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背理法と対偶証明の違いについて

 背理法と対偶による証明は同じと私は考えています。しかし、インターネットを含み、世間では違うというのが定説かのようです。  従って、違うとお考えの方に、その理屈と根拠を教えて頂きたいのです。

みんなの回答

回答No.31

背理法は結論を否定して矛盾を導く。 つまり A⇒Bが成立するとき、 A⇒Bが成立しないと仮定して矛盾を導き出します。 ここで、 A⇒Bというのは論理的に書くと、 ¬(A∧(¬B))ということです。 今、仮定したものは ¬(¬(A∧(¬B)))=A∧(¬B) これは矛盾する(間違っている)ので、この否定が正しい よって¬(A∧(¬B))成立する。 これに対して、対偶というものは、 A⇒Bということを示すのに、(¬B)⇒(¬A)を使うのだが、上と同様に論理式で表すと、 (¬B)⇒(¬A)っていうのは¬((¬B)∧(¬(¬A)))=¬((¬B)∧A) つまり、背理法と対偶というものは本質的に同じものです。

  • zenin
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回答No.30

私は対偶証明というのはどんなものかを正確には知りません。 しかし、どこかに p⇒q を証明するのに(¬q)⇒(¬p)を証明すればよいということである、とかいてありましたのでそのように理解し述べます。。 (貴君の対偶による証明がこれと異なるならば、如何いうことなのか(定義)を教えて下さい) さて、例えば、直観主義論理(今後LJと記す)では (¬q)⇒(¬p)から p⇒qは演繹されません (p⇒(¬¬q)は証明されるが。) (p⇒q から(¬q)⇒(¬p)は示されるが) 従って対偶証明は無効です。 一方背理法(Aを仮定したとき矛盾が示されれば¬Aが証明される)はLJでも成り立ちます。 ただし、もしAが¬Bのとき示されるのは¬¬Bです。  それはここまで ついでに 何処かに2×3×5×7+1のように2から引き続いた素数を掛け合わせたものに1を加えたものは 素数とありましたが、これは正しくない。(2×3×5×・・・・・×13)+1=30031=59×509です 掛け合わせた素数では整除されないと改めるべきです。

  • zenin
  • ベストアンサー率0% (0/1)
回答No.29

御免なさい、この質問に対する回答も補足も(多すぎたり、脱線したりで)読んでおりませんので、重複するものがあるかも分かりませんが。 何を意図なさっているのかがよくわかりません。そもそも言葉自体はあいまいなもので、あいまいなままでいることがいいこともありますし、数学用語の様にキチンと定義しなければならない用語もあります。背理法(これはあまり妥当な言葉で無く帰謬法の方がいいとは思いますが)対偶証明(数理論理学を永年しておりましたが初めて聞く言葉です)の異同に付いて論じキチンと定義することを目的になさっていられるのですか?定義出来てしまえば(定義できているのなら)異同は明らかですね。今のところどちらも言葉であり、総ての言葉を定義することは望ましくはありますが、その定義も言葉でするので、不可能なことです。(辞書で左と北を牽いて御覧なさい、面白いですよ)   また、数学用語として用いられ貴君も使用なさっている対偶だけについても、定義はハッキリしていないようで、高校の教科書などではP⇒Qと(¬Q)⇒(¬P)とは互いに対偶となっています。しかし、それならば(¬Q)⇒(¬P)の対偶は(¬(¬P))⇒(¬(¬Q))と矛盾(この矛盾は数学用語でない)するのでないかと私は思っています。cf QNo.6936515 背理法、対偶証明の定義をはっきりしょうという提案なら分からないことはありませんが、そのままでほっておく、各人好きなように使い感じさえ分かればいいと云うランクの話ではないかと思います。法律だって曖昧なところがとりえと云うものが多くありますし。

回答No.28

別物. 背理法は事象についての証明作法で,対偶は命題についての証明作法. 論理と集合論は等価であるから集合論的に表現するならば, 対偶は二つの集合の補集合間の包含関係から元の集合の包含関係を示すもの. 背理法は集合の補集合が空集合であることから事象が全体集合であることを示すもの.

回答No.27

こういう質問・回答系のサイトは、教えるべき人たちが教える所ではありません。教えたい人が教えるところです。 教えたい人と教えるべき人との間にズレが生じ、これを是正しないことが、他の教育機関等との違いを生じさせるのです。 また、このサービスをを無料にできる大きな理由の一つであるとも思います。 これを是正する世直し的な役割をしようとするのは結構ですが、多くの質問者からは必ずしも受け入れられない独善的なものです。 個人的には、自分の質問の趣旨を汲めない人々を排除しようとすることはやめていただきたいです。 そして、教えるべき人たちからのみ意見を聞きたいならば、教えるべき人たちが教えている機関に行くのが筋というものでしょう。

skoyan
質問者

お礼

>こういう質問・回答系のサイトは、教えるべき人たちが教える所ではありません。教えたい人が教えるところです。 教えたい人と教えるべき人との間にズレが生じ、これを是正しないことが、他の教育機関等との違いを生じさせるのです。 また、このサービスをを無料にできる大きな理由の一つであるとも思います。 これを是正する世直し的な役割をしようとするのは結構ですが、多くの質問者からは必ずしも受け入れられない独善的なものです。 ●なるほど仰ることも尤もです。 しかし、こちらが聞きたいことについて、全く知識のない方のお相手までする義務もないでしょう。逆に聞きたければ素直に便乗して質問すればいいのです。jagglerさんのように、素直にかつハイレベルの方もいらっしいますからね。 >個人的には、自分の質問の趣旨を汲めない人々を排除しようとすることはやめていただきたいです。 ●そこまで大げさに言うほどの事ですか。今まで大勢の方と議論していますが、あまりにもレベルが低いので、当初の期待とは違い驚いているのが実情です。 >そして、教えるべき人たちからのみ意見を聞きたいならば、教えるべき人たちが教えている機関に行くのが筋というものでしょう。 ●貴方の発言も何の足しにもならない無駄です。そんな暇があれば何かまともな事を書いて欲しいですね。

  • cahors
  • ベストアンサー率52% (10/19)
回答No.26

横槍を入れるようで申し訳ないのですが、 『どこかの国の紛争が日本にも及ぶ可能性がある』の対偶は 『日本に外国の紛争の影響が及ぶ可能性がないのであれば、外国に紛争は存在していない』 ですよね?

skoyan
質問者

お礼

●しばらく振りのご回答なので見逃していました。。  貴方は回答者である前に、もっとお勉強すべきではないでしょうか。 ここでの議論から自らも学びたいというのなら、許されるのかもしれませんが・・・。 現実に国際間の紛争や戦争は、否定するまでもなく多く存在しています。  その上で、その中のどれかが日本にも及ぶかどうか、を命題としてとらえています。  ここでの命題は正確には述語論理の世界です。また可能性まで含んで論じるならば、様相論理学の世界です。そこまでハイレベルには考えていません。  しかし、まず言語は正確に使用すべきで、『対偶の意味』くらいは完全に把握してから投稿してください。貴方は私に教える立場なのです。

  • B-juggler
  • ベストアンサー率30% (488/1596)
回答No.25

まとまってきましたね♪ 素数の定義ですが、 ~~~ ●A={Ns:1≠Ns∈N, 1≠n∈N∧∀Ns[∀n((n<Ns)⇒¬∃n(Ns/n∈N))}とするのが厳密でしょうか。 こうすればNsは1と自分自身意外で割れない数だけの集合になります。 ~~~ このほうがスッキリしていますね。 ~~~~ ●1≠Ns∈N なる自然数Nsが、n<Nsのnの(1を除く)全てについて、Ns/n∈Nが存在しない(自然数にならない、つまり割り切れない)場合に、この集合Aの要素になります。 ・・・という意味での作成です。 ~~~~~ これが素数の定義ですよ^^; 少し言い換えると「1と自分自身以外に約数を持たない数」です。 書いてあるとおりで、無限に存在するよ と言うのは、 ほぼ自明でOKなんですね。  #自然数が無限にないといけませんから、ほぼになります。 自然数が無限も、別の生成で証明できますから、問題ないのですが。 1と、+記号(普通の加算です) 1 1+1 (1+1)+1 ((1+1)+1)+1 ・・・・・・ こんな具合に、常に1ずつ増やしていけます。  #これが自然数の生成になります。 ~~~ (1)¬(A⇒¬B)⇒(A⇒B)≡Tは(2)¬(A⇒¬B)⇒(B⇒A)≡Tも成立し、(A⇒B)と(B⇒A)のいわゆる≡でも⇔でもない、所謂逆命題が同一の前提¬(A⇒¬B)から出てくるという事を示しても、かたくなに信じている人がいます。是非こんなアホ学生を作らないでください。 ~~~ はい、肝に銘じておきます!  #電気工学出身何だけどなぁ~、難しい><  #論理回路って、あんまりやらなかったかなぁ? それで、 ~~~ ●旧友(数論が趣味で、憲法9条の会員)と議論の末に物別れになったのも、憲法論議で『どこかの国の紛争が日本にも及ぶ可能性がある』と言う私の主張に対して、お前の論理は『背理法』で云々から始まり、「では反対するなら、それと同値な、『すべての国際紛争は日本に無関係だ』を証明できるのか・・・」となり、記号論理的な議論にまでなりました。一見現世には無関係に見える論理学も、このように社会問題等の異見に現れるものですから・・・。 ~~~ これはちょっと、手に負えそうにないです>< ¬『どこかの国の紛争が日本にも及ぶ可能性がある』  ⇔『すべての国際紛争は日本に無関係だ』 成立してますねぇ~~。何でしょうねぇ、この違和感。 これは難しいですね。言葉でやっても難しいですね。 どうしましょう?? 国際紛争で日本に関係のあるものを捜す・・・ってことなのかな? 日本に対してどっかが攻撃してきたら? (当然日本には関係あることだし) ん?でもこの紛争は、全てに入るんですよね。あれ? 『すべての国際紛争は日本に無関係だ』 →   『全ての国際紛争は日本に関係のあるものもある』が いえるのかな? え~~、何これ?分からなくなってきました。 論理命題は難しいですね!!

  • B-juggler
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回答No.24

全く違うアプローチになるかもしれません。 今日の今日(日付が変わっているので、昨日ですね^^)、 珍しく、学生君たちと話す機会がもてまして。 めったにないんですよ。私は非常勤ですし、今の時期って学生もいませんし。  #教授ならあるのでしょうが。  #私は流れ者でしかないので・・・。 数学者になるであろう連中と話していた結果を、つらつらと・・。 やはり「論理学」の分野は、数学だけではないですね。 図書館で (例の式)を捜してみたのですが、やはりないです。 哲学のところに、「論理学」ってあったんですよ。 こっちのほうが、はるかに詳しく載っているんですよね。 数学で使う論理って、集合論の包含関係などがほとんどなんですね。 よくよく考えて、話をしてみて、 「命題に対して、背理法を使っていない」 って、気が付きました。 素数の無限性で 命題を作らないですね、そういえば。 「素数は無限にありますよ」って、定義を持ってくる。 これを正しいかどうか判断するのに、 「素数は無限にありませんよ」として、下記の方法で 新たに素数が出来る。 これで持って、定義の否定と違うことがでた! だったら、定義したことが正しいんだ。 のようなやり方ですね。 学生君に指摘されて、自分でもびっくりしました。  #自分では気がつかないもんですね。 素数は無限 というのはいえます。 自然数と同じように、最大数に+1をしていけば新しい自然数は作れますから。 これと同じとしていい事になっています。  #実際には全く同じです。 定理みたいなものとして扱っていいのでしょうね。 単位要素などと同じように。 ~~~ ●(2)式が素数の式なら良いのですが、Mn=37でもM=1407=201×7になります。 ここでの私の疑問の肝は、「どんな大きな数に対しても、それ以下の全ての素数を漏れなく選び出して掛け算できる」と言う事は、仮定するしかない。のてはと言う意味です。 とすれば無限に多くの素数がある事と同じだという意味です。背理法は不要です。 ~~~ この疑問はよく上がるんですよ。 相当に次元の高い疑問が出てきますね。  #理系のTOPクラスの疑問ですよ。 説明するのは難しいのですが。 一個一個、噛み潰すしかないですね。 簡単にいくと、 前にも書いていることですが、 >2×3×5×7×・・・×Nn=Mnの次の素数をこの式で考えると・・・ Mn+1(=M) が素数になり、Nn<Mですよね。 ただ、この間に素数がありますから(ごく小さい二つのケース以外)、 これがNnの次の素数とはいえないですね。 このMっていう素数は、無限を導き出すために作ってきただけの素数なんですよ。 これも裏業みたいな言い方になりますが、 Nnの次の素数を、見つけ出して、それを最大として、 また素数を作ります。(見つかった素数)>Mですね。 またその次を捜すんです。 また素数を作る。 繰り返すことで、Mより大きい素数がどんどん出て来ます。 地味~~な作業ですが、あるときに、次の素数はMだ!って瞬間が来るんですね。 ここで引っかかる可能性があるんです。 Mの式がでていますから、引っかかりやすいのですが、 実は大丈夫で、一つずつ増えていった素数の集合ですから、 >2×3×5×7×・・・×Nn×(Mn +1)+1=Mn×Mm +1=M この式にならないんですね。 おそらく、 2×3×5×7×・・・×Nn×・・・・×M +1 =Pm  #Pmは 最大の素数Mから得られる、素数。 こうなるはずなんですね。 仮定でもありますが、一個一個噛み潰していけるという確証も持てます。 難しくなりすぎますねぇ^^;  #ここはそれだけ高度なんですよ。 ~~~~ ●そもそも素数の定義を含むA={素数Ns}の定義は、自然数の集合をNとして、 A={Ns:n,Ns∈N∧∀n(n<Ns)⇒¬(Ns/n∈N))}とでもするのが厳密でしょうか。 ~~~~ 任意の1以外の自然数に対して、割り切れない(自分自身を除く) n=1のとき右辺がまずいですか。 左辺を (n<Ns+1) 右辺を (Ns/(n+1)) こうしましょうか。 これだと、n=2から割っていって、Ns=n+1にはなりませんね。 本筋に戻しますが、 「論理命題についての背理法」は数学ではあまり扱わない のではないか? っていう風に、話はまとまってしまいました。 記号もちょっと違いますね。 三本線のイコール ≡ これ 恒等的に等しい とします。 同値は ⇔ こっちなんですよね。 論理学の本では、⇔と≡ とが 違っていたりするようです。 例の式 Ψとか、φの式は、おそらく論理学専門なのかなぁ? と思ってみたりしました。

skoyan
質問者

お礼

●前の式は間違っていたようです。下記が正しいでしょうか。ご検討を。 >そもそも素数の定義を含むA={素数Ns}の定義は、自然数の集合をNとして、 ・・・・・ ●A={Ns:1≠Ns∈N, 1≠n∈N∧∀Ns[∀n((n<Ns)⇒¬∃n(Ns/n∈N))}とするのが厳密でしょうか。 こうすればNsは1と自分自身意外で割れない数だけの集合になります。 ●1≠Ns∈N なる自然数Nsが、n<Nsのnの(1を除く)全てについて、Ns/n∈Nが存在しない(自然数にならない、つまり割り切れない)場合に、この集合Aの要素になります。 ・・・という意味での作成です。 **素数の数学的定義か在るのか、どうかは知りませんが・・・。 ●これが正しければ、ことさら背理法などを使わなくてもNs∈Nを次々に選ぶので、無限集合だと出てきそうです。素数のアルゴリズムは知りませんが、2から順次増やして行き元の数以下の自然数で割って、剰余が0になるものを除けば素数は出そうです。・・・とすれば単純な計算で、処理時間はともかく原理的には簡単な計算で次々求められます。 ●背理法の式? との信奉者がいる、((A⇒¬B)∧(A⇒B))⇒¬A 、¬(A⇒¬B)⇒(A⇒B)などは論理回路で実現すると、( )の外側の⇒の部分は論理和回路に対応し、最終出力は( )内の回路からの信号伝達とは無関係になります。つまり物理的にもトートロジーは因果関係がなくなります。と言う事は、トートロジーが論理的な真理を表す筈がない事になります。 この話は、旧友との議論中に思いつきました。計算機回路設計は仕事でした事も有りますので。一般的ではなくなりますが。 ●(¬A⇒¬B)⇒(A⇒B)などは (A⇒B)⇒(¬A⇒¬B)でもあり⇔とも書けますし、真理値表から言えば同値として≡とも書くのは著者にもよります。同値な⇔は回路も⇔の左右同一になります。

skoyan
質問者

補足

前回の最終行ミスです・・・ ××●(¬A⇒¬B)⇒(A⇒B)などは (A⇒B)⇒(¬A⇒¬B)でもあり⇔とも書けますし、真理値表から言えば同値として≡とも書くのは著者にもよります。同値な⇔は回路も⇔の左右同一になります。 ●(¬B⇒¬A)⇒(A⇒B)などは (A⇒B)⇒(¬B⇒¬A)でもあり・・・が正しいのです。 ●≡は真理値表から見た場合に同じに扱える場合に使い、著者によります。これは結局どちらも同じになります。 (1)¬(A⇒¬B)⇒(A⇒B)≡Tは(2)¬(A⇒¬B)⇒(B⇒A)≡Tも成立し、(A⇒B)と(B⇒A)のいわゆる≡でも⇔でもない、所謂逆命題が同一の前提¬(A⇒¬B)から出てくるという事を示しても、かたくなに信じている人がいます。是非こんなアホ学生を作らないでください。 ●旧友(数論が趣味で、憲法9条の会員)と議論の末に物別れになったのも、憲法論議で『どこかの国の紛争が日本にも及ぶ可能性がある』と言う私の主張に対して、お前の論理は『背理法』で云々から始まり、「では反対するなら、それと同値な、『すべての国際紛争は日本に無関係だ』を証明できるのか・・・」となり、記号論理的な議論にまでなりました。一見現世には無関係に見える論理学も、このように社会問題等の異見に現れるものですから・・・。

  • B-juggler
  • ベストアンサー率30% (488/1596)
回答No.23

確認作業に近いと思うのですが、念のために。 例の式は、知らなかったんですよね・・・。  #だからうまく出せなかったんだろうけれど 言われてみれば、そうかなぁ?とも思えるし、 「だから何?」って気もするんですよね。 なので、今ここでは保留にさせてください。 これはまたちょっと後にしましょう すいません先に素数の話を。 命題が変わっているので引用してきますよ。 ~~~~~ 《素数は無限集合の証明》 A={全素数の集合:2,3,5,・・・,Nn・・・}、 maxA=Nnであるとする。(1) B=Aの個数(濃度) n=∞である、と定義する。 証明課題: A⇒Bになる。 背理法の仮定で¬Bつまりn=有限(n<∞)とし、 2×3×5×7×・・・×Nn=Mnと置けばMn +1=Mmは素数でありNn<Mmとなるが、Aの定義maxA=Nnに矛盾する。故に¬B⇒¬A≡A⇒B ~~~~~~ とりあえずここまでのことを。 途中に番号を付加しています。(1)だけです。 重箱の隅をつつくようなことは辞めて、ゆっくり行きますね。  #Nnって、(1)の時はまだ、既定できませんね・・・。  #背理法を取れば既定できますが。 素数の集合が有限だと、背理法を使うと >2×3×5×7×・・・×Nn=Mnと置けばMn +1=Mmは素数 ここまでは問題ありませんよ。次も大丈夫。 > Nn<Mmとなるが ここも大丈夫。 次がちょっと? > Aの定義maxA=Nnに矛盾する。 ここがちょっとまずいんですよ。 Aは素数の集合でしたよね。 有限の素数集合となっています。 ところが、Mmは素数ですね。と、言うことは Mmが「素数でかつ、有限の素数集合 に入っていない」と言うことですよね。 これをもって、 ただの(¬A)としていいものかどうか?  って言う疑問がでてきませんか? 素数だけども、外にある状態でしょう? 素数全体の集合を有限だと仮定をしました。 ここで思い違いをなさってはいけませんよ。ゆっくりね。  ¬B だけを既定しているわけではありませんよね ¬Bを既定すると、自動的に素数全体の集合が有限だと既定できますね。 そこで、改めて、Mmについて考えて見ましょう。 Mmは素数ですから、素数の集合には入るはずです。 ところが、Nn<Mm なので、有限とした素数集合には 入っていませんよね。 ここが相反する帰結(矛盾って言っていいのかな?)になっていますね ゆっくりゆっくり。 素数を有限と取りました。そうしたら、有限の外に、また素数が出てきました。 何かが間違えているんではないか? 素数を有限としたことが間違いかな? こういう結論がでてくるんです。 つまりは、背理法をやってみた式 ¬(A⇒B) ⇔ (A∧¬B)  これに反するだけですよね。 ここから素数が出てきてしまったから。 > 故に¬B⇒¬A≡A⇒B これは強引にかんじられませんか? ¬B⇒¬A と言い切ってしまって、大丈夫でしょうか。 『外側に出たものも、素数ではありますから、 単純に¬Aとは言い切れないんです』 あるいは、『』 の主張ではなくても、 ¬B と取ったときに、Aも変わりますね。 Aは無限から有限に変わりますね。 ならば ¬Aとしてもいいのかもしれません。 とすれば、対偶法で帰結できることは、A⇒Bですから、 上のような説明は必要ありませんね。  どんな命題についても成り立ちますから。 背理法の途中で、対偶を取るのは問題ありませんが、 この場合は、¬Bと取ったときに、Aも何らかの形で変わっていますよね。 その状態で、¬Aと取っていいものかどうか? ここには余地が残るのではないでしょうか。 この主張、これは分かっていただけると思います。 これが今回の肝です。 ひょっとすると、例の式になるのかな?とチラッと思いましたが、 私ももう少し考えて見ます。 ゆっくり行きましょう。 後半部分ですが、これは気持ちよく眠れますよ。 ~~~ 2×3×5×7×・・・×Nn=Mnの次の素数をこの式で考えると・・・ 2×3×5×7×・・・×Nn×(Mn +1)+1=Mn×Mm +1=Mとなるが、2×3×5×7×・・・と具体的数から分かる通り、MmとMの間には多くの数が在りMn×Mm +1が素数かどうかは不明である。Mnはn→∞(nがいくら大きくなって)でもMが素数であると前提すれば循環論法になり、前提しなければ、全ての素数を取り出して掛け算が可能かどうかは不明になる。ここにこの証明方法の疑問点がある。 具体例として、Mn=2×3×5=30とする。Mm=Mn +1=30+1=31は素数である。 前記式で次の素数を考えると、M=Mn×Mm+1=30×31+1=931となる。この前の素数31が出たときには7,11,13,17,19,23,29が飛び越されている。ところが、この931÷7=133で飛び越した素数7で割りきれるので、素数ではないのである。 ~~~~ > 2×3×5×7×・・・×Nn=Mnの次の素数をこの式で考えると・・・  この式から、次の素数を求めるわけではありませんから、 何の問題も無く、申し訳ないですが、この式から考える必要はありません。  むしろ、この式から考えてしまうと、M=Mn×Mm+1 これが素数に なるとは限りません。  #ちょっとここぼかします。なる場合もあるかもしれない。 おっしゃるとおりですね。 M=Mn×(Mn+1)+1 =Mn^2+Mn+1 (2)  #この計算式であっていますか? 確認してください。 この式は素数を作り出す式ではないです・・・。 ぼかしておいて良かった、例外がありますね。 Mn=2,6 このとき、M=7,43 で、素数ですね。 後まだ他にもあるかもしれない。 次の素数を探すのは、単純にふるいにかける作業になります。 メルセンヌ数は有名ですが、その間は全部コンピュータでチェックしているそうです。 これは確か、私一目で分かるといったところではないでしょうか?  #ついでなので書いておきましょう。 「この作業では素数が得られない」(これは例外がありました) 「間に素数が出てくるのであれば、それがどう言った素数で、  個数がいくつ、など 全く分からない」  この二つが一目で分かります。 (2)式が頭に浮かぶと、反則なんですが、見えます。 これを本気で検証しようとすると、スーパーコンピュータで何日もかかって、素数を列挙していかないと、おそらく人間で無理な作業です。 素数の無限性の証明は何だかんだ言って、やはり難しいな~。 ここはほんとに学生さんもつまずくんですよね^^;

skoyan
質問者

お礼

確認作業に近いと思うのですが、念のために。 例の式は、知らなかったんですよね・・・。 ・・・・・・・・・・  なので、今ここでは保留にさせてください。 ●これはどの式の事ですか? ・・・・・先に素数の話を。 ●数論の専門と言う方に、数論に興味のない私があまり議論しても意味ないでしょう。 命題が変わってばいるので引用してきますよ。 ~~~~~ 《素数は無限集合の証明》 A={全素数の集合:2,3,5,・・・,Nn・・・}、 maxA=Nnであるとする。(1) B=Aの個数(濃度) n=∞である、と定義する。 証明課題: A⇒Bになる。 ●¬(A⇒B)≡(A∧¬B)から達する矛盾と言うのが、例の初等幾何の場合は『・・・錯角が等しいなら・・平行である・・』はこに出ていない、直線の公理に反すると、A∧・・KiのKiに矛盾したようにA∧・・KiのKiが不明確なので、前件部分の明確化をしたいと思ったのです。 ・・・・・ ここも大丈夫。 次がちょっと? > Aの定義maxA=Nnに矛盾する。 これをもって、 ただの(¬A)としていいものかどうか?  って言う疑問がでてきませんか? 素数だけども、外にある状態でしょう? ●Aが個数有限となればmaxA=Nnが存在する事になり、Nn<Mmが出てきては maxA=NがAの中に存在しなくなるから、という意味で¬Aとなる。 ・・・と言えるような定式化にまだ不完全かもしれません。 ●そもそも素数の定義を含むA={素数Ns}の定義は、自然数の集合をNとして、 A={Ns:n,Ns∈N∧∀n((n<Ns)⇒¬(Ns/n∈N))}とでもするのが厳密でしょうか。 こうすればNsは1と自分自身意外で割れない数だけの集合になります。要ご検討。 これが有限集合かどうかです。述語論理まで入ると複雑すぎますね。 ・・・・・・・ つまりは、背理法をやってみた式 ¬(A⇒B) ⇔ (A∧¬B)  これに反するだけですよね。 ここから素数が出てきてしまったから。 > 故に¬B⇒¬A≡A⇒B これは強引にかんじられませんか?

skoyan
質問者

補足

表示では逆になりますが・・・続きです  ●上の様に厳密に素数を定義して、¬Bなら当然Aも有限集合で、そこには最大値があるので、それに反して¬Aでしょう。 ¬B⇒¬A と言い切ってしまって、大丈夫でしょうか。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ Aは無限から有限に変わりますね。 ならば ¬Aとしてもいいのかもしれません。 ・・・・・・・・・ これが今回の肝です。 ひょっとすると、例の式になるのかな?とチラッと思いましたが、 私ももう少し考えて見ます。 ゆっくり行きましょう。 後半部分ですが、これは気持ちよく眠れますよ。 ・・・・・・・・ > 2×3×5×7×・・・×Nn=Mnの次の素数をこの式で考えると・・・  この式から、次の素数を求めるわけではありませんから、 ・・・・・・・・・・・・・・  #ちょっとここぼかします。なる場合もあるかもしれない。 おっしゃるとおりですね。 M=Mn×(Mn+1)+1 =Mn^2+Mn+1 (2)  #この計算式であっていますか? 確認してください。 この式は素数を作り出す式ではないです・・・。 ・・・・・・・・ 後まだ他にもあるかもしれない。 ●(2)式が素数の式なら良いのですが、Mn=37でもM=1407=201×7になります。 ここでの私の疑問の肝は、「どんな大きな数に対しても、それ以下の全ての素数を漏れなく選び出して掛け算できる」と言う事は、仮定するしかない。のてはと言う意味です。 とすれば無限に多くの素数がある事と同じだという意味です。背理法は不要です。 次の素数を探すのは、単純にふるいにかける作業になります。 (2) )メルセンヌ数は有名ですが、その間は全部コンピュータでチェックしているそうです。 これは確か、私一目で分かるといったところではないでしょうか?  #ついでなので書いておきましょう。 「この作業では素数が得られない」(これは例外がありました) 「間に素数が出てくるのであれば、それがどう言った素数で、  個数がいくつ、など 全く分からない」  この二つが一目で分かります。 (2)式が頭に浮かぶと、反則なんですが、見えます。 これを本気で検証しようとすると、スーパーコンピュータで何日もかかって、素数を列挙していかないと、おそらく人間で無理な作業です。 素数の無限性の証明は何だかんだ言って、やはり難しいな~。 ここはほんとに学生さんもつまずくんですよね^^;

  • B-juggler
  • ベストアンサー率30% (488/1596)
回答No.22

ちょっと私も勘違いしていますので、 ちゃんと払拭しておきますね。 素数の話ですが、実は「1」が素数ではないんですよ。 ごめんなさい、これに気が付けばよかった。 素数の定義で「1と自分自身」以外に約数を持たないもの、ですから 「1」自身は、通常入れません。  #これはどうでもいいことです。  #気が付かなかった私が悪いので。すいません。 素数の積ですが、 仮に有限の集合として(¬Bですかね)、最大値をNmと置いていますから ~~~ 故に、どの大きい数の場合でも、素数の全てを取り出して掛けられるという前提、つまり無限に素数があるという、証明すべき事が前提に入るのではないかという疑問です。 ~~~ ここは問題ありませんよ♪ (2~Nmまでの全ての素数積)+1ですから (=N) 上の括弧の中は 有限とした素数集合内の全部 になりますので この証明はそのまま問題はありませんよ♪ 気が付いてもらえてすごくうれしいです。 私は、分かってもらうのが仕事ですから、半分邪魔したようなものですから、申し訳なく思っています。

skoyan
質問者

お礼

 一見誰もが疑問を抱かないような、自明な証明のようですが、下記の通り私には疑問があります。 《素数は無限集合の証明》 A={全素数の集合:2,3,5,・・・,Nn・・・}、 maxA=Nnであるとする。 B=Aの個数(濃度) n=∞である、と定義する。 証明課題: A⇒Bになる。 背理法の仮定で¬Bつまりn=有限(n<∞)とし、 2×3×5×7×・・・×Nn=Mnと置けばMn +1=Mmは素数でありNn<Mmとなるが、Aの定義maxA=Nnに矛盾する。故に¬B⇒¬A≡A⇒B 2×3×5×7×・・・×Nn=Mnの次の素数をこの式で考えると・・・ 2×3×5×7×・・・×Nn×(Mn +1)+1=Mn×Mm +1=Mとなるが、2×3×5×7×・・・と具体的数から分かる通り、MmとMの間には多くの数が在りMn×Mm +1が素数かどうかは不明である。Mnはn→∞(nがいくら大きくなって)でもMが素数であると前提すれば循環論法になり、前提しなければ、全ての素数を取り出して掛け算が可能かどうかは不明になる。ここにこの証明方法の疑問点がある。 具体例として、Mn=2×3×5=30とする。Mm=Mn +1=30+1=31は素数である。 前記式で次の素数を考えると、M=Mn×Mm+1=30×31+1=931となる。この前の素数31が出たときには7,11,13,17,19,23,29が飛び越されている。ところが、この931÷7=133で飛び越した素数7で割りきれるので、素数ではないのである。  無限が出てくると、直感を超えた問題が潜んでいそうですが、これも新規のパラドクスのようでもあります。(笑)  例の式をまだ信じてる、背理法の方が居るようですが、その理屈を信じてい方の理論の正当性は、まだ私には聞かされていません。

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