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背理法と対偶証明の違いについて

B-jugglerの回答

  • B-juggler
  • ベストアンサー率30% (488/1596)
回答No.18

困りましたね。 背理法の考え方が違うのか。 なら私も撤退ですね。 ~~~ 背理法の適当な例として「素数が無限にある」というのがよく出ます。  A=素数の集合、B=無限(当然素数の)集合とし、A⇒Bを証明するのです。 ¬B=有限集合と仮定(Bの否定)すれば、最大の素数があることになりそれをNmとします。1×2×3×・・・Nm-1×Nm +1(Ni∈A)=Nとすれば、Nはどの素数でも割れないので素数であり、Nm<Nであることになり、有限(Nmまで)としたことに矛盾するというのです。これは何に矛盾するのかという点で、いささか疑問ですが。しかしBが有限と仮定したときには、当然Aの素数の数も有限と仮定したことになり、そこにNmがあるというので、それへの矛盾なのでしょう。つまり¬B⇒¬Aです。(論争相手はこれを認めませんが)  ところが私の気づきですが、1×2×3×・・・Nm-1×Nm ×N=MとすればNとMの間にはかなりの数が存在します。  そこには素数も含まれ、具体的に構成すれば分かりますが、Mを割れる数が出てきます。と言う事で、どこまでもこの理屈で、素数を無限に見つけられるかが疑わしいのです。これは多分何処にも出ていないでしょう。 ~~~ これはそのまま引用してきました。 >有限(Nmまで)としたことに矛盾するというのです。これは何に矛盾するのかという点で、いささか疑問ですが。 この疑問をもたれる時点で、私の感覚と違います。 単純に、何に矛盾しているか。¬(A⇒B)に矛盾している。これだけです。 素数が無限だと言うことを証明したいのですから、 ¬(A⇒B)≡(A∧¬B) (a)ですよね。 最大の素数N に対して、Nmがでてきてしまうわけですから。 (a)に反していることに他なりません。 この議論なんですか? これは申し訳ない、レベルが違いすぎる。 工学をやられてきたのでしょう?量子力学でしょう? これはにわかに信じられないですがね。 ここが分かられてないというのは、いくらなんでもまずいですよ。  #私も単位これだと出せませんね しかも素数の無限性ですから・・。もろに私の領域ですよ。 この調子だと、私の例も理解されて無いですね。。。 はっきりしました。 「背理法」理解されていないのはそちらですよ。  #ついでに、代数学も。それにまつわる、代数学的論理も。 >しかしBが有限と仮定したときには、当然Aの素数の数も有限と仮定したことになり、そこにNmがあるというので、それへの矛盾なのでしょう。つまり¬B⇒¬Aです。(論争相手はこれを認めませんが) これが違いますから。 何に対して矛盾をしているか?そこの捕らえ方が間違っています。 これは確かに他のところでもそのようですね。 確かに議論にならない。聞こうとされない相手に聞かせる事はできないので。 ついでに >1×2×3×・・・Nm-1×Nm ×N=M ですか。 これは今の証明に関係ありませんね。 全く別の問題です。なんらのつながりもありません。 何が証明したかったのか? それすらお分かりになってないじゃないですか! 論理学に疎い私から見ても、これはどうしようもないですね。 ついでなんで、MとNの間はかなり広い? そうですか。 そこに素数があるかどうか、検証してみないと分かりませんね。 どういう素数が考えられますか? 検証で出してみてください。 申し訳ない、こんなのは一目です。  #私の例題に答えないのが、わざとなら、私もこれ答えません。  #自力でどうぞ! まぁちゃんとこれは出していきます。 ((ψ→¬φ)∧(ψ→φ))→¬ψ (1) この式知りませんでした。ただ今は、これを持って背理法だと言えます。 Ψが一つの命題。φはその帰結です。 (1)式 十分条件部は Ψについて、ある矛盾した帰結(φ・¬φです)が同時に得られたことを、示しています。 必要条件は、命題Ψの否定。Ψは命題として成立していない。 この式は、こうした!式ではありませんか? こういう風に置いたものではないかと推測しています。 そうであれば「正しい式」と見えます。 これがなぜか? 私前回かいてます。記載済みとありますが、ありませんよ。 それにも触れないのですね。 「机上の空論」はいりません。 実地の計算に、異常なまでに弱いようです。 だから根拠のない事を言われるのか。  #完全数が{2の(素数p-1)乗}×{2の(素数p)乗 -1}  #であらわされることを証明してください。  #さらに、得られた完全数は、1から(2^p)-1までの和で  #あらわされることを示し、背理法を用いてそれを証明してください。 当然出来ますよね。ほとんど答え書いていますからね。 妄信的に信じている のは、私たちではなく、あなたです。 この命題を考えてください。 「ある既定の式について強固に否定をし続け、確実にこちらが正しいと自説を曲げず、その既定の式について証明をしようとしない のであらば その既定の式は理解できない」 この命題は真のはずですがね

skoyan
質問者

お礼

>こまりましたね。 背理法の考え方が違うのか。 なら私も撤退ですね。 ~~~ 背理法の適当な例として「素数が無限にある」というのがよく出ます。 ・・・・・  省略 >>有限(Nmまで)としたことに矛盾するというのです。これは何に矛盾するのかという点で、いささか疑問ですが。 >の疑問をもたれる時点で、私の感覚と違います。 ●背理法とは感覚の問題ではありません。  帰謬法と言う言い方もありますが、お得意の代数の例て言えば、「零元は一つしかない」と言う例にしましょう。これは一般の『体』でも『線形代数』でもいいですが、零元の定義は略しても大丈夫ですね。 「ある元が零元⇒一つしかない」と形式化できます。 ●異なる零元が2個あると仮定して、それを0と0#します。 0+0#=0#=0#+0=0で、その零元0と0#は同一になり証明されます。 乗法が許されるものなら単位元でも同様です。各種テキストで良く出ていますが、背理法で・・・と書いてあり、上記のように簡単な証明です。  これは私見ではなく、共通したテキストの記述です。 >純に、何に矛盾しているか。¬(A⇒B)に矛盾している。これだけです。 素数が無限だと言うことを証明したいのですから、 ¬(A⇒B)≡(A∧¬B) (a)ですよね。 ●このことに異論はないですよ。「¬(A⇒B)に矛盾している」従って A⇒Bが成立しているのです。しかし、この矛盾の相手がAを有限と仮定したことか、つまり¬B⇒¬Aでなのかは、『素数は無限集合である』とした文ではAをどう定義するかで、微妙だろうと言うたけです。  ちょっと微妙な例を以後に出しすぎましたかね。無限が含まれるとかなりややこしい事が絡みますよ。

skoyan
質問者

補足

省略 これは申し訳ない、レベルが違いすぎる。 工学をやられてきたのでしょう?量子力学でしょう? これはにわかに信じられないですがね。 ここが分かられてないというのは、いくらなんでもまずいですよ。   省略  すぐ感情的になのは、日本人のディベート下手の謂われです。 記号の計算も怪しいので、単位やれないと言ったのがお気に障りましたかね。もっと自信を持たなければ議論などはできませんよ。 省略 >>しかしBが有限と仮定したときには、当然Aの素数の数も有限と仮定したことになり、そこにNmがあるというので、それへの矛盾なのでしょう。つまり¬B⇒¬Aです。(論争相手はこれを認めませんが) >れが違いますから。 ついでに >1×2×3×・・・Nm-1×Nm ×N=M ですか。 これは今の証明に関係ありませんね。 ・・・・・・ ついでなんで、MとNの間はかなり広い? そうですか。 ●1,2,3,5,7,・・・この位から例の式で計算して素数を作れば、私の言う事が分かります。このスレッドはスペース限られてるので、ご自分でどうぞ。多分知らないことでしょうね。  数論に興味があるようなので、ついでに出しただけですが失敗です。 答えを求めてはいませんよ。   省略 >ぁちゃんとこれは出していきます。 ((ψ→¬φ)∧(ψ→φ))→¬ψ (1) >の式知りませんでした。ただ今は、これを持って背理法だと言えます。 Ψが一つの命題。φはその帰結です。 (1)式 十分条件部は Ψについて、ある矛盾した帰結(φ・¬φです)が同時に得られたことを、示しています。 必要条件は、命題Ψの否定。Ψは命題として成立していない。 この式は、こうした!式ではありませんか? 省略 妄信的に信じている のは、私たちではなく、あなたです。 この命題は真のはずですがね ●今ごろテーマを取り違えるとはね。この式が背理法だとして、自信のある理論を求めているのです。 従って『こうした!式ではありませんか?』『この命題は真のはずですがね』というような、自信の無さそうな主観的な回答は求めていません。  少なくとも式で厳密に表現できるテーマなのです。文学論議ではありませんよ。

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