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その後の曽我家

曽我兄弟で有名な桓武平氏曽我家のその後を辿っているのですが、足利家に仕えて室町幕府奉公衆になり、幕府滅亡後は織田信長→豊臣秀吉→徳川家康に仕え、江戸幕府では旗本として書院番などを務めていたことまではわかりました。しかし、幕末の行動がわかりません。旗本ですから例えば彰義隊に加わったとか、そういうことがもしあれば面白いかなとも思っているのですが、実際のところを御存知の方がいらっしゃいましたら御教授ください。

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  • tanuki4u
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回答No.1

明治2年4月22日 督府、海軍参謀曽我祐準を松前に差遣す。(蝦夷戦記) 明治2年4月10日 曽我祐準「準造、○柳河藩士」を以て海軍参謀と為し、青森に差遣す。 幕府にいた人でないですな。 明治1年4月1日 曽我主水、戸田忠篤」、勤王証書を大総督府に上る 明治1年3月21日 旧幕府寄合曽我主水の家士、更に勤王証書 その前だと 安政5年10月18日に曽我権左衛門家士を牢に入れている。 安政4年6月22日 幕府、一橋家老石河政平「土佐守」を側衆と為し、百人組頭曽我助予「若狭守」を小性組番頭と為す。尋で「25日」小納戸竹田斯綏「伊豆守・後豊前守」を一橋家老と為す。 時代的には一橋慶喜だから、慶喜と行動を共にして、彰義隊には入る可能性が低いですね。 http://www.lib.kagawa-u.ac.jp/www1/kambara/mokuroku/monjo.html ここの991番にも曽我がありますが、なんか関係あるかも。 http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/shipscontroller ここの維新史料で検索してみた

indians
質問者

お礼

わざわざ調べてくださったんですね。ありがとうございます。明治元年に勤王証書を提出しているということは、戊辰戦争では官軍に恭順したということですね。

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