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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい》)

カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい

littlekissの回答

回答No.91

こんばんは、bragelonneさん。 ふぅー きょう あした と 休みだー! ●こういうぶっきらぼうな参照サイトの羅列…云々 ↑ へぇーい、しかと承りました。 ココロ伝わらないかぁ…心の哲学…むつかし 心身二元論… ●閻魔王の罪って? ↑ ん? あぁ、織田信長をふとおもいうかべてた。 【歴史と経営】 http://www.rekishi-keiei.com/oda/oda_keizai.html 【QNo.未来は、存在していると証明できますか】ANo.72 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4409643.html 【国会から見た経済協力・ODA(10)】 http://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2009pdf/20090130182.pdf 【国会から見た経済協力・ODA】 http://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/theme05.html 【投下倭人】 http://www53.tok2.com/home/nasubi/history/wako/index.html 「三島の倭寇」 三島というのは、対馬、壱岐、肥前(佐賀県)松浦地方のことでここにすむ農民や漁民、さらに中小の武士たちが倭寇の構成員であった。この土地は、土地がせまく、しかも地味がやせていて農業がじゅうぶんにできず、住民の生活はまずしかった。人びとは、朝鮮や中国の人びとと私的な貿易をおこなって自活の道をもとめていたが、交易を拒絶されたばあい、海賊的行動をおこなったのである。朝鮮や中国の人びとは、これを日本の侵攻、すなわち倭寇とよび、その対策にいそがしかった。倭寇のなかには、高麗人もふくまれていた。かれらは、禾尺とか才人とよばれた最下層の民衆で、倭寇に味方するだけでなく、倭寇となって高麗王朝に反抗し、身分解放をもとめていた。 李氏朝鮮誕生 倭寇は年とともに大規模になり、回数も増加した。1392年倭寇討伐で頭角をあらわした李桂成が、高麗王朝をたおし、李氏朝鮮を建国した。李桂成は、倭寇に対抗するために強力な海軍をつくり、倭寇を弾圧するいっぽうで倭寇へ降伏するようによびかけ、これに応じた者には田地や家財をあたえ妻をめとらせるなどして、あつくもてなした。1396年には、数百人の倭寇が降伏したといわれている。かれらは、投下倭人とよばれた。 【上・下】 http://blhrri.org/info/book_guide/kiyou/ronbun/kiyou_0172-07.pdf http://blhrri.org/info/book_guide/kiyou/ronbun/kiyou_0173-05.pdf 土地は、土地がせまく、しかも地味がやせていて農業がじゅうぶんにできず、住民の生活はまずしかった。人びとは、―――――の人びとと私的な貿易をおこなって自活の道をもとめていたが、交易を拒絶されたばあい、海賊的行動をおこなったのである。 ↑ 生存本能 食べるものがなくなると 人は人里から離れ山へ分け入る 食を求めて… 人に限ったことではなく 食べるものがなくなると 動物も山を降り人里へ足を踏み入れる 生の欲求につき動かされる 食を求めて… [第94条] http://www.geocities.co.jp/WallStreet/7956/dai8/94jou.html http://www.bunken.nga.gr.jp/siryousitu/eturansitu/setumeikai4.htm FTA(自由貿易協定)なんではかどらんのやろか?二重課税の問題? http://www.keidanren.or.jp/japanese/policy/2008/017/honbun.html 【過去問】 http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaisunao/gyoseika/sangiin.htm

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。  ★ 徐 知 延:朝鮮「白丁」身分の起源に関する一考察(上)(下)  ☆ まぁ しかし どこからでも何でも探し出しますねぇ。いまはこんなに資料があるのですね。  以前 沖浦 和光の研究書で日本やアジアの被差別民のことについてひととおり学んだと思ったけれど もう記憶が定かではありません。特にこの朝鮮についての情報も忘れてしまっています。情けなや。  ★ 【投下倭人】  ☆ 検索の手をゆるめませんねぇ。  ▲ 「三島の倭寇」:三島というのは、対馬、壱岐、肥前(佐賀県)松浦地方  ☆ 対馬のことしか言っていませんでしたね。テレビでは。  ▲ 倭寇のなかには、高麗人もふくまれていた。かれらは、禾尺とか才人とよばれた最下層の民衆で、倭寇に味方するだけでなく、倭寇となって高麗王朝に反抗し、身分解放をもとめていた。  ☆ これも聞いていなかったのですが ただし倭寇には 済州島のモンゴル人が加わったとは見られているそうです。元寇のときに 済州島は 騎馬のための馬を放牧する場所としてえらばれ そこに飼育係たちが元寇が終わったあとも残ったそうです。対馬人と手を携えて貿易もしくは海賊になったとか。  ★ FTA(自由貿易協定)なんではかどらんのやろか?二重課税の問題?  ☆ これは 相手国に比べて こちらの同じ産業が競争力が弱いと 壊滅的な打撃を受けます。価格競争力だけによっても 農業は困ります。たぶん よほど友好と信頼の関係を築かないと 食糧などは自給率を下げることは出来ないですよね。→インタナショナルなインタムライスムが要請されます。へへっ。  お忙しいようで。でしたら 検索の手は一つひとつじっくりとこなして行ったほうが ええのとちがう? 広く手を出し過ぎなんとちがう? 一度にひとつの主題でじゅうぶん。と思うけどねぇ。要らぬお世話?  ★ 心身二元論…  ☆ っちゃうよ。二元論はあかんよ。ふたつの項目が対立する関係にあるというならまだしもですが 根元がふたつというのはあり得ません。と思います。  * ここでの質疑応答全般と言いますか 哲学カテゴリ全般での哲学の学習と言いますか すすんでいますよ。そのようですよ。日本の夜明け。

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     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第十章 《神は死んだ》のか  ▲ (ヰキぺ:神は死んだ) ~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AF%E6%AD%BB%E3%82%93%E3%81%A0  (あ) 神は死んだ(かみはしんだ、独:Gott ist tot, 英:God is dead)は、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの言葉として、ニヒリズムを表す言葉として広く引用される言葉である。  (い) ニーチェは、キリスト教的な神や価値観が、プラトン的な形而上学的真実在、超越的な彼岸世界への信仰が消滅して、現実の生・世界が無価値・無意味になり、ヨーロッパが歴史的に危機状況にあることを、神は死んだ(も同然だ)ということばで表した。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~    問い‐1. 《ニヒリズム》とは どういう思想ですか?   (う) こう問うわけは 虚無志向というのは あくまで往復の道があって 当初はその虚無の国行きだけの片道だと思っていたとしても けっきょくには 復路もあるとなるはずではないか。だから いったいそれとして言わば独立した思想があり得ますか? という問いです。   問い‐2. 《神》は 果たして《死ぬ》ものか? つまりいつか・どこかで《生まれた》ものか? きわめておかしな表現であると考えられるのだが どうか?  (え) 《価値観が消滅する》という意味で《死ぬ》と使っても むろんおかしくはありませんが。    問い‐3. この場合に《現実の生・世界が無価値・無意味になり》というのも おかしな表現(思惟)ではないか?  (お) なぜなら もしそれがほんとうだとしたら 《キリスト教的な神や価値観が〔無いところでは あるいは〕、プラトン的な形而上学的真実在、超越的な彼岸世界への信仰》が無かった土地とそこに暮らす人びとにとっては もともと昔から《現実の生・世界が無価値・無意味》であったとまわり回って言っていることになる。のではないか? そんなバカな話があるのでしょうか?  問い‐4. ▲ (い) ・・・ヨーロッパが歴史的に危機状況にあることを、神は死んだ(も同然だ)ということばで表した。  ☆ だからと言って 《超人・大地・大自然》を あらたな神のごとくに持ち出せばよいというものではない。はずだ。どうか?

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     一般に《信仰》のむくいは 神を見ること。だと思われます。  つまり 《真理がすべてにおいて――あなたにとって――真理であること》。これの成就だと思われます。  《真理は きみたちを自由にする》と。   ○ 《アルケーの神を感じる》ことをとおしてゆくゆくは《アルケーの神と一体となること》は 言うところの《真理の探究》における《見返り》なのではないですか?  これが問いです。  《見返り》という言葉がわるかったでしょうか。《むくい》という意味で使っています。  つまり この問いに対して   □ 断じて 見返りではない。  という答えが返って来ています。みなさんは どうお考えになりましょうか?