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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい》)

カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい

SOLAR_RAYの回答

  • SOLAR_RAY
  • ベストアンサー率21% (12/56)
回答No.37

β1.明らかに一日の長があると見た場合 ◇1.気の利いたやり取りもしくは言い回し、あるいは枝葉末節の知識の有無において、「一日の長があると見た」ということで理解しました。 β2. ☆ これは もう覚えていません。ですが いま読み返してみると あなたはまさしく応答を望むなら 金を支払えと言い出している。 ◇2.それは違うと思う。その投稿のあとすぐに締めたのではないことは、私が覚えている。  それに、単に「金を支払え」といったのではなく、「別の質問を持ち出されても、それは今現在の自分の問題でないからボランティアはできません。自分の問題でしょう。どうしても対応して欲しいなら相応の金額を振り込んで下さい」と、「やんわりと断った」のです。しかし、そのまま受け取るほど、生真面目(?)であるとは思いもよらなかったことです。 β3.もうやり取りをつづける意志がないも同然だとわたしは採ったのだろうと いま考えます。 ◇3.そのように採ったのは、「いま」考えた ということですね. β4.これは 次の投稿への応答で それをわたしが感じた文章を示しました。言い方が悪かったかも知れない。ただこのように 一たんやり取りはじゅうぶんだと思ったあと 思い留まったのは そういう《見立て》を持ったからであることは 残念ながら ほんとうです。 ◇4.↓これですね。  β0.何と言いますかねぇ。質問者のほうは そんなことを言えば《世間知らず》とか《お人よし》と言われるであろうけれど それでも希望のようなものを持ちましょうと言っているのだと考えるからです。  ま 現実主義だと言えば言えそうですが。  ◇4-1.この《見立て》についての返答は  「キリストはその活動においては徹底的な現実主義だっただろう。」   と答えておく。 β5.★ また、聖書を読んだことのない人間に、馴染みのない聖書などを引用するのは余り適切であるとは言えないだろう。  ☆ たしかにそれは 注意すべきことである。もし文脈を知らなければならないという場合には たしかに無視されてもわたしは何も言えないかも知れない。  言いかえると わたしの引用の文章だけで その趣旨が明らかになって主題についての問い求めに参考になるというのであれば 使えるかも知れない。というところでしょう。 ◇5.自分の言葉でないなら、誰をも導くことは出来ないはず。 β6.○ brag6.(ヨハネ福音15:18~19) ~~~~~~~~~   世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。 あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これに対して  ◇ 哀れみを覚えた場合はどうですか?  ☆ という意味ですか? そのままを表明すればよいと思いますよ。 ◇6.「これ(引用した文章)」に対してではなく、引用すること自体に対してです。しかし、それも今となっては「その瞬間においては」ということになります。 β7.意志はかえって保留として 事実およびこころの真実のみを答えました。 ◇7.私の質問における「我が名における有罪判決」は取り消します。基本的に、まじめに対応してきたということは理解できました.  私は過去、未来の誰でもないことだけは言っておきます。勘違いしないで下さい。

bragelonne
質問者

補足

 SOLAR_RAY さん 応答のかたちを表わすべきだとすれば 次のようにお応えします。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ◇7.(あ) 私の質問における「我が名における有罪判決」は取り消します。基本的に、まじめに対応してきたということは理解できました.  (い)私は過去、未来の誰でもないことだけは言っておきます。(う)勘違いしないで下さい。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (い)がよく読みとれていないのですが 最後の一文(う)は 訂正を経て  ★ わだかまりは解けました.  ☆ ということだそうです。もしこの表明がすべてをまとめているとすれば もうこちらから応答は要らないだろうと思ったというのが まづわたしの第一応答でした。  それでも たとえそうであっても 事後的にでも振り返っておくことが大事だとすれば 祭りのあとの発言として一点を述べます。  これは 決して あとの祭りというように 言っておくべきだったのにという性質のものではありません。祭りのあとに中立のかたちで振り返るものです。  ★ ◇5.自分の言葉でないなら、誰をも導くことは出来ないはず。  ☆ という反応を例にとって述べます。この文つまりひとつの判断は けっきょく 《自分の言葉ではなく他の者の文章を引用するときにも すべてを自分の言葉の中に無理なく含むかたちで 自分の言葉として議論をすることができる》場合を除外しています。《自分の言葉でない文章を引用して 自分のことばにしたかたちで ひとを導くことは出来ます》。つまり早い話が 部分的な反論に過ぎないのだって 反論には 最終的なかたちでは なっていないわけです。  このようなゆるゆる反論であるということが誰の目にも明らかなのに わざわざこのように相手の言い分を否定する一文をただちに返しておくというくせ これをめぐって わたしは迷ったわけです。  はじめは 何らかの――自己による自己のを含めて――洗脳の結果 その自説を固く守るがゆえにその自己防衛のために つねに一言相手を否定しておくのだろうと思ったわけです。  それが ひょっとすると そうではないかも知れないと考えなおしたということです。世の中のきびしい現実を果敢無み人間不信に陥っているその結果であるかも知れないというものです。  後者であるなら わたしも気を持ち直して 対話を続けねばならない。こう考えたという経過のことです。  これをさらにどう受け止めるかは分かりませんが ひととおり言っておくと 一段落の仕方が分かりやすくなるかも知れない。こういうことです。  ところで 余興のごとくとして。  ★(え) 「キリストはその活動においては徹底的な現実主義だっただろう。」  ☆ と答えることができるあなたと  ★(お) 聖書を読んだことのない人間に、馴染みのない聖書などを引用するのは余り適切であるとは言えないだろう。  ☆ と言い放つあなたとは どちらに重きが置かれているのですか? (お)のほうなら 引用を控えなければならない。

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     一般に《信仰》のむくいは 神を見ること。だと思われます。  つまり 《真理がすべてにおいて――あなたにとって――真理であること》。これの成就だと思われます。  《真理は きみたちを自由にする》と。   ○ 《アルケーの神を感じる》ことをとおしてゆくゆくは《アルケーの神と一体となること》は 言うところの《真理の探究》における《見返り》なのではないですか?  これが問いです。  《見返り》という言葉がわるかったでしょうか。《むくい》という意味で使っています。  つまり この問いに対して   □ 断じて 見返りではない。  という答えが返って来ています。みなさんは どうお考えになりましょうか?