- ベストアンサー
カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい
noname#131234の回答
ごめんなさい ハートマインドさんの心遣いに、ショックを受けています。 見る人さえきづつけてしまう私は、いけないこだったのかもしれません。 もうこれ以上孤独なひとをいじめることはしません。ごめんなさい。 ハートマインドさんありがとう。 本当に感謝しています。 (今の職分を変えることはないと思いますが…)
関連するQ&A
- 《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。
まづ信教・良心の自由にもとづく個人の信仰は別問題です。(わたし自身 信じている側ですらあります)。 要するに《現人神なり》と言っています。これは 哲学あるいは市民の常識からは どう扱うのでしょう。経験合理性には明らかに反しています。あいまいにし 放っておくのでしょうか。一定の見解を明らかにしないでしょうか。 なお 非合理ゆえに我れ信ずは 個人の信仰のことですから 別問題です。 けっきょく なぜ ゆるされているのですか。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。
《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。 まづ前提として 信教・良心の自由にもとづく個人の信仰は別問題です。(わたし自身 信じている側ですらあります)。 要するにこの命題は 《現人神なり》と言っています。《神が人となった》と。これは 哲学あるいは市民の常識からは どう扱うのでしょう。 経験合理性には明らかに反しています。(あるいは 超えています)。あいまいにし 放っておくのでしょうか。一定の見解を明らかにしないでしょうか。 なお 非合理ゆえに我れ信ずは 個人の信仰のことですから 別問題です。 けっきょく なぜ ゆるされているのですか。 具体的には 教科書をとおして――いまどう書かれているか知らないで言うのですが 触れているはずでしょうから―― 子どもたちにどのように説明するのですか。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 聖書とは 何か?
関連するすべての質問についてこの初めの問いをしておけば 問い求めが分かりやすくなるのではないか。 初めということは しばしば終着駅における結論になるとも考えられますが ともかく出発してみます。 むろん哲学としての問いです。 たたき台としては: (1) 信仰とは何ぞやという問いについて 答えている。 (1-1) たとえば 《信仰が与えられるのは 血筋によってではなく 友情や義理人情など生活上のかかわりによってではなく あるいは人間の意志や努力や学識によってでもなく 無根拠においてである》と。 (1-2) たとえば 《理性や知識あるいは知恵によってではなく ひとは 信仰によってあゆむ》と。 哲学としては 《無根拠によって》という意味になるかと考えます。 (2) その信仰の対象である神は 非経験であり非対象である。ゆえに 無い神をいだくのも――つまり無神論も―― 信仰である。 (2-1) 《無い神》と《神は存在するというときの有る神》とが 《人間と非経験とのかかわり》としてその人の非思考なる姿であるという類型において互いに同じ信仰形態である。 (2-2) つけ添えるなら 《有る神》のその名も それが何であっても まったく問わないということ。名前の違いには 意味がない。 (2-3) 言いかえると 聖書は 新約聖書に到って そのアブラハム以来の神を経験世界の背景にしりぞかせた。 (2-4) 神は 良心と信教の自由なる公理にうちにみづからの身を隠した。言いかえると おのおの主観内面におさめられた。 (2-5) (ただし その主観の自己表現として 神の話をするなということではなく してもよいし それは 説明責任をともなった表現の自由にもとづきおこなわれる)。 (2-6) 無い神の話と有る神の話とが 同列にあつかわれる。 (2-7) いわゆるもろもろの民族宗教も 以上のような扱い方のうちに揚棄されて行く。 ☆ いろんな角度から捉えられていくかと考えます。ご回答の内容について 納得できるように質問者はたずね返してまいるかと思います。その点 つけ添えます。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- わたしが神様だったら
世界には様々な宗教がありますが、私は最近、神を信じている人が多いということに疑問を抱くようになりました。 人間は、答えがほしいけれども見つからないので、全知全能の神を創造し、不安感を埋めるために神を信じるのではないかと、私は解釈しています。 神は人間に自由意志を与えたそうです。それは神の愛なのだそうです。 私がもし神なら、人間が安心して暮らせるような、ある程度の規制をする。 戦争で罪のない人が死んでしまうような現在の世界では、自由意志のない人がいる。 そんな世界なんて、私が神だったら作らない、と思っていました。 先日、このようなことをキリスト教を信仰している方に伝えると、「言っている事がよく分からない」と言われました。 そんな時、チャットモンチーの「世界が終わる夜に」という曲を聴きました。 「わたしが神様だったらこんな世界は作らなかった」という歌詞があります。 あなたが神様だったらどのような世界を創造しますか? あなたの理想の世界を教えてください。 また、宗教を信仰している方や神を信じている方がこの曲を聴くと、どのように感じるのでしょうか。 思ったことを教えてください。 視聴 http://www.towerrecords.co.jp/sitemap/CSfCardMain.jsp?GOODS_NO=1584525&GOODS_SORT_CD=101 http://www.chatmonchy.com/disco/index.html 歌詞 http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=A02270
- ベストアンサー
- アンケート
- 我が神について語ってしんぜよう。
私は仏と言う言葉を現代語に直すと人間と言う言葉だと思っていてな。 天啓のごとく悟った人間と言う言葉のそのような尊さを信じ、人と人が信じあう事こそ信仰だと考えていた。 多くの人々はひとを信じようとしない。 したがってこのように歩む道のりは困難であった。 しかし最も深い闇において、それでも信じると心が固まった時、光が舞い降りた。 仏教で言う無量光である。 それは神について知ろうとしなかった私にとって、神と名をつけることすらできない、無垢で純粋な光であった。 しかし私はその光と通じる事によって、私の方から、あえてその光をアマテラスと呼ぶ事を選んだ。 その光は本来、名も無き光であり、神と言う言葉すらも遠ざけるその無垢さが、すなわち無神論と言う信仰の在り方である。 以上は仏を信じ神を信じないとはおおむねこのような論理であると考えて構成しました。 このような哲学はキリスト教に由来した西洋の哲学とは別に、地に足の付いた哲学をしようと志していまして、宗教的な話とは違う趣旨手ご質問差し上げています。 信仰心を明晰な理性のまな板の上で料理するとするとあなたならどのような考えが浮かびますか
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- 技術の発展と神への挑戦
抽象的な表現、宗教も絡んだ内容で大変恐縮なのですが、質問させて下さい。 私個人としては、技術の発展・社会の発展は、神話や宗教の中で度々神への挑戦として戒められているように思ってます。 バベルの塔などが良い例で、下記の記事を見ると技術の発展は神からの怒りを買ってしまうのではないかとドキリとするのです(ちなみに私はこんな事を書いておきながら仏教徒です)。 http://japan.cnet.com/news/com/story/0,2000056021,20060011,00.htm 技術を発展させてはいけないのではないかという自制が働く事に関して、何とか自分の中で折り合いをつけて消化したいのですが、先人達がこのような事に対してどう思っていたのか知りたかったので質問させて頂きました。 ・宗教上の理由から抵抗はあったのか ・それともなかったのか ・理由をつけたり、解釈を添える事により消化したのか などなど・・・。 ガリレイは宗教の信仰心よりも、自らの理論への確信が大きかったが為に地動説を唱えたのだと思っています。その時に自分の中に抵抗は無かったかどうかという所も気になる所ですが・・・話しがそれました。 上記以外にも、現在のアメリカで宗教上の理由から電気・ガスを使わない村があったり、究極的にはエホバの証人は信仰の時間を学習に充てる事を憚れる為進学ができないという部分もあったりします。 逆にユダヤのタルムードでは、教育こそが大事だと言っていますね。 こうした宗教の信仰と科学の発展について、科学史から見た宗教上の葛藤や解釈(神は人に対して「世に満ちよ」と言ったのだから、その手段としての科学的発展は認められる)などの例、あるいはこれらを上手く体系的にまとめたり、思想として固められているような書籍等、ご教授頂ければ幸いです。 また何か思う所などございましたら、「技術の発展に抵抗はあるかどうか」などについてのご意見などもお待ちしております。 宜しくお願い致します。
- ベストアンサー
- 歴史
- 再考: 《神は死んだ》か?
○ 神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論 第十章 《神は死んだ》のか ▲ (ヰキぺ:神は死んだ) ~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AF%E6%AD%BB%E3%82%93%E3%81%A0 (あ) 神は死んだ(かみはしんだ、独:Gott ist tot, 英:God is dead)は、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの言葉として、ニヒリズムを表す言葉として広く引用される言葉である。 (い) ニーチェは、キリスト教的な神や価値観が、プラトン的な形而上学的真実在、超越的な彼岸世界への信仰が消滅して、現実の生・世界が無価値・無意味になり、ヨーロッパが歴史的に危機状況にあることを、神は死んだ(も同然だ)ということばで表した。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 問い‐1. 《ニヒリズム》とは どういう思想ですか? (う) こう問うわけは 虚無志向というのは あくまで往復の道があって 当初はその虚無の国行きだけの片道だと思っていたとしても けっきょくには 復路もあるとなるはずではないか。だから いったいそれとして言わば独立した思想があり得ますか? という問いです。 問い‐2. 《神》は 果たして《死ぬ》ものか? つまりいつか・どこかで《生まれた》ものか? きわめておかしな表現であると考えられるのだが どうか? (え) 《価値観が消滅する》という意味で《死ぬ》と使っても むろんおかしくはありませんが。 問い‐3. この場合に《現実の生・世界が無価値・無意味になり》というのも おかしな表現(思惟)ではないか? (お) なぜなら もしそれがほんとうだとしたら 《キリスト教的な神や価値観が〔無いところでは あるいは〕、プラトン的な形而上学的真実在、超越的な彼岸世界への信仰》が無かった土地とそこに暮らす人びとにとっては もともと昔から《現実の生・世界が無価値・無意味》であったとまわり回って言っていることになる。のではないか? そんなバカな話があるのでしょうか? 問い‐4. ▲ (い) ・・・ヨーロッパが歴史的に危機状況にあることを、神は死んだ(も同然だ)ということばで表した。 ☆ だからと言って 《超人・大地・大自然》を あらたな神のごとくに持ち出せばよいというものではない。はずだ。どうか?
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 《アルケーの神と一体となる》ことは・・・
一般に《信仰》のむくいは 神を見ること。だと思われます。 つまり 《真理がすべてにおいて――あなたにとって――真理であること》。これの成就だと思われます。 《真理は きみたちを自由にする》と。 ○ 《アルケーの神を感じる》ことをとおしてゆくゆくは《アルケーの神と一体となること》は 言うところの《真理の探究》における《見返り》なのではないですか? これが問いです。 《見返り》という言葉がわるかったでしょうか。《むくい》という意味で使っています。 つまり この問いに対して □ 断じて 見返りではない。 という答えが返って来ています。みなさんは どうお考えになりましょうか?
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
お礼
そう言えば アグリッパくんもその職分を受け持っていたようだ。 歯が立たないのでわたしから遠ざかったのではなかったのか。 それともアグリッパくんは その職分をまっとうしうるほど情を押さえることは出来なかった。しようとしなかった。のか。 えらくそのあいだが空いてしまってから あんたが来たようだが 成り手がなかったのか。 ところでその職分は 志願したのか。それとも雇われなのか。 どうでもいいが わたしに通用すると思っているの? ハートマインドさんも どこか喰わせ者の一面が顔をのぞかせている。それとも 共演なのかい。 ま いづれにせよ 現在の世界 いまは日本 これの変革を主張する結果になる哲学の主題を問い求めているので そういう職分マンが担当で来ることになるのだろうか。雇われだとすれば そういうことになる。 世の中 こういうものか。と言って 分かっていなかったわけでもない。忘れたころに 引き継ぎの子が現われるから 独り言でも言ってみようかと。