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豊臣秀吉についての疑問
みなさん、こんばんわ。 先日、漫画文庫版「花の慶次」を読み終えました。 その中で、秀吉が三成に朝鮮出兵の理由を語っていました。 要約すると、「日本を統一したあとは、これ以上領土を分け与えられない。家臣といっても、先祖代々の忠誠を尽くしてきた者はいないし、恩顧を感じている者もいない。諸国の大名が自分に従っているのは利だけだ」というような内容でした。 報いてくれる主の下で働くことで、自らも豊かになる戦国時代の考え方の、最下層から頂点に上り詰めたからこその考え方なのでしょう。 勿論、フィクションであることは重々承知です。しかし、説得力はありますが、疑問が残ります。 1.本当に朝鮮を攻める必要があったのか?当時の秀吉の財力と権力は抜きん出ており、新たな領土を求めなくても、諸大名を従わせることが出来たのでは? 2.なぜ、豊臣幕府を開かなかったのか?平民の出自から、幕府を開くことが出来ず(足利義昭の養子になろうとして断られていますね)、かわりに朝廷に接近し、関白太政大臣にまでなったものの、安定した政権を樹立できなかった。しかし、後継者の秀頼の母・淀君は織田家の血を引いています。かなりこじつけですが、足利幕府を倒した織田家の血を引くのであれば、幕府を開く口実になるのではないか?あぶないと解かっていても、臨終の間際、家康に秀頼の後見を頼むより、よっぽど安心できるのではないでしょうか? 3.もし、仮に豊臣幕府が開かれていたとしたら(初代将軍は、豊臣秀頼。執権として秀吉が補佐?)。どのように歴史が変わっていったでしょうか? 時間があれば、お付き合いください。
- gryps
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確かに「家臣に新しく広い領地を与えるため。」「朝鮮併呑後、中国へも攻め入り、朝廷を中国へ移し皇帝にする。」と言った様な話が伝わっています。 その真偽はともかく秀吉なら言い出しそうな事ですので案外本当の事かもしれません。 ですが、秀吉の真意は他にあった様に感じて成りません。 つまり家臣に領地を~とは単なる口実。 秀吉は戦い続けて出世し、戦いの中で人生を謳歌しておりました。 やがて天下統一もなり、日本国土に敵はいなくなった。 全て秀吉の意のまま。 ところが、そうした途端、秀吉は人が変わった様な狂気に走り出しています。 朝鮮出兵も言わば狂気の一つなんですが、秀次の件や利休の件など内政上手であった秀吉が自ら和を乱すような事をしている。 秀吉は「戦う」という目標を失って、己さえも見失ってしまったのではないでしょうか? そして無意識の内に戦を求め、無益な戦いへと挑んでいった。 そんな様な気がしてなりません。 幕府を開くにはやはり血統に難があったのかもしれません。 人誑しとも呼ばれる程、頭の切れる秀吉の事ですから、朝廷までも誑しこみ征夷大将軍を得る策略も思いつく可能性はありましょう。 ですが幕府は開けば安泰というものではありません。 鎌倉幕府は名実共に源氏政権と呼べたのは初代頼朝だけでしょう。 室町幕府は尊氏・義詮死後も南北朝の争いは続いており、幕府求心力を崩すわけにはいかなかった。 江戸幕府は徳川家康・秀忠二代続く大御所政権で組織の強化を図っています。 豊臣幕府が開かれたとしても秀頼がその実力を発揮する以前に御家人(この場合徳川)に食い物にされ、鎌倉幕府の二の舞になるか短命幕府で結局江戸幕府に替わられるのではないかと思います。 秀吉も次は家康の時代であることは十分承知していたのでしょう。それ故、最後の最後の無理を承知の望みで家康に後見を頼んだのではないでしょうか。 せめて殺さないでやってくれと。
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- gokuh_
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> 秀吉による幕府といった公的な統治組織の成立は難しかったのでしょうか。 もしかしたら、もっと時間を掛ければ出来たかもしれませんが、クリアせねばならぬ問題が多いでしょうねぇ。 > 切り崩しに15年近くもかかっているのは、やはり豊臣家が依然有力な大名であったからだとは思うのですが・・・。 つまり、幕府を強固なモノにするにはそれだけ時間が掛かるという事だと思います。 秀吉が途中から暴走し、秀頼が(如何に優秀であたとしても独自で将軍職を担える実力をつける前の事ですから)若輩では、幕府を開いても、同じ結果になったと思います。 武将は皆「幕府」に頭を下げているのではなく、「幕府」が作り上げた権威に従っているのですから。 > 家康は案外秀吉との約束を守ろうとしていたのかもしれませんね。 豊臣家が従順で秀頼を担ぎ上げる者が皆無になっていれば「高家」として存続させたかもしれないとは思います。 ・・・難しいかもしれませんが(従順・皆無)
お礼
最後になりましたが、ここで締めさせて頂きたいと思います。 当初、自分の中で秀吉という人間は聡明で、先の先を見越した戦略眼の持ち主というイメージがありました。 事実、本人の幸運もあったのでしょうが、信長横死までの秀吉は情に厚く、そして異常なまでの切れ者であったと思います。 秀吉自身も信長が自分に目をかけてくれる事は、本心からではないという事はわかっていたのではないでしょうか。 譜代の家臣団への対抗馬(悪く言えばかませ犬)であり、失敗しても切り捨てご免の存在。武士としての誇りや常識にとらわれない存在。 だからこそ、命をかけて信長に忠節を尽くし取り入るほかなかった。 信長を一番恐れていたのは秀吉だったのかもしれません。 信長という枷がなくなったとき、秀吉は秀吉ではなく、信長になってしまったように思います。 信長が生きていたとき、自分を生かす道は最も秀吉でありつづけなければならなかった。それが結果として良い方向に進んでいた。 信長を神のようにあがめながらも、秀吉という人格を持っていたのだろうと思います。 しかし、信長が死んだあと、秀吉は秀吉である必要が無くなってしまった。おべっかを使ったり、道化を演じる必要も、命を賭して戦う必要もなくなった。秀吉自身が信長を演じればよかったのです。 そして天下を統一し、ふと振り返るといつでも自分の寝首をかこうとする大名や、欲望と栄達に目をギラつかせた家臣が自分を見ている。 強迫観念にかられ、無理な政策や、疑心の目が家臣・親族に向けられる。 膨張する群れをその場に留める事も出来ず、先頭にたつ自分が一番先に崖から落ちていく、そんな気がします。 信長の死後、はじめて自由を得たはずだったのに、もっと大きな枷をはめられてしまった、それが秀吉の不運だったのかもしれません。
- ka234
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こんにちわ。 私も戦国時代(武将)に興味を持って、いろいろな小説を読み漁りました。ここ数年は購入したいと思う文庫本がないので、あまり本を読まなくなってしまいました。 さて、私見ですが、 1.財力と権力では求心力を生み出すことはできなかったのではないかと思います。秀吉公は戦略には長けていましたが、やはり「東海一の弓取り」と比べてしまうと信頼感みたいなものがなく、ずいぶん見劣りしてしまうのではないかと考えます。 実績づくりで戦場を求めたいった? また、有力大名に戦費を課せるという狙いもあったのではないでしょうか。家康公はさすがのってきませんでしたが。 さらに、晩年の家康公でさえ人格が豹変してしまったかのように見受けられ(「影武者徳川家康(隆 慶一郎さん著)」を読んだときは「ありえる」と思いました。)、大業を成そうとする人の晩年の危機感は、想像を絶するものかも知れません。 2.私も#2の方の「皇帝」意見に賛成です。 しかしながら、時間も人材も不足していたというのが実状では? 3.どのような形であれ、武家政権→開国→明治維新→大政奉還(逆?)→開戦(敗戦)→→バブル→失われた10年→今、私がキーボードをたたいているのではないでしょうか。 でも、パラレルワールドを思考するのが歴史の楽しいところですね。 文字数も多くなってますのでここらで失礼します。
お礼
遅くなりました。私事と仕事でえらい事になってました。 この場を借りて、皆様にお詫びいたします。 色々と考えてみますと、一つの時代(人々の考え方、価値観)の節目にあたり、その時代を破壊するか、変えていくか、乗っかるか。 ホトトギスの話ではありませんが、信長・秀吉・家康の三人の覇者の人となりが現れているのかもしれませんね。
- jun9031
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1.野心と慢心のための朝鮮出兵かと思います。昔から日本は中国の強大さは知っていました。日本の中で急速に力をつけた秀吉は、自分の力を驕り、中国に体等に戦えると自負したのではないでしょうか?その一歩としての朝鮮出兵だと感じました。家来に領地を・・・というよりも世界を取るという気持ちがあったのではないかと思います。 2.幕府を開くことができないからこそ、朝鮮出兵を行ったのでないでしょうか。もし成功していたら、それこそ日本国内では絶対の力を持った存在になります。 3.朝鮮出兵を仮に行わずに幕府を開いていたら・・・と考えますと、今と歴史はまったくかわっているかと思います。秀吉は人につけいるのがうまいので朝廷と幕府をうまく結びつけ、絶対の地位にしていたでしょうね。今でも豊臣家+天皇家が特別だという状態でしょう。(大戦時もアメリカに攻撃をしかけることはしなかったかもしれませんね・・・)
お礼
レスありがとうございます。 正直、文化・風俗の違う領土を攻めとっても果たして円滑に統治することが可能なものなのでしょうか。 ひょっとして、朝鮮を占有した後家康に与え、 「朝鮮を統治できるのは貴殿のような実力者以外には考えられない。また、明の抑えとしても私に比肩する者でなくてはならない」とか言って日本から追い出すつもりだったのでしょうか? 統治に失敗すれば佐々成政のように罪を問い、転封に反対すれば叛意ありとして討伐する。 ひょっとしたら、早い段階で朝廷と公武合体を行っている可能性も考えられませんか?そうすれば、幕府を開くこともなく、平安時代の藤原氏のような存在になっていたかもしれませんね。
時間があるのでお付き合いを。 1.やはりあの時点で、秀吉は相当ヤキがまわっていた、と見るのが一番素直なのでは? 草莽から現れて天下を取るまでの鮮やかさから考えれば、年を取ってからの秀吉、 まるで別人の様に駄目になったとしか思えません。 緻密な計算能力、人の懐に入り込む様な人間的魅力、いったいどこへ消えたのでしょう? 2.幕府を開いて征夷大将軍になるには、源氏の棟梁でなくてはいけません。 源頼朝、足利尊氏がそうだったので。 織田信長は、平氏という事で売り出しましたので、将軍にはなれませんでした。 秀吉の場合、家系を捏造しようにも、何しろ尾張中村の足軽の子である事が、 満天下に知れ渡っておりましたから、朝廷に運動して、新しく「豊臣氏」という 家を立ててもらい、本来は公家の官職である、関白太政大臣というものになったのです。 苦労して無理やり幕府を開いてみても、天下がその権威を認めてくれなければ、 こっけいなだけですので。 3.上の続きになりますが、結局のところ、秀吉亡き後の最高実力者が 徳川家康である事には変わりないのですから、大筋の歴史は変わらなかったのでは? そもそもその前の段階からして、秀吉は必ずしも実力で家康を屈服させた訳では ありませんでしたし (秀吉は母を人質として家康のもとに送り、妹を妻として差し出しています)、 家康が健康を保ち、秀吉より長生きした時点で、勝負は事実上決したと思います。 以上、管見まで。面白がっていただければ幸いです。
お礼
レスありがとうございます。 やはり、秀吉の刃は曇ってしまったのでしょうか。 秀吉の魅力は頂点に上り詰めていくまでの苛烈なクライムストーリーにあると思います。 信長の夢を継ぐというカタチで奔走し、いつしか頂点に上り詰めた。でも、それだけだった。 秀吉には頂点に上り詰めたあとのビジョンがなかったのかもしれません。 信長という秀吉にとっては師匠というより神に近い存在を常に追いつづけ、 「信長公なら、どうするだろうか?」という試行錯誤の繰り返しだったのかもしれません。 やはり、秀吉を持ってしても、生まれながらの血筋だけはどうにもならないのでしょうか? 信長も確か藤原氏の出自でしたが、室町幕府妥当のため、平氏の末裔を名乗ったと聞いたことがあります。 話はそれますが、信長が平氏であれば、信長は幕府を開かずどうするつもりだったのでしょうか?
- masa2-1
- ベストアンサー率8% (3/34)
秀吉に足りなかったもの ・後継者が成長していなかった。 ・家臣団は石田光成等政治に携わったものばかりで 戦に関しては力不足だった。 ・最大のライバル徳川家を結局倒せなかったこと ・豊臣政権の基盤を固めるまで寿命がなかったこと 等があげられると思いますが。
お礼
重ね重ねのレスありがとうございます。 後継者については、幼児の秀頼では老獪な家康相手では太刀打ちは出来ないでしょうね。 家康が覇権を握った最大の要因は寿命の長さにあるともいわれますので、秀吉があと3年も生きていれば解かりませんね。でも、朝鮮出兵で諸大名の人心は離れていますしねぇ。 光成をはじめとする官僚型の家臣を集めたのも、武断の時代は去り、文治の時代の到来を予見していたからと思うのですが・・・。 太閤検地や刀狩などもそうですよね。 秀吉にも、諸大名が従うのも秀吉個人にであって、豊臣政権ではない事は承知していたはずです。そうなれば、海千山千の諸大名を統括するため、幕府などの公的機関という枠組みにはめ込むのが最も手っ取り早いように思えます。 つまり、私人として秀吉に対立するのではなく、公人として秀吉を頂点とする組織の掟に背いた事にし、諸大名の共通の敵と出来るわけですよね。 秀吉個人の力量によってではなく、朝鮮出兵をする前に、確固とした統治機構を作り上げることの方が先だと思うのですが・・・。
- taroimo_hasami
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私は、秀吉が皇帝になる以外に豊臣家存続はなかったのではないかと思います。将軍は、所詮、武家の棟梁に過ぎません。実質的な力は別として、公家などに対して力を発揮するにはそうなるより他なかったでしょう。 秀吉が帝位に就き、恩顧の大名達は全て公家として取り立てる。国号も新しく定め直し、天皇家や公家の主だったものたちは平民とする。
お礼
レス、ありがとうございます。 皇帝ですか。 信長も、天皇や朝廷を排斥し、自分が帝位に就く意志みたいなものがあり、それを察知した朝廷が本能寺の変を画策したというような説を聞いたことがあります。 しかし、徳川幕府は対外戦争も行わず、二世紀以上もの政権を存続できたわけです。 何が秀吉に足りなかったのでしょうか?
- masa2-1
- ベストアンサー率8% (3/34)
1に対して これだと今まで主に戦で活躍することで秀吉に仕えてきた 家臣が働き場を失ってしまうことから不満が出た。 また朝鮮侵略は信長の夢でもあった。 という理由によるものだと思います。 3に対して この場合、秀吉が関白だろうが将軍だろうが秀吉死後に 家康が豊臣家潰しにかかる事に変わりないから同じ 結末をたどったのではないかと思います。
お礼
早速のレス、ありがとうございます。 やはり、戦国の戦場で戦って栄達した大名相手では、そうせざるを得なかったのでしょうか。 細川忠興や、黒田長政といった戦国時代とは離れた二世武将全盛の時代であれば、文治も可能なのかもしれませんね。 自分も、秀吉の晩成は信長の影を多く引きずっているような気がします。日本統一も、朝鮮出兵も、淀君との関係も、ただただ信長に近づきたい一心だったのかもしれません。
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