• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい》)

カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい

noname#135843の回答

noname#135843
noname#135843
回答No.87

ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。 > 【Q:運命と自由 キリスト教】  ご一読させていただきました。 カール バルト: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88  につきましては、今回初めて知りました。文面にもございますが、カルヴァン(予定論)の影響を受けたと言われていますが、異なる点もあるようでございます(上記サイトからの引用でございます)。 「バルトが主著『教会教義学』等のなかでカルヴァンやウェストミンスター信仰告白の二重予定説を強く批判したのを受けて、それまでは保守的陣営にとどまっていた改革派神学者たち自身が、二重予定説の立論そのものについての抜本的な再検討へと動き始めた。」  また、以下のような意見もございました(他の宗派のブログからですが.....)。 「バルトもまたカルバンと同じく二重予定論を説くわけですが、カルバンのように神が人間の中に滅びる人と救われる人の二通りを予め定めておいたというのではありません。バルトは、神がキリストにおいて自らを滅びに定め、その代わりとして人間全体を救いに定めたと説くのです。よって神が自分自身を裁きの場に引き渡すとは、人間全体に、唯一キリストにあった救いの選びを贈与することを意味します。逆言すれば、神が人間全体の滅びその身の内に引き取っているのです。つまり“引渡し”の場面においては、キリストの救いと人間全体の滅びが「交換」されているということです。」 http://www7a.biglobe.ne.jp/~tokyochristtetudo/tetsudo_03katudo/tetsudo_4_05singaku.html   本題に移りたいと思いますが、実を申しますと、愚生の理解の範囲を超えております。とりあえずは、交換性がある との前提で話を進めさせていただきます。 ルカ伝 15章11節からの“放蕩息子”の話を思い出しましたが、確かに“神”の前では、(少なくとも、各人が思っているほど)「“ひと”-“ひと”間」の違いは さほどはないのかもしれません。また、 マタイ伝 19章30節から20章14節 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。 <中略> それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。  最後に来たひと:弟子たち; 一方、最初からいるひと:パリサイびとたち というのが、一般的な解釈かと思われますが、 「“神”には、絶対的な判断の自由があり、また、その前ではひとは、大した差異はないのかもしれない」 とも感じました(ひとは 神はそう考えている(に違いない) と勝手に思っている、もしくは好きなように解釈しているだけなのかもしれません)。 > ☆というような《思考停止社会》であれば そこでは すべてが《右へならえ》です。 わづかに対立があるとすれば あるとしても その野生の自然児で異端児のスサノヲは 外へ追いやられます。干されます。  意見を等しく致します。確かにこの国にも住み難さを感じていらっしゃる方も多いかとおもっております。ですが、愚生のような非力な身は..... > 全体主義もいいところでしょう。すべては大政翼賛会の体制です。現代でもそうなのでしょうか?  考えること を放棄してしまいますと、たまたまその場にある雰囲気・空気(もしくは、勢い)により、判断が下されると思います(かのインパール作戦もその1つかと考えております)。以下のサイトは“官製不況”とのタイトルでございますが、愚生の記憶では、特に“2006年から2008年 建設基準法の改正”はメディアによる影響が強かったと思っております。その後、サブプライムローンに端を発する不動産バブルの崩壊により、建築業界(投資・投機先は主に外資でしたので)は惨劇を極めたかと思われます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%98%E8%A3%BD%E4%B8%8D%E6%B3%81  >  《洗礼=秘蹟》論をもうけました。  勝手ながら、拝読させてもらっております。もう少し、他の人たちの“回答”を伺ってみたいと思っております。  それでは、どうもありがとうございました。厚くお礼申し上げます。

bragelonne
質問者

補足

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  バルトは わたしの勇み足の部分が出ましたね。  ▲ バルト神学の正体  ☆ が言うように 《対極》の関係をバルトは言っているのかも知れません。つまりは このブログ氏は 神と人間との関係についてですが 《へだたり》のほかに《対峙と対立関係》があると言っています。このとき 《対極》関係をおもに見るバルトは 両者に絡みがないと見ているのかも知れません。ゆえに互いに交換性が出てくるのだと。  さすがにわたしは 《対立や絡み》を無くそうとは思わなかったのですが それでもこの《対立関係》を超えて神から見れば 両者が同じように見えるかも知れないとは思ったのでした。  これは けっきょく人間は互いにどんぐりの背比べであるという意味を思っていたのですが そのような相対的な対極の関係では たしかに両者の絡みが見えなくなるのかも知れません。  これは反省です。  それにじっさい全体像が見えていず   ▲ 二重予定説  ☆ についても把握しておりませんでした。わたしは アウグスティヌスに従って 《神の予知》説をとっています。ひとの自由意志のおもむくところを神は予知し得ているとなりましょうか。でも神を簡単に出すというのは けっきょくは《無根拠》のことを物語りにしているのであり すべては《なぞ》です。  ▲ しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。  ☆ この聖句につきましては 異見を持ちました。率直に言って このようにあと先をたがえるようになるのは そうなったとしても 同じように光の子らになっていることに違いはない。というように思うのですが どうでしょう?   ▲ “官製不況”  ☆ これは残念ながら同じ水準でお話できるまでには丹念に新聞記事や詳細な解説をたどって来ていません。新聞記事の全部を読むことをやめてからもう十年以上経っています。(これは ひとことで言いますと わたしの勉強とそこからの発信が 手応えがないので 意欲が薄れた結果です。そういうかなしい経過をたどっています。情けないと言えばそうなのです)。  これも全体観がないまま考えたことならあります。  どうも有効需要と言うのでしょうか これは決まっているのではないかというものです。決まっているというのは 新しい製品や商品やサービスが出てくればそれらに応じて増加するという変化を含めて 人口に応じて需要の額は決まっているのではないかという空想を描いています。  また電気製品や自動車が商品として飽和状態になるといった事態も 需要の量が限度を超えて増えない。つまり 経済のパイを大きくすると言っても 限度があるのではないか。これは 勝手に思っています。  ですから バブルがはじけるのは ふつうの出来事なのだと考えます。そのつてで言いますと 例のグリーンスパンは バブルのおそれが見とおせたと思われるにもかかわらず まだだいじょうぶだというようなことを示唆したのではなかったでしょうか。つまりそういう余計なバブル状態がつけ加わるかどうかを別として 需要に限度があって成長も自由自在であるとは言えないのではないか。というものです。  お聞き流しくださいませ。  今回はこういったお応えに終始しそうです。自分の中でくすぶるものを かろうじて言葉にして表わしたといった程度のお応えです。残念ながら。

関連するQ&A

  • 《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。

    まづ信教・良心の自由にもとづく個人の信仰は別問題です。(わたし自身 信じている側ですらあります)。 要するに《現人神なり》と言っています。これは 哲学あるいは市民の常識からは どう扱うのでしょう。経験合理性には明らかに反しています。あいまいにし 放っておくのでしょうか。一定の見解を明らかにしないでしょうか。 なお 非合理ゆえに我れ信ずは 個人の信仰のことですから 別問題です。 けっきょく なぜ ゆるされているのですか。

  • 《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。

    《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。  まづ前提として 信教・良心の自由にもとづく個人の信仰は別問題です。(わたし自身 信じている側ですらあります)。  要するにこの命題は 《現人神なり》と言っています。《神が人となった》と。これは 哲学あるいは市民の常識からは どう扱うのでしょう。  経験合理性には明らかに反しています。(あるいは 超えています)。あいまいにし 放っておくのでしょうか。一定の見解を明らかにしないでしょうか。  なお 非合理ゆえに我れ信ずは 個人の信仰のことですから 別問題です。  けっきょく なぜ ゆるされているのですか。  具体的には 教科書をとおして――いまどう書かれているか知らないで言うのですが 触れているはずでしょうから―― 子どもたちにどのように説明するのですか。

  • 聖書とは 何か?

     関連するすべての質問についてこの初めの問いをしておけば 問い求めが分かりやすくなるのではないか。  初めということは しばしば終着駅における結論になるとも考えられますが ともかく出発してみます。  むろん哲学としての問いです。  たたき台としては:  (1) 信仰とは何ぞやという問いについて 答えている。  (1-1) たとえば 《信仰が与えられるのは 血筋によってではなく 友情や義理人情など生活上のかかわりによってではなく あるいは人間の意志や努力や学識によってでもなく 無根拠においてである》と。  (1-2) たとえば 《理性や知識あるいは知恵によってではなく ひとは 信仰によってあゆむ》と。 哲学としては 《無根拠によって》という意味になるかと考えます。  (2) その信仰の対象である神は 非経験であり非対象である。ゆえに 無い神をいだくのも――つまり無神論も―― 信仰である。    (2-1) 《無い神》と《神は存在するというときの有る神》とが 《人間と非経験とのかかわり》としてその人の非思考なる姿であるという類型において互いに同じ信仰形態である。    (2-2) つけ添えるなら 《有る神》のその名も それが何であっても まったく問わないということ。名前の違いには 意味がない。  (2-3) 言いかえると 聖書は 新約聖書に到って そのアブラハム以来の神を経験世界の背景にしりぞかせた。  (2-4) 神は 良心と信教の自由なる公理にうちにみづからの身を隠した。言いかえると おのおの主観内面におさめられた。  (2-5) (ただし その主観の自己表現として 神の話をするなということではなく してもよいし それは 説明責任をともなった表現の自由にもとづきおこなわれる)。  (2-6) 無い神の話と有る神の話とが 同列にあつかわれる。  (2-7) いわゆるもろもろの民族宗教も 以上のような扱い方のうちに揚棄されて行く。  ☆ いろんな角度から捉えられていくかと考えます。ご回答の内容について 納得できるように質問者はたずね返してまいるかと思います。その点 つけ添えます。

  • 神とは何ですか?

    902さんの質問「神は死んだ。」のなかで神の定義が話題になっています。 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=75125 「神を信じますか」という問いは、よくもちだされますが、問う人も 問われる人も、神という言葉の意味・定義・解釈・語感が、まったく まちまちであるという感想を昔から持っていました。 皆さん、神とは何だと思われますか。 学問的な答え、個人的な考え、もちろん宗教的な教えも、 なんでもいいです。いろいろ聞かせてください。

  • わたしが神様だったら

    世界には様々な宗教がありますが、私は最近、神を信じている人が多いということに疑問を抱くようになりました。 人間は、答えがほしいけれども見つからないので、全知全能の神を創造し、不安感を埋めるために神を信じるのではないかと、私は解釈しています。 神は人間に自由意志を与えたそうです。それは神の愛なのだそうです。 私がもし神なら、人間が安心して暮らせるような、ある程度の規制をする。 戦争で罪のない人が死んでしまうような現在の世界では、自由意志のない人がいる。 そんな世界なんて、私が神だったら作らない、と思っていました。 先日、このようなことをキリスト教を信仰している方に伝えると、「言っている事がよく分からない」と言われました。 そんな時、チャットモンチーの「世界が終わる夜に」という曲を聴きました。 「わたしが神様だったらこんな世界は作らなかった」という歌詞があります。 あなたが神様だったらどのような世界を創造しますか? あなたの理想の世界を教えてください。 また、宗教を信仰している方や神を信じている方がこの曲を聴くと、どのように感じるのでしょうか。 思ったことを教えてください。 視聴 http://www.towerrecords.co.jp/sitemap/CSfCardMain.jsp?GOODS_NO=1584525&GOODS_SORT_CD=101 http://www.chatmonchy.com/disco/index.html 歌詞 http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=A02270

  • 我が神について語ってしんぜよう。

    私は仏と言う言葉を現代語に直すと人間と言う言葉だと思っていてな。 天啓のごとく悟った人間と言う言葉のそのような尊さを信じ、人と人が信じあう事こそ信仰だと考えていた。 多くの人々はひとを信じようとしない。 したがってこのように歩む道のりは困難であった。 しかし最も深い闇において、それでも信じると心が固まった時、光が舞い降りた。 仏教で言う無量光である。 それは神について知ろうとしなかった私にとって、神と名をつけることすらできない、無垢で純粋な光であった。 しかし私はその光と通じる事によって、私の方から、あえてその光をアマテラスと呼ぶ事を選んだ。 その光は本来、名も無き光であり、神と言う言葉すらも遠ざけるその無垢さが、すなわち無神論と言う信仰の在り方である。 以上は仏を信じ神を信じないとはおおむねこのような論理であると考えて構成しました。 このような哲学はキリスト教に由来した西洋の哲学とは別に、地に足の付いた哲学をしようと志していまして、宗教的な話とは違う趣旨手ご質問差し上げています。 信仰心を明晰な理性のまな板の上で料理するとするとあなたならどのような考えが浮かびますか

  • 神道の神様は英語で

    神道の神様は、八百万の神と言うだけあって沢山いますよね。 アメリカ人に、日本には800万の神様(god)がいると説明したら、 「800万人それぞれが違う神様を信仰しているのか?」と驚かれました。 ※実際には、私は八百万とは「沢山」と言う意味だということは承知していますが(笑) 恐らく、アメリカ人は、1宗教につき1神しかいないと、考えるからだと思います。つまり日本には800万通りの宗教があると解釈したのでしょう。 そこで、日本のような多神教の神はどのように表現したらよいでしょうか。

  • 技術の発展と神への挑戦

    抽象的な表現、宗教も絡んだ内容で大変恐縮なのですが、質問させて下さい。 私個人としては、技術の発展・社会の発展は、神話や宗教の中で度々神への挑戦として戒められているように思ってます。 バベルの塔などが良い例で、下記の記事を見ると技術の発展は神からの怒りを買ってしまうのではないかとドキリとするのです(ちなみに私はこんな事を書いておきながら仏教徒です)。 http://japan.cnet.com/news/com/story/0,2000056021,20060011,00.htm 技術を発展させてはいけないのではないかという自制が働く事に関して、何とか自分の中で折り合いをつけて消化したいのですが、先人達がこのような事に対してどう思っていたのか知りたかったので質問させて頂きました。 ・宗教上の理由から抵抗はあったのか ・それともなかったのか ・理由をつけたり、解釈を添える事により消化したのか などなど・・・。 ガリレイは宗教の信仰心よりも、自らの理論への確信が大きかったが為に地動説を唱えたのだと思っています。その時に自分の中に抵抗は無かったかどうかという所も気になる所ですが・・・話しがそれました。 上記以外にも、現在のアメリカで宗教上の理由から電気・ガスを使わない村があったり、究極的にはエホバの証人は信仰の時間を学習に充てる事を憚れる為進学ができないという部分もあったりします。 逆にユダヤのタルムードでは、教育こそが大事だと言っていますね。 こうした宗教の信仰と科学の発展について、科学史から見た宗教上の葛藤や解釈(神は人に対して「世に満ちよ」と言ったのだから、その手段としての科学的発展は認められる)などの例、あるいはこれらを上手く体系的にまとめたり、思想として固められているような書籍等、ご教授頂ければ幸いです。 また何か思う所などございましたら、「技術の発展に抵抗はあるかどうか」などについてのご意見などもお待ちしております。 宜しくお願い致します。

  • 再考: 《神は死んだ》か?

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第十章 《神は死んだ》のか  ▲ (ヰキぺ:神は死んだ) ~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AF%E6%AD%BB%E3%82%93%E3%81%A0  (あ) 神は死んだ(かみはしんだ、独:Gott ist tot, 英:God is dead)は、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの言葉として、ニヒリズムを表す言葉として広く引用される言葉である。  (い) ニーチェは、キリスト教的な神や価値観が、プラトン的な形而上学的真実在、超越的な彼岸世界への信仰が消滅して、現実の生・世界が無価値・無意味になり、ヨーロッパが歴史的に危機状況にあることを、神は死んだ(も同然だ)ということばで表した。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~    問い‐1. 《ニヒリズム》とは どういう思想ですか?   (う) こう問うわけは 虚無志向というのは あくまで往復の道があって 当初はその虚無の国行きだけの片道だと思っていたとしても けっきょくには 復路もあるとなるはずではないか。だから いったいそれとして言わば独立した思想があり得ますか? という問いです。   問い‐2. 《神》は 果たして《死ぬ》ものか? つまりいつか・どこかで《生まれた》ものか? きわめておかしな表現であると考えられるのだが どうか?  (え) 《価値観が消滅する》という意味で《死ぬ》と使っても むろんおかしくはありませんが。    問い‐3. この場合に《現実の生・世界が無価値・無意味になり》というのも おかしな表現(思惟)ではないか?  (お) なぜなら もしそれがほんとうだとしたら 《キリスト教的な神や価値観が〔無いところでは あるいは〕、プラトン的な形而上学的真実在、超越的な彼岸世界への信仰》が無かった土地とそこに暮らす人びとにとっては もともと昔から《現実の生・世界が無価値・無意味》であったとまわり回って言っていることになる。のではないか? そんなバカな話があるのでしょうか?  問い‐4. ▲ (い) ・・・ヨーロッパが歴史的に危機状況にあることを、神は死んだ(も同然だ)ということばで表した。  ☆ だからと言って 《超人・大地・大自然》を あらたな神のごとくに持ち出せばよいというものではない。はずだ。どうか?

  • 《アルケーの神と一体となる》ことは・・・

     一般に《信仰》のむくいは 神を見ること。だと思われます。  つまり 《真理がすべてにおいて――あなたにとって――真理であること》。これの成就だと思われます。  《真理は きみたちを自由にする》と。   ○ 《アルケーの神を感じる》ことをとおしてゆくゆくは《アルケーの神と一体となること》は 言うところの《真理の探究》における《見返り》なのではないですか?  これが問いです。  《見返り》という言葉がわるかったでしょうか。《むくい》という意味で使っています。  つまり この問いに対して   □ 断じて 見返りではない。  という答えが返って来ています。みなさんは どうお考えになりましょうか?