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   。死の意味っ

gokurakuyamaの回答

回答No.1

ayamatiさん、こんばんは。 一禅僧です。 >死の意味っ >生の答えは、現に生きているという答えがあるからそれでいい。 >ならば、死の答えは何か? >何であると思いますか? この疑問というものはあなたが書いておられる通り「『生』というものがあるからこそ『死』がある」と思いがちですが、『生』の反対が『死』であると考えてしまうからこういう勘違いがおこるのだと思います。 仏教的というかインド的な考え方に『輪廻転生』があります。 ご存知の通り「生きとし生けるものは必ず死あり、そして何度も生まれては亡くなりを繰り返す」という教えです。 その考え方の根本には『生も死もつきつめれば同じ事、今生きているからといっても【生】というものが存在する訳では無く、又、死んだからといって【死】というものが存在するわけでは無い』という教えが柱となっています。 わかり易く申し上げましょう。 「私たちは毎日気づかなくとも【生】と【死】というものを繰り返しているんです」 こう申し上げればびっくりされるでしょうね。 そんなバカな!!とおっしゃるでしょう。 私たちは毎日夜になったら眠ります。 そして当たり前のように次の朝、目覚めてを繰り返しています。 が、いつか必ず目が覚めない朝がやって来るんですよね? 自分では、毎日これも当たり前のように明日起きたら「これをしてあれをして」って考えていますが・・・・。 あるいは「そんな日、目が覚めない明日は絶対に、あるいは当分の間来ない来るわけがない!」って思いながら・・・・。 でも、よくよく考えてみれば「明日の朝、又、目が覚める」という事は誰の保証があるわけでもありません。 そう考えると私たちは「毎日死ぬという事をリハーサルしている」のです。 「いや!もっと言い切れば毎日死んで、毎日生まれている」のかも知れません。 でも、どう考えても「生にも死にも(起きてる時も、寝てる時も)意味があるわけでもなく、ましてやそれ自体に意義があるはずもない」という事になります。 これも【禅】でいうところの「空」や「無」「環」「元」の教えの一つだと思います。 私たちは不思議な縁で生まれてきましたが、本当にたまたま「地水風空火」のめずらしい仏事のなせる業(わざ)によって生まれ出ただけなのですよね。

noname#6163
質問者

お礼

ありがとうございます。 禅は、非常に個人的であるとおもいます。 しかし、その思考形態は、「禅的なもの」、「タオ的なもの」であり、また、 哲学の場合、分析的思考、形ある思考、そういう流れもあります。 それぞれの使用した思考形態によって、導かれるものと言うのは、ある程度類似性を持ちます。  同じ包丁(切り方)で切れば、切る人、切る物はそれぞれでも、切り口は似ているのです。 違いもあれば、似てるところもあります。 空観は、切りません。そういう方法です。 そのため、誰でも同じになります。 行為も結果も無いからです。 ある種の形而上的な、語りえない言葉、もの、こと、を、知ることになるのです。 前者(禅、タオ)は空観(観)(在)であり、それをもってすれば、自分はありません。生も死も、意味はなく、一切が無で、全です。 生き生きとあれるあり方を模索しています。 空観は優れてる。 もう一つ二つ、欲しいというか、グレードアップさせたいのです。 きっと、できるはずです。そんな気がするのです。 完全から完全へというものが、空観によってわかるために、終わりの無いことを知ります。 終わりがなければ、到達にして、行けるし、来れるわけです。   常に新陳代謝を繰り返し、生まれ変わって。生まれ続けているでしょう。それは、リフレッシュであり、リメイクほどではないとみています。 しかし、死と言うものは、一つのある生命システムの崩壊であると見た場合、そこに個性は無いのです。 生も、死も、なくなる、朝も夜も来ない、一つの終わりであるのです。その場合、生の反対は、生まれない、でしょう。 死の反対は、そもそも想像できない。死を知らないからです。   しかし、終わりが無いという見方もまたあります。 あるやないなどの話ではないという方法もあります。 生に関しては、生きている。終わっている。始まっている。そういう風に分かりやすいのですが、 死に関しては、死んでいない、終わっていない、始まってない、想像もつかず、血の通う、脳でできる思考の範囲ではない気がします。やりにくい。 自己の代謝を感じれば、死とは生命の躍動であり、それは生です。が、死ぬときは、自分それ自体がうんこになって、出て行く番な訳です。 なんてこった!(笑。

noname#6163
質問者

補足

お晩です。 思ったのですが、死は旅立ちとよく言われますが、旅立ちには、思い出をずるずると引きずっていくものです。しかし、忘却の果てに、旅立てるとしたら、それもまた素晴らしい。その時、思い出は消化されているといえます。未練が無いというか。そういう旅を、いつも思い描いて旅をする自分に、旅先で出逢います。 未練なく生きることが、生き生きとあれているのかもしれません。本気で。 この世は疑問だけでできているわけではないですから。 生きることの意味が、無限であるように、 死の意味もまた、無限にあるのでしょう。 元来、言葉とはそういう機能を前提に発祥しており、そうでなければ成り立たないから。 >私たちは不思議な縁で生まれてきましたが、本当にたまたま「地水風空火」のめずらしい仏事のなせる業(わざ)によって生まれ出ただけなのですよね。   なんか、すっきりしてきました。

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