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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい》)

カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい

noname#117439の回答

noname#117439
noname#117439
回答No.80

オコリザルです。 A86に、さらに補足です。 信仰とは非思考であるとの見解にご本人は答えを見いだせなかったのでしょうか? 聞きかじりはしたでしょうね。 これが件の回答者様の歩んでいる道のり。 無神に徹する非思考です。 今回の回答は読んでくれているんでしょうかねー。 偶然の一致ですが神については人様に聞けないゆえに、このように時効が成立してからの分析です。 信教の代筆はできません。 分析ならかろうじてできます。 だからこそ、答えを求めた当事者には、分析が我が事として響くのではないでしょうか。 宗教の場では答えを求めすぎて人様をあてにしすぎますね。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。このご投稿についても No.86でのやり取りにてお応えし得ているのではないでしょうか。  考えてみれば  ★ 信仰とは非思考である  ☆ から出発するなら   ○ その信仰の教義化は すでに《思考》が入って来ていますし その《経験的な思考》がその内容の――すべてとは言わないまでも――基軸に成るという体制に変わってきている。  ☆ こう考えられます。しかも  ○ この教義にもとづいて人間と人間の関係やまじわりをいとなんで行こうというわけですから そこでは当然のごとく 《人間のあやまち得る思考と判断》によって《非思考なる信仰つまりは それを基にした人格》をあたかもさばく(裁く・捌く)という行為にまで到らないとも限らない。  ☆ このような情況がまづ必然的に現われます。問題でしょうね。わたしは《犯罪行為》ではないかとさえすでに言っています。  つまり 信仰の教義化の時点で 人格にかかわる問題の発生に注意しなければならないでしょうし これを組織化するなら――これはそのあとの運営の問題というのではなく―― やはりその時点で 信仰はすでにおのれの自殺行為であると知って 宗教と化し組織の中にみづからの死骸を横たえるものと思われます。  どうでしょう?

bragelonne
質問者

補足

 オコリザルさん この欄をお貸しください。  No.92 littlekiss さんの問い “ Q:儒教は宗教か? ”について述べ残したことを書かせてください。  重要なことをひとつ忘れていました。  ○ 無神論も非思考の信仰の一種である。  ☆ ということがらです。《儒教》という言葉で苦手意識がただよって へっぴり腰になっていました。  ですから 経験思想を語っていても その背後にと言いますか そのみなもととして 信仰が息づいているということは ふつうにあり得ます。  この信仰は 非思考ですから 隠れています。そのままを分かろうとすることは むつかしいものです。――もしどうしても思考で捉えられるかたちにしてくれということであれば その非思考においてあたかも捉えているかに思われる《無根拠なるなぞ》が 存在する(有神論)か存在しない(無神論)かの二つに一つとして仮りに表現されるというものです。  無神論も 非思考なのです。《無神》という名の《かみ》なのです。ただしその《無神》という名で仮りに捉えたあとは もう省みることなく放っておくという信仰態度になります。つまりは あとはすべて経験思考にかかわることがらを扱うということです。  したがって哲学や経験思想をもっぱら扱っていても そこに信仰は 隠れたかたちで息づいていることがあり得ます。ぎゃくに言って 信仰を有神論として仮りに人間の言葉によってさまざまに説明するという場合にも 《その実質が非思考の信仰であるもの》と そして《ふつうに語る経験的な思想であるもの》とは きちんと区別されています。  したがって問題は やはり《信仰》とそして《その教義化さらには組織化としての宗教》との区別にあると考えます。  わたしは宗教は そもそも無効だと考えますが これまでにはあったし今もあります。ので信仰との区別だけはしっかりすべきであると考えます。  さて儒教は どうでしょうか? 孔子やほかの聖人が祀られていたとしても それはもし経験思想の範囲におさまると見るのであれば 信仰として無神論であり あとはそのまま倫理つまり人間関係のあり方を問う思想であると見なせるかも知れません。  仏教も ブッダが神ではないという無神論に立つとするならば 経験思想であると自称すべきだと考えます。浄土信仰(阿弥陀仏=神という有神論)を別として そのように無神論をきちんと標榜するなら よほどすっきりとした形態のひとつの思想であることになります。  あと 倫理つまり 生活において常に動いている生きた思想態度とは別に そこでは 規範化する動きもあります。倫理規範つまり道徳と成る。そしてこの規範をあたかも神とする場合も出てきます。  《和を以って貴しと為す》というふつうの思想が 倫理規範とされこれを神とするならば あたかもこの言葉を聞くとただちに(つまり条件反射のごとく)だまる。おとなしくなる。という人心操縦術がまかりとおります。  呪文のごとくなります。《けんかをしてはいけない》というあたま(その観念)がひとを規定します。通常は規制し得ています。これも宗教でしょうね。  この宗教の弊害は もはやひとりの人間の内面における非思考の息吹き これが押さえつけられてしまうというものです。ですから経験的な思惟においても 新しい思想が出にくいということになります。  ぎゃくに捉えるなら しもじもの者よ 空気を読めというデーモン電波が そこら中に飛び交っているという状態です。宗教=まつりごとが 政治というまつりごとになるという現実であり社会です。  いまでは 《殻に閉じこもっている》という精神=身体の問題が出てきているのではないでしょうか? 世界が国家をひとつの単位として動いている頃は まだよかった。むしろまとまりが非常によろしかった。今ではもう旧い殻になっていると思います。  数ある宗教も 今では もう要らないただの殻だと思います。蚕にとっての繭とも言ってきました。どうでしょうか?

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