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背理法と対偶証明の違いについて

B-jugglerの回答

  • B-juggler
  • ベストアンサー率30% (488/1596)
回答No.16

前半は数学(私は代数系ですが、ここまでの論理が必要なら単位もらえてないでしょうね)の話です。 哲学と、論理学が違うことをちゃんとお話しないといけないですね。 哲学的論理と、数学的論理では若干違いがでてくるのでは。 この主張は、例題のところで示したかったのですが。  #解いてもらえなかったので。しょうがないので。 もちろん、数学的な論理学(代数系の範囲の)はありますが、数学で大切なことは、正しい解を導き出すことですよね。  #もちろん論理的整合性は取る必要はありますが。 単純に A⇒B の命題が正しいとする根拠を、背理法で求める。 このときに、¬(A⇒B)を取って、ここから得られる帰結が、 「矛盾」をはらめば、そこで終わってしまいますよね。 やっぱりやりますか。例を挙げて。私が挙げた例で行きましょう。 線形代数をやられていたのなら、解いてみて頂きたかったのですが。 私の言っていることは分かってもらえると思いますので。 P⇒Q としておきます。 素数の話ですよ。割愛しますね、前に書いていますから。 この命題は真です。1~30までで、Pに該当する素数は4つ 「5,13,17,29」これだけです。 で、それぞれ 5=1+4 13=4+9 17=1+16 29=4+25 全ての右辺は互いに素な二つの数の2乗和ですね。 さて、背理法を取ってみましょう。 ¬(P⇒Q)≡(P∧¬Q) この時点で、もう矛盾が出てきますね。 「5,13,17,29」かつ互いに素な二つの数の2乗和でない。 5=1+4、13=4+9、17=1+16、29=4+25 が矛盾になりますね。 これは(P⇒Q)からも直接言えますね。 否定を取って、矛盾が出たので、否定が間違い。 実際に計算すると(証明すると)、⇒φ と置く必要も無く解けてしまう。 数学の問題を解く人間は、ここから先はどうすれば?って言うので困るんです。実際は否定を取って、矛盾を引き出しておしまいですから。 哲学的論理のほうでは、先を考えるのですよね。 そこで、いろいろと考えているんですよ。 で、(7)式は突然ではなく、(5)(6)と出してみていますから。 強引過ぎるとは思いますが。 一番最初の前提式、((ψ→¬φ)∧(ψ→φ))→¬ψ この式をどうにかして出したいだけですよ。  #この式にこだわるつもりもありませんが、他にあったら教えてくだ さい。 左側は「ある命題について矛盾がありますよ」と言うことですよね 右は「ならばその命題は成立しませんよ」と言う主張でしょう? ここら辺は数学の実地計算とは変わってきますので。 論理学の世界ですよ。第一、この式自体を知りませんでしたよ、私は。 包含関係や、ド・モルガン、集合論のような数的論理では苦しい気がしています。 (だから困っているんです) 協力して出していきましょうよ。せっかく議論しているんですから。 [(A∧¬B)⇒¬A]≡A⇒B この式(厳密に言うと私の作った式ではないですよ^^)の 左側帰結のところを、¬A とするのが怪しい!  #論理学上まずいと言うことでしょうか。  #前述どおり、実地の数学ではそこまで行かないので。 と、感じましたので φ としてみたんです。 (5)(6)(7)式の検証をお願いします。 それで引用した部分ですが 『 集合と論理 』 ( p.3-4 ) ​http://pelab.nagaokaut.ac.jp/kondolab/convenience/pdffiles/syugou-r...​ ここです。 権威者が書いているかもしれませんが、正しいかどうかの判断は読んでみてからにしていただけませんか? 典型的な集合論と、その論理形態です。数学的論理の私たちは、反論する余地がありません。 ちなみに、((ψ→¬φ)∧(ψ→φ))→¬ψ この式は出てきません。  #書いてある内容を式にすればこうなるのではないか?と言うレベルです も一つ  >●(1)((A⇒¬B)∧(A⇒B))⇒¬Aが背理法の原理式かと言うのがテーマ。 これはどこからですか? こんなこと書いた覚えは無いですが。 Ψ=A φ=B と置き換えてありますか?Caperさんのかな? これ置き換えるとすると、Aは命題でなくてはならないと思いますが。

skoyan
質問者

お礼

前半は数学(私は代数系ですが、ここまでの論理が必要なら単位もらえてないでしょうね)の話です。 ●貴方が現役の学生で私が教官なら単位あげません。理数系以外に転部を勧めますし、教師なら退職を勧めます。 何れも適性がなさそうです。(笑い)  単なる趣味ならご勝手に・・・。 哲学と、論理学が違うことをちゃんとお話しないといけないですね。 哲学的論理と、数学的論理では若干違いがでてくるのでは。 ・・・・。゛ ●当然多少違いますが、扱うテーマと取り上げる角度が違うだけで、対象になる【論理】での違いはありませんよ。  (A∨B)と日常言語での(AまたはB)は違います。後者は何れか片方だけが「真」の意味がありますが、前者は両方とも「真」でも片方だけが「真」でもよいのです。しかし数学では、(A∨B)の意味での「真」で、2値の論理学の範囲です。  哲学的というのがどの時代の哲学か知りませんが、断らない限りその【論理】に違いはありません。「哲学」と言うとき何を読み、何を想定していますか。 省略 ・・・数学で大切なことは、正しい解を導き出すことですよね。 ●当然ですが、あくまで正しい解は、論理的に出すのです。 ・・・・・・・ 単純に A⇒B の命題が正しいとする根拠を、背理法で求める。 このときに、¬(A⇒B)を取って、ここから得られる帰結が、 「矛盾」をはらめば、そこで終わってしまいますよね。 やっぱりやりますか。例を挙げて。私が挙げた例で行きましょう。 ・・・・・・ P⇒Q としておきます。 素数の話ですよ。割愛しますね、前に書いていますから。 この命題は真です。1~30までで、Pに該当する素数は4つ 「5,13,17,29」これだけです。 で、それぞれ 5=1+4 13=4+9 17=1+16 29=4+25 全ての右辺は互いに素な二つの数の2乗和ですね。 ・・・・・・・ 「5,13,17,29」かつ互いに素な二つの数の2乗和でない。 ・・・・・ ●この後半部分が言えても、背理法でも何でもありませんし、何かが証明されてもいません。  まず背理法自体が理解されていない、としか思えませんね。 この例題を背理法で証明するのは、どうするのだろうと放置していましたが、背理法の適当な例題ではないのでしょう。ここでのものは証明とはいいませんね。

skoyan
質問者

補足

続き・・・  背理法の適当な例として「素数が無限にある」というのがよく出ます。  A=素数の集合、B=無限(当然素数の)集合とし、A⇒Bを証明するのです。 ¬B=有限集合と仮定(Bの否定)すれば、最大の素数があることになりそれをNmとします。1×2×3×・・・Nm-1×Nm +1(Ni∈A)=Nとすれば、Nはどの素数でも割れないので素数であり、Nm<Nであることになり、有限(Nmまで)としたことに矛盾するというのです。これは何に矛盾するのかという点で、いささか疑問ですが。しかしBが有限と仮定したときには、当然Aの素数の数も有限と仮定したことになり、そこにNmがあるというので、それへの矛盾なのでしょう。つまり¬B⇒¬Aです。(論争相手はこれを認めませんが)  ところが私の気づきですが、1×2×3×・・・Nm-1×Nm ×N=Mとすれば NとMの間にはかなりの数が存在します。  そこには素数も含まれ、具体的に構成すれば分かりますが、Mを割れる数が出てきます。と言う事で、どこまでもこの理屈で、素数を無限に見つけられるかが疑わしいのです。これは多分何処にも出ていないでしょう。 『2直線とその交点以外で交わる1直線とでなす、一対の錯角が相等しいならば其の2直線は平行である』等と言うのが適当な例です。これを並行でないと仮定して背理法で証明します。この場合直線の公理に矛盾が出ます。この場合はA⇒B≡¬B⇒¬Aからではなく、A∧K1∧K2・・・∧Kn⇒BのKiの一つの直線の公理への矛盾から、 ¬B⇒(¬A∨¬K1∨¬K2・・・∨¬Kn)≡¬B⇒¬(A∧K1∧K2・・・∧Kn) として背理法で、形式は対偶として証明されます。これが私が背理法とは対偶で行うものだという説です。 

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