。 これだと死が怖いです。 絶望でしかありません。 もっと明るくなれる考え方はありますか? すいませんが、 無宗教の方のみお答えください。

みんなの回答

  • KomiyaYui
  • ベストアンサー率29% (7/24)
回答No.16

恐れは体の動きを強張らせやすいのですが、 逆に無駄な緊張が解(ほぐ)れ続けていますと、 過剰な恐れが緩和されやすくなるでしょう。

回答No.15

他者達の死は客観的に認識されますが、 自己の死は認識主体の死になるのですから、 自己の死を認識する展開は存在し得ないでしょう。 但し、老化とか重い病気とかを考えますと、 死への漸近を想像してしまいやすいですよね。 従いまして、死への恐怖を忘れ続ける為に、 健康維持を徹底なさり、夢中になれる事を探し、 それに耽られますと、宜しいのではないでしょうか?

  • tech88
  • ベストアンサー率0% (0/1)
回答No.14

以前、ドラマでこのようなシーンがありました。 子供がお婆さんに 「死ぬの怖くない?」 すると、お婆さんは 「そりゃ、怖いさ…。   でも、死はいつか訪れるもの」 「だから、今を生きる。今を精一杯生きる」 自分も昔は死が怖かったです。 小、中学生のころは 死について考えると心臓がバクバクして、思わず叫んでました。(笑) だけど、この言葉を聞いてから、死は逃れようが無い。 だったら、人生楽しまないと損じゃん! と思うようになりました。 それからは少し死の恐怖が和らいだような気がします。 輪廻転生や死後の世界が存在しないと考えるなら、 死後を明るく捉える考え方はないと思います。 しかし、人生を明るく考えることはできるはずです。 人生を明るく捉えるように考えてみたらいかがでしょうか? ただ、私はこのように割り切った考えを持ったのは偶然の出来事なので、 質問者様もこのような考え方を持てるかはわかりません。 このテレビは中学生記憶してるのですが、 実はこの後も少し死の恐怖はありました。 その後、年を重ねるごとに薄らいでいきました。 今、私は大学4年ですが、今では死の恐怖はありません。 質問者様が何歳かは存じ上げないですが、 あるいは年齢が死の恐怖への耐性をつけるものなのかもしれないです。 文章力がなく、長文&乱文&最後投げやりですみません。

  • mdh57
  • ベストアンサー率25% (7/27)
回答No.13

「無宗教の方のみお答えください」とのことですが、 無宗教の方に、回答は不可能なので、簡単に回答させていただきます。 私の勉強した範囲内で恐縮ですが、ご参考になれば幸いです。 (私事で恐縮ですが・・・) 私は、「法華経文底独一本門(無神論)」を信仰をしています。 これは、10年間かけて勉強と経験を、積み重ねて出した結論です。 全ては自身の生命の内に備わっていて、「どこかに、神様や仏様がいる」という考えを否定している、無神論の教えです。(自身の中の仏界を引出すことが重要で、外にではなく、生命に内在しています) 前半は、外道(キリスト教や神道などの有神論)と、仏教「爾前教」(日本人が仏教だと思っている教え)を学び、後半で法華経を学び、最終的に文底独一本門(無神論)にたどりつきました。そして、邪宗や占い師など、(もちろんカルトも)信じたり、それらにお金を出すのも誤りだと気づきました。 10年かけて、しっかり宗教比較学を勉強してきたので、他の人より少しは詳しいです(まだまだ勉強不足ですが)少しでもお役に立てれば嬉しいです。 詳しく説明したいのですが、理解するのに早い人でも2~3年かかるので、簡単に説明させていただきます。一度でいいので、最後まで読んでみてください。 仏教の始まり(約3千年前)、釈迦が仮導の教えで「地獄」や「閻魔」などを説きましたが、それは実在する場所や人物ではなく、「方便(比喩)」です。 釈迦は説法50年間のうち、まず42年間かけて「爾前教(現在の真言・浄土宗など法華経以外の仏教)」を説き、後の8年間で、爾前教を仮の教えとして、釈迦自身が否定し、「法華経28品(後半14品が重要で、「法華経本門」といいます)」を説きます。 しかし、その「法華経本門」も、釈迦の死後2000年(正法・像法)で効力を失い、現在の「末法」という時代では、釈迦仏法を信仰しても効力はないと、釈迦自身が仏典の最後に記しています。 そして、釈迦が「文底秘沈」した(明らかにしなかった)「法華経文底独一本門」(無神論)が末法で信仰すべき仏法だと教えています。 仏法では、魂(命)は「有る」わけでもなく、「無い」わけでもない、「空(くう)」と表現されます。死後、命は、「霊魂」として、ふわふわ存在するのではなく、死時は「冥伏」といい、生時は「顕現」といいます。肉体と魂は別々ではないのですが、「肉体」イコール「魂」でもないです。 簡単に言うと「起きている状態が生」、「寝ている状態が死」です。つまり「無始無終」といい「生命は永遠」ということです。 過去世の生命境涯や行いにより、現世の生命境涯(十界論をご参考になってください)がありますが、「定業」と「不定業」があり、自身の内の境涯変換(仏界涌現により)、定業(決定している宿業)でも「宿業(宿命)転換」が可能です。 また「成仏(仏)」とは「仏界をひらく」ということで、死んだ人のことではありません。 (もし、死んで仏になれるのなら、早く死んだ方がいいということになってしまいます) また、「地獄」という場所は、どこにも存在しませんが、例えば、戦地に生まれるなどの境涯を「地獄」に例えているのです。それと同様、「閻魔」という人物は存在しませんが、自分自身の中の悪い生命境涯や、自分の境涯を狂わす働きのことを「閻魔」に例えているのです。

回答No.12

死は終わりでは無く、何度も魂は転生を繰り返す。そして現時点の自分の姿はかりそめであることを知ると、楽になります。

  • abc2008
  • ベストアンサー率17% (7/41)
回答No.11

結局、真の自分自身というか、その本質とは一体何かが理解できれば死に対する恐怖も軽減できるのではないかと思われますので、当方のブログに掲載したものを以下に紹介しますので、少し長めですが、よかったら読んでみてください。 誰もが時々つめを切りますが、切られたつめは自分のものではあっても自分自身でないことは誰にでも分かります。なぜなら、切られたつめは痛がりませんから。  ではもっと極端な話、体の半分を切った場合はどうでしょうか。上と下、一体どちらに痛がる自分がいるでしょうか。当然、上の部分でしょう。そしてさらにそれを半分、また半分と切っていった場合、最終的に痛がる自分というものは、一体どこにいるのでしょうか。  おそらくは誰もが行き着くところ、頭脳かと思われます。ということは、頭脳以外の肉体というものは、自分の所有物ではあっても、決して自分自身ではないということを物語っているのではないでしょうか。  では、頭脳こそが自分自身なのでしょうか。もしそうなら、頭脳を構成している神経細胞をバラバラにした時、自分自身はその中のどこにいるのでしょうか。また、その神経細胞を作り上げている物質は誰のものでも同じものなのに、なぜ、それぞれ個性というものが存在するのでしょうか。  さらに生理学的に見て、人間の細胞というものは新陳代謝という形で、ほぼ7年で一新されるそうです。つまり、肉体的には7年ごとに別人になっていると言ってもよいのです。にもかかわらず、いずれの時でも自分は自分のままではないでしょうか。  つまりは5歳の時の自分、20歳の時の自分、50歳の時の自分、80歳の時の自分、おそらく外見的には、はたから見れば別人のようでしょうが、一貫して自分というものを堅持しているのではないでしょうか。  つまり、新陳代謝を何度しようが、いくつになろうが自分は自分であり続けているはずです。 では、その変わらぬ自分とは一体何なのでしょうか。実はそれは『心』なのです。もっと具体的には『思い』と言ってもよいでしょう。  つまり、5歳の時の『自分』という思いも、80歳になった時の『自分』という思いも肉体がどんなに変化しようとも、それはまったく同じであるはずです。歳を取ったからといって『心(思い)』というものが、まるで別物に変化したということはないはずです。『心(思い)』は、それこそ生まれてから死ぬまで、ずっと自分を自分たらしめているはずです。  このことに気がついた先覚者が、かのデカルトなのです。『我思う、ゆえに我あり』という有名な言葉がありますが、この言葉はまさにその核心をついています。  つまり、『自分という思いがあるからこそ、自分は存在する』と言っているのです。本当の自分自身とは『心(思い)』そのものであるということで、肉体があるから自分があるということではない、と言っているのです。  早い話が、『自分自身の存在というものは、肉体の有無に関係ない』ということなのです。どうしても我々は身体や頭脳があってこそ、自分が成り立っているという固定観念を持ってしまっていますが、それは現象の一部分のみを観て、それが全体、真の姿であると錯覚しているに過ぎないのです。  例えば、今では地動説(地球も自転と公転をしている惑星の一つにすぎない)は、当たり前になっていますが、今から400年前の人々の宇宙観といえば、誰もが地球は止まっていて、その周りを宇宙が回っているという天動説を信じていました。  確かに目で見る限りにおいては、太陽は東から昇り、西に沈みますし、月や星々も時間とともに夜空を駆け巡っています。また、木々や家々、我々もちゃんと立っていて、この大地が、地球が動いているなんてとても思えない。ですから、当時は天動説を信ぜざるおえないし、そのような固定観念が根付いたとしてもやむおえなかったことでしょう。  では、現在ではどうでしょうか。一体、何人の人間が天動説などを信じているでしょうか。おそらく信じているとしたら、よほどの変わり者でしょう。確かに今でも、見た目には400年前とさして変わりませんが、真実の姿が科学によって明らかになっている以上、誰が地球が止まっているなどと信じるでしょうか。  我々は科学技術のおかげで、今では本末転倒とも言える錯覚的宇宙観を正すことができ、真の地球、宇宙の姿を客観的に見ることができます。このことからも分かりますが、全体を観ずして部分間にのみ捕われて判断することが、いかに真実とはかけ離れた結論をもたらすかが、よく理解できたかと思われます。ただ残念ながら、今の科学では宇宙観ほど生命観について明確に解き明かすことができていないことが現状なのです。  ところで、次にちょっと面白い科学実験を紹介します。  [ある人の脳に電極を差込み、電流を流すと左腕が曲がるという実験なのですが、なぜかその人は必ず右腕でその左腕を押えようとするのです。なぜそのようにするのか、本人に聞くと「左腕は自分で曲げたという意識はまったくなく、突然曲がるので押えた」というものでした]  さて、もし脳が心を生じさせているのなら、脳への電気的刺激は心をも刺激し、無理やりとはいえ自分の意思で左腕を曲げた感覚になるはずです。ところが、そうではないと言う。つまり、右腕は自分の意思で動かしたが、左腕は自分の意思では動かしていない。  結局、電極は脳を刺激して働かせても、心までも働かすことができなかったということです。このことは『脳=心』ではないということを物語っています。 それでは脳と心の関係は一体、どのようなものかと言えば、昔の人は頭脳のことを『心の座』とか『精神の座』と呼んでいましたが、これは実にうまいネーミングで、脳は心や精神が座するところであると。  つまり、頭脳というものは心がドンと座る場所みたいなところであると言っているのです。これはちょうど、飛行機の操縦席と操縦士みたいな関係で、操縦士が操縦席に座って飛行機を操るように、心が頭脳に乗っかって、その肉体を操るようなものなのです。もっと分かりやすく例えれば、機動戦士ガンダムに出てくるモビルスーツとモビルスーツパイロットみたいなものでしょうか。  結局、心そのものは目で捉えることができないため、その表現手段として、肉体というものが必要だったのです。いわば心のための衣服というか、着ぐるみ、容器みたいなものですね。  ところで心というものが目で捕らえることができないとはいえ、我々はちゃんと心の存在というものを認識していますね。それはいつも頭の中にある『思い』という形で。つまり、先ほども言いましたが、『思い』はすなわち『心』であり、『心』はすなわち『思い』であって、それは取りも直さず『心=思い』ということで、これこそが何度も言いますが正真正銘の自分自身なのです。  心という目で捕らえることができないものが、本来の自分自身というと、何か釈然としないかも知れませんが、これはちょうど先ほどの話じゃないですが、400年前の人に向かって『地球は回っている』と言ったときに返ってくる反応と、もしかしたら同じかも知れません。  どうしても肉体があるからこそ、自分があると考えたくなるのは、400年前の人たちが天動説というものを固く信じていたことと根は同じでしょう。  つまり、目で見える範囲のみをもってして、それがすべて、実体であると思い込んでしまう。確かに鏡に映っている姿を見れば、それが自分であると認識したくなるのも無理はありませんが、でも、もうちょっと深く考えてみれば分かりますが、その姿かたちを見て自分だと思う『思い』があるからこそ、自分であると認識しているのではないでしょうか。 例えば、肉体以外の何かを見て、あれも自分だ、これも自分だ、と思ったとしても一向に構わないのです。なぜなら、尽きるところ自分と認めているものは、その『思い』以外の何ものでもないからです。  これはまさにデカルトでなくても『我思う、ゆえに我あり』と結論付けたくなるような分析ではないでしょうか。結局、このことを知らない人は、本来の自分自身をさしおいて、自分以外のものを指して自分だと思っているようなものなのです。  やはり、何事も物事の一面のみをもってして、判断してしまうのは実に愚かなことかと思われます。そして、更に愚かなことには、本当の自分でない自分を自分と錯覚し、それに執着して苦しんでいるのです。それが死に対する苦悩、恐怖でしょう。  元々、本来の自分というものには『死』などというものはないのです。ご存知のように『心』『思い』というものには色もない、形もない、目で見たり、手で捕らえたりすることはできませんが、やはり、厳然と存在することは誰にも否めません。  そして、この色も形もないということが大変重要なのです。姿かたちあるもの、例えば肉体のような物質であれば、いずれは朽ち果てなければなりませんが、姿かたちがない以上、朽ち果てることもないのです。  我々はどうしても、いずれどんなものにも無に帰するという固定観念に取りつかれているのですが、これも物事の一面しか見ていないために起こる誤認識なのです。  元々この宇宙には変化して無くなるものと、不変で永久に存続するものとの二つがあるのです。ただ前者は肉体のように色も形もあり、目で捕らえられるが、後者は心、思いのように色、姿形もないため目で捕らえることができないだけなのです。  いわば大きく分けて、物質世界と精神世界という二つの面があるのです。そして、この二つの世界は、まぎれもなく存在しているのです。ただ、見えるか、見えないかの違いだけなのです。  ともかく、我々自身そのものである『心』は、色も形も姿もない。でも、明らかに存在している。そこで分かり易い例えとして『透明人間』というものをタイトルに掲げたのです。  これは元々、H.G.ウェルズの小説ですが、この中の主人公は、自分自身を見えるようにするために透明の自分に包帯をぐるぐると巻いていましたが、これなどは前述で肉体は心の衣服と例えましたが、言わんとしていることは同じかも知れません。  ともかく永久不変、不滅の『心』こそが真の自分であり、鏡に映る肉体は自分を表現するための持ち物でしかないということをわきまえて、自分は永遠の存在であると自覚すべきです。 そして、これからは何事も永遠のスパンで推し量り、それこそ無限の余裕を持って悠々と生きていけばよいのです。    

  • HANANOKEIJ
  • ベストアンサー率32% (578/1805)
回答No.10

祖母が百歳でなくなりました。なくなる前に、百歳のお祝いをしました。子ども、孫、ひ孫、玄孫まで、配偶者と一緒に集まりました。全国から、百人以上の人が集まりました。いろんな人生をおくっていますが、元気な顔をみて、ばあちゃんもしあわせそうでした。入院中の祖母をお見舞いしたときに、娘と写真をとりました。その写真が、一番よい笑顔の写真だったので、親戚に焼き増しして、配りました。祖母の座右の銘が「なせばなる、なさねばならぬなにごとも、なさぬはひとのなさぬなりけり」でした。米沢藩主、上杉鷹山公の教えだと、最近知りました。 死と死後を考えることは、大切なことです。若い頃は、人生が永遠に続くような気がします。社会人として、働いて、結婚して家庭を築いて、子どもが生まれて、育っていきます。子育てが終わって、40代50代になると、仕事が定年に近づき、老後の心配が始まります。両親の介護もあるでしょう。 現在の生活が、充実していれば、死を恐れることはありません。死と死後のことが不安になったり、怖いのは、現在の生活の不安定、満たされないことの裏側だと思います。 疎外とか自己疎外という考え方でしょうか。家族や親しい仲間と充実した人生を生きていると、恐怖は、注射の針をさすほどの痛さになるでしょう。(蚊にさされるほどの痛み) NHK大河ドラマを見ていますか?竜馬、上杉謙信、直江兼続、篤姫、いろんな主人公が人生を生きて死んでいきますが、死に顔が美しい。人々が死を悼んで、のちのち語り継ぐのです。竜馬は、家族の愛情につつまれて成長します。いろんな人に出会って、育てられます。 本を読んでください。よりよく生きることをこころがけてください。健康であかるい家庭を築いてください。「至誠にして動かざるは、未だこれあらざるなり」孟子。

  • eknif
  • ベストアンサー率75% (3/4)
回答No.9

死ぬのは自分ですが自分という分節がどれだけ確実なのか分からないので、死ぬということもよく分からないのだと、私は考えています。たとえば自分をその脳の活動と同一視することがどれだけ正しいのでしょうか?むしろ世界がこの体をとおして世界を認識していると考えても別に不都合はないように思います。あるいはそう考えずにも、自分というのはもっと分散したあり方をしていると見なすこともできるはずです。たとえば人と交際すると自分がほんの少しだけ相手に移った気がすることがありますし、逆もあります。いずれにせよ世界についての自分の理解の不完全さが、私にとっては救いになっています。

参考URL:
http://www.amazon.co.jp/%E5%93%B2%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E6%AD%BB%E3%81%AB%E6%96%B9-%E3%82%B5%E3%8
  • o-sai
  • ベストアンサー率19% (199/1001)
回答No.8

「天国は無く、脳が停止して終了」 が、なぜ怖くて絶望的なのかわかりません。 怖がるのも絶望するのも生きてるからであって、 死んでしまえば何も感じないはずです。 残された人々の記憶に生きる、 といっても、その人々もすぐに死にます。 生命は、遺伝情報を後世に伝える為の器にすぎません。 器は次から次へと情報を変化させながら伝えていきます。 地球も太陽系の終焉と共に消滅するので、 その間に他の惑星か宇宙コロニーに器は移動するでしょう。 死ねば器はゴミになります。 せめて生きてる間だけはゴミにならないよう、 器なりに励むしかないですよ。 自分に与えられた時間を自分なりに満足できるように過ごせばいいんです。 他人からみての評価など無意味、 どう生きたいか、自分で理想を考えて過ごしましょう。

回答No.7

死を怖く感じるのは、本当は自分の中の「永遠の命」に気が付いていないからです。言い方を替えたなら貴方に憧れを抱かせていると言う方が判り易いかも知れません。貴方には二つの心が対立と矛盾を起こしているはずです。永遠を望んでい居る自分と、有限の世界を眺めている自分の事です。 人間には二つの人格が存在しています。一つは左脳に存在している自我意識です。もう一つは右脳に存在している人格の事です。この人格は無意識界と潜在意識界を受け持っています。そうして身体的なことも全て取り仕切っています。自我意識とは毎日限り無いほど、接触を繰る返しています。ですが自我意識には分かり難いように出来ています。 もし二つの意識が出会ったことを自我意識が知る時は、それが「悟り」と言う事になります。その時に「生死の問題が解決した」と言う言い方になります。その解決方法が「禅問答」を解くところにあります。禅問答は自我意識と「無意識の意識」(仏性)が出会うためのテキストとしておしゃか様の時代から続いている方法の一つです。 もし死ぬ気になって取り組むならば、自我意識が一回死んで「大死一番」そうして生死の問題を解決できます。禅にはそのような、功徳があります。辛い気持ちになるのはもう一つの意識からのアプローチです。その辛い気持ちを受け入れた時がその時です。死を受け入れた時に、死の恐怖は消えると言う事になります。貴方は死を受け入れられなくて辛い気持ちになっています。もう一つの意識は「永遠の命を持っていながらも」全てを肯定しています。 いわば識られざる神と言う言い方が適当かもしれません。全てを受け入れた時に貴方は救われたと言う事を知るはずです。貴方が、受け入れられない事が貴方の苦しみとなっています。受け入れた時は大安心の時です。辛い気持ちを受け入れた時の事です。それを極楽と言います。生きていながら極楽にすむ事ができるという事になります。 或いは天国に入ると言う言い方でも良いかも知れません。「神と和解できた」と言う事になるからです。天国とは心の矛盾が解消した事を意味しているからです。自我意識にはもう恐れるものがなくなったと言う意味があるからです。 心の矛盾とは「孤独」を恐れると言う事になります。それはとりもなおさず自我意識が、自分のもう一人の意識に怯えている現象ともいえるからです。

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