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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい》)

カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい

noname#135843の回答

noname#135843
noname#135843
回答No.31

 こんばんは、ご返答いただきましてどうもありがとうございました。Hidocchiです。   > 襞をかき分け病原菌を見つけようという探究では鋭く迫って行かれます。それでもなかなか一筋縄では行かないということのようにも見受けられました。    確かに、一筋縄ではいかないようでございます。 「病原菌を見つける」? もしかしますと、愚生の専門がお分かりのようなのですね。やはり、文言には出さずとも、お分かりになる方には、わかるものなのですね。 > わたしは まだ思弁的に観念の分野で考えているかも分かりません。  いえいえ、思弁的観念の洞察力の深さはbragelonne様の真骨頂でございます。愚生などは足元にも及ばないと思っております。 > 生徒は疑問を持つものです。これを掲げさせていただきます。  もしかしますと、bragelonne様が“生徒”ということでしょうか? 愚生にはそのようなお教えできるようなものはもってはおりません(一応、先生と言われる職には就いてはおりますが)。ですが、微力を尽くしたいと思っております。  (1) 結社の自由 > ☆ ドイツは政治団体でなければ 宗教団体としての結社の自由は認められていると受け取っていましたし アメリカでも条文の規定がなくても自由なのだと採ったのですが それとは別に ご見解があるということですね。  どうなのでしょう。制限する・許可が必要だとするということでしょうか?     別段、深い意味はございません。ただ、以下のサイトの「問題点」の箇所では、「アメリカやドイツでは宗教活動に実質的に関連したものだけに限り優遇措置を適用するとしており、実際に優遇する際にはその団体が政治団体化、営利団体化しているかなどを審査するという」という記述が見られます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99%E6%B3%95%E4%BA%BA%E6%B3%95  実際、アメリカでも、宗教法人(religious corporation)は州等の認可が必要のようでございます(以下サイトをご参照くださいませ)。ただ、“アメリカでは、「結社の自由」を、わざわざ憲法にて条文化するほどのレベルの問題ではないと 考えられている。”と愚生は解釈致しております。従いまして、日本においても、憲法に盛り込む必要性はないものと思っております。 http://en.wikipedia.org/wiki/Religious_corporation  「Often these types of corporations are recognized under the law on a subnational level, for instance by astate or province government.」 > (3) 《信者を教化育成すること》  ★ 実を申しまして、この《信者を教化育成する》という言葉には、愚生も幾分、不快感を持っております。と申しますのも、必然的に、”直接内面にまで押し入ってしまう”から でございます。  ★ 13条に抵触する可能性が大きいと考えられるからでございます。  ▲ 憲法第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。  ☆ 十三条につきましては その規定が総括的でそのぶん抽象的であるように見受けますが かえって一般性をもってその《自由》はきびしいものがあると見るべきでしょうか。  これも愚見なのですが、信仰といった内面に潜在しているものにつきましては、その個人の人格面、また行動面の、両面において、かかわりを持っていると思うのです。従いまして、十三条の“個人”≒“信仰に培われた個人” と解しております。  つきましては、当然“信仰”と共に尊重されなくてはならない と考えている私大でございます。 > ☆ これにつきましては 同感です。《よく学力がついたね》と声をかけるのと 《信仰が深まったね / きみの信仰はゆがんでいるよ》と継続的に権限関係をともなって言い渡すのとでは どうも違うと思われるのです。褒めた場合でも 人格内面に土足で踏み入るという意味で内政干渉になるように思います。  信仰ではなく経験思想としてなら 深まった・片寄ったなどと批評しあってもよいと思います。 まさしく、仰るとおりかと存じます。 > ▲ 日本の経済、大丈夫? / 今の日本は危機的状況  ☆ という言葉を出しているようですね。非力を感じます。  この数値を見ますと、決して、明るい将来を日本で描くのは非常に困難かと思いました。No.34の回答者様が「哀れみを覚えた場合はどうですか?」との記述を見た際に、ふと次の言葉が頭をよぎりました。 ルカ 23章28節 イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。」  単なる気のせいであればいいのですが.....  ご一読いただきまして。厚くお礼申し上げます。

bragelonne
質問者

補足

 むつかしいですね。  今回は 特別に議論の分かれるところもないように思われ――あぁ Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます―― 日本経済のことも一般的な話であるはずでしょうから それほど議論の分かれる問題であるよりも施策にかかわるものとも思えるのですが 放っておける性格のものでもなく 何だかうっすらとした閉塞感のごとき・いくらか停滞感のような雰囲気が漂わないでもない。そんなまえがきを要請しているようにも感じました。  いつぞやほかの方の質問においてでしたか 環境ホルモンについて研究なさっているとか。病原菌は それででした。  ★ ただ、“アメリカでは、「結社の自由」を、わざわざ憲法にて条文化するほどのレベルの問題ではないと 考えられている。”と愚生は解釈致しております。従いまして、日本においても、憲法に盛り込む必要性はないものと思っております。  ☆ 分かりました。自由は自由なのですね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  これも愚見なのですが、信仰といった内面に潜在しているものにつきましては、その個人の人格面、また行動面の、両面において、かかわりを持っていると思うのです。従いまして、十三条の“個人”≒“信仰に培われた個人” と解しております。  つきましては、当然“信仰”と共に尊重されなくてはならない と考えている次第でございます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あぁ そういう含みなのでしたか。逆に言うと・そして極論して言うと 信仰がなければ個人は互いに――社会の全体的な観点からは―― 《〈掛け替え〉が効く》とさえ見られる方向へ片寄るのかも知れません。と思いました。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・No.34の回答者様が「哀れみを覚えた場合はどうですか?」との記述を見た際に、ふと次の言葉が頭をよぎりました。  ルカ 23章28節 イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。」  単なる気のせいであればいいのですが.....  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これにつきましては 評言が出て来ません。はりつけにされる直前での発言ですよね。  ううーん。思いきって感じているところを述べますと たぶん十字架上に去ったあとでは その発言内容をどう捉えればよいかを思案するような話になる。こう思いました。つまり定まった中身を捉え難い。こうも感じています。  ペテロが鶏が鳴く前に三度イエスのことを否定すると言われていてそのとおりになった。これは イエスが去って復活したあとでは 意味がなくなるのではないけれど 過去のペテロ(つまり代表して弟子たち)の姿にかかわるものとなると思います。  おおまかに言って この婦人たちへの言葉も はりつけ前のペテロへの予言と同じような性質のもののように 思いたい気持ちがあります。  でも 意味が分からないための言い訳であるかも知れません。どうでしょう。  きょうは 所信表明の演説がありました。

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