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カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい
noname#117439の回答
オコリザルです。 A84のお礼を読んでなんとなく考えた事ですが、信仰を扱う組織でも営利企業などその他の組織と特別変わらないのではないかと考えます。 特別扱いしなくてもいいのではないかと。 学校の先生に当たりはずれがあるように、集会場で采配を振るうお坊さん次第ではないかと考えます。しかしながら、良い師に恵まれないからと言って自らの信仰が真っすぐにならないと嘆くなら、そんな泣き言なら、単なる甘ったれ根性で、聞く耳持たないでいいでしょう。 そんな甘ったれはどこの門をたたいても一緒です。 そんななら、おバカさんでしょうから、金を払えば何とかなるのではないかと、信仰の有料サービスに行きつくでしょう。 たちの悪い新興宗教の事です。 愚痴になりますが、おらっちを弟子にしてくださいと、師を選ぶことは、名指しされて先生候補にされた当人にとってはとりすがりです。 露骨に信仰を題材として扱った場合とんでもないことです。 要するに神様の代わりにされることですから、とんでもない事態になって当然です。 そうすると采配を振るうお坊さんとはどのような心がけなんでしょうね。 職分として成り立っているので、この答えのわかる達者な方もいるでしょうに。
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おはようございます。ご回答をありがとうございます。 そうですね。 ★ 信仰を扱う組織 / お坊さん ☆ と ★ 学校の先生 ☆ との違いが いちばんの問題でしょうね。 ○ そのひとの存在じたいであると思われる信仰の問題を ほかのひとから指図されることは 人格の無視にかかわるおそれがある。 ☆ という問題です。《学校の先生》の場合には かろうじてその中核としての信仰を――つまりは信教・良心の自由を――侵すものではないという大前提が敷かれています。 あるいは ★ おらっちを弟子にしてくださいと、師を選ぶこと ☆ この場合には つまりこの場合にもやはりふたつの形態がありますね。信仰を基軸としてまじわりを持つか否かです。 これまでにもすでに触れていますが この場合も 一対一の対話を基軸とした交通(まじわり)の形態であれば――それだけであって 組織でなければ―― 互いの人格のすべてでつきあうというものですから 問題ないとも言えます。たとえ信仰をふたりのあいだでいちばんの関心事としていても だいじょうぶだと言えるかも知れません。人間の《自由》は そこまでは許容範囲だと思います。(たとえば著書をつうじてその表現内容に人格も信仰もまったく従うという場合も 自由ですから)。 もっと言えば 組織の中にあっても この一対一の人格どうしの自由な対話というのであれば 問題は限りなく無いに近いと思われます。これを言いかえれば いわゆる上司であっても 部下のひとの人格に触れ これを自分と同じく尊重しそこからまなぶという姿勢であれば 組織があっても 差し障りも出て来ないかも知れません。 けれどもこのように行くというのは 無理でしょうね。なぜなら その身分関係は 信仰の組織であれば 信仰の深い浅いやそれを基にした人格の出来に応じてあてがわれているということになっています。誰からも自由にまなぶというのであれば その権限=身分の関係はなくても済むということです。 事務的な連絡などの係としてのみその役割があるというのであれば 信仰の組織も 問題なくいとなまれていくかも知れません。でもこれはたぶん ただの空想に過ぎないでしょう。というわけで ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 要するに神様の代わりにされることですから、とんでもない事態になって当然です。 そうすると采配を振るうお坊さんとはどのような心がけなんでしょうね。 職分として成り立っているので、この答えのわかる達者な方もいるでしょうに。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そういった・これはという投稿をまだもらっていないと言えるでしょうね。