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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい》)

カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい

noname#135843の回答

noname#135843
noname#135843
回答No.89

 ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。  > ▲ しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。  ☆ この聖句につきましては 異見を持ちました。  申し訳ございません。愚生の勘違いでございました。 > ▲ “官製不況”  ☆ これは残念ながら同じ水準でお話できるまでには丹念に新聞記事や詳細な解説をたどって来ていません。新聞記事の全部を読むことをやめてからもう十年以上経っています。  愚生も、約15年ばかし、新聞はとってもいませんし、読んでもおりません。別段必要に迫られたということもなかったものですから。  ですが、グリーンスパン氏の件などよくご承知でいらっしゃいますね! > わたしの勉強とそこからの発信が 手応えがないので 意欲が薄れた結果です。そういうかなしい経過をたどっています。  全く恐れ入ります。愚生などは何も申し上げられることはございません。 > これも全体観がないまま考えたことならあります。  また電気製品や自動車が商品として飽和状態になるといった事態も 需要の量が限度を超えて増えない。つまり 経済のパイを大きくすると言っても 限度があるのではないか。これは 勝手に思っています。  全く仰るとおりかと存じます。人口減少社会になってしまったこと、また一昔前のようにローンを組んで高額のものを購入しなくなったこと(できなくなってしまったこと)が主な原因かと考えております(国民の給与所得等の統計概略を以下に記載させてもらっております)。自動車もキャッシュで購入したひとも、知人(20代)の中におりました(職業の安定性で問題があったからとのことでした。もちろん、高級車等は買っていないそうです)。つい先ほどまでの日本の景気(特に、自動車産業等)はアメリカ人に依存していたようでございます。ですが、今やアメリカ人も不動産が差し押さえられるかどうかという状況ですから..... 「日本では、小泉政権の新自由主義的政策でもある労働者派遣法の規制緩和により、企業側は派遣社員を急増させたこともあり、国税庁の民間給与実態統計調査によれば、1997年の労働者の平均給与は467万3000円、年収200万円以下の労働者は814万1000人、労働者全体の17.9%であったが、2007年には平均給与は437万2000円に減少、年収200万円以下の労働者は1032万3000人、労働者全体の22.8%へと増加した。2008年には世界金融危機の影響もあり、小泉内閣以降急速に増加した大量の派遣社員や非正規社員が解雇され、給与だけでなく住居も奪われる(寮から追い出されるため)という事態に発展した。」 ソース:http://ja.wikipedia.org/wiki/新自由主義   > ですから バブルがはじけるのは ふつうの出来事なのだと考えます。  オランダのチューリップバブルはじめ、”バブル発生ーバブル崩壊” の繰り返しの歴史だったように思われます。そして今も新たなバブルを作り出しているようでございますが.....  ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。以降は、愚生の方も新たに立てられたスレッド<洗礼>の方にお邪魔させていただきたいと思っております。  今後とも、よろしくお願い申し上げます。

bragelonne
質問者

補足

 こちらこそよろしくお願い申し上げます。  Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。    経営学を専攻した割りには もっともっと経済学をまなんでおけばよかったとくやむ今日この頃です。  新聞をとっていらっしゃらないのですか。インターネットなどで情報を得ておられるのですね。いちどそうしようかと思ったこともありましたが まだなんとなく紙のほうになじみがあります。  ★ 新自由主義  ☆ けっきょくのところ 所得の最低限を保障しようとする《ベーシック・インカム》という考え方が出て来ているようですが もしそのようなセーフティネットが敷かれれば いろんな主義の経済政策が情況とその流れに応じて現われて来ても いいかとさえ思ったりします。  でもそうはならない仕組みのようですね。  ▲ (ヰキぺ:新自由主義)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  新自由主義では、方法論的な人間類型が規範化され、すべての個人が整えられた舞台の上で競争しうる原理的な市場主体となるよう、現実の人間を、利己的かつ合理的に行動して自己利益の極大化を図り、自己責任を受け入れる原子的個人に作りかえられようとする。これにより各人は、新古典派経済学が前提する人間類型を受容することが求められるようになる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ でもゆくゆくは資本主義も 行き着くべきところに辿り着いて うまくいけば落ち着きを持つのではないかとも思うのですが どうなりますか。  ふつうの経済生活としての勤勉資本主義とそして この勤勉を目的化してしまうガリ勉資本主義とに分けて捉え 後者からのわるい影響を前者が最小限にくいとめることの出来るような社会経済制度を夢見たこともあったかなというところです。ところが  ▲ (同ヰキぺ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  新自由主義は、『聖書』や『コーラン』にも似て、新古典派経済学の教科書にある教義に対する信仰を深めて原理的に実践すれば、その経典に優雅な数式で描かれている経済成長と均衡という至福の救いが地上に訪れると唱えているのであり、その点で新自由主義は宗教的な様相をも帯びている、という見方もある 。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なんですね。竹中平蔵の発言ぶりは そのようですね。  またあらたなスタートですね。

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