#1さんの解答の中で、6 に誤りが在り、また、7には学校ではなかなか教えてくれない側面がありますので、私達日本人とは何かを考える意味で参考になると思われる歴史的事実を指摘しておきます。
6. 新井白石が1715年ごろ朝鮮通信使の待遇の簡素化の改定行ったことでも分かりますように、朝鮮とはづっと関係が続いていました。
7.一般には農民の生活はそれほど過酷ではなかったようです。確かに米の収穫の5割ぐらいを年貢で取り立てられていたことになっておりますが、その石高の計算は、江戸時代初期に行われた検知に基づいており、その後に農民が自分で開墾した農地は、原則として勘定に入れられていなかったようです。ですから、農民達は一生懸命新しい農地を開拓して、それを自分の収入にしていたようです。大変賢い政策だと思います。結果的に、日本全体を豊かにしてくれたのですから。
また、農民社会では、女性は男性と殆ど平等に扱われていたようです。女性は男性と違って、体の構造上、長時間かがんでいられる。このことは、農家の行事で決定的に重要な田植えの時に、女性が男性に比べて体力的に優れていることを示す絶好の機会でした。したがって、日本の多く地域では、田植え時は男衆は、弁当を運んだり、赤ん坊の面倒をみたり、畦から稲束を投げる役に回され、女性の独り舞台だったようです。また、新しい嫁さんの働きぶりを、同じ村の女雀どもに見せる絶好の機会でもあったようです。したがって、江戸時代の農家では、女性は大切な労働力を提供していたので、女性も胸を張って、男どもと対等な発言力を持っていたようです。
また日本中の村にに、一人前になる前の若い男性を教育する若い衆と、それと同年代の女性を教育する娘組などの組織が在り、それに時々寝泊まりをして若者達の成人教育や、性教育が成されていたそうです。時々は、若い者衆組と娘組で、今で言う合コンのような食事会を野原でのピクニックや組の宿などで催していたそうで、それが、後の伴侶を選ぶ大事な機会を与えていたそうです。大抵の場合、このような付き合いから、自分の伴侶を決め、それを親達が後で認める形になっていたそうです。若者組も娘組もその二人が結ばれるように、親に説得する協力をしていたそうです。また、若者衆や娘組の宿での規律もしっかりしており、性の乱れは徹底的に押さえられていたそうです。
また、そのような組織や家庭内で、大体15才ぐらいまでに、お祝い事や不幸が会った時の決まり文句の口上を覚え込まされていたので、江戸時代の農民達は15歳にもなると、立派に人様の前で挨拶が出来たそうです。15才にもなって人前でそのよう口上が出来ない者は、馬鹿者扱いされ、相手にされなかったそうです。
もちろん、人間のやることですので、たまには不正義が在ったり、また、天災などで、国中を挙げて生き残りのために武家も農民も保身に回らざるを得なくなって、理不尽なことが起こったことがあるのは、江戸時代に限らず、どんな世の中で当たり前なことです。ところが、そんな例外的な時に百姓一揆や打ち壊しなどが起こった記事や記録を読んで、江戸時代は過酷な時代だったという方もいるようですが、それは、例えば、たまたま市橋達也の記事を読んで、日本の平成時代は、日本人はイギリスの女性を殺しまくっていたそうだとか、酒井法子の記事を読んで、日本中の連中が覚せい剤を服用していたそうだと言うに等しい誤解だと思います。なにせ、江戸時代は250年以上に渡って、戦争も内乱もない平和な時代が続いていたのですから、農民がそんなに過酷な待遇を受けていたはずがありませんね。
質問者さんも自分を振り返ってみると分かると思いますが、他人がづけづけと入り込んできて、余りにも理不尽が続くと、それによって逆に勇気が出て、死を覚悟してどんな武器を持った相手にでも立ち向かって行くのが、人間の性ですからね。例えば、今のイラクやアフガニスタンを見れば、そんなことは当たり前なことがお分かりになると思います。江戸時代にはそんなことが250年以上に渡って、起こらなかったようです。
お礼
ありがとうございます。