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カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい
SOLAR_RAYの回答
- SOLAR_RAY
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brag1.《裁判官》であるなら 判決文を示しなさい。ほかのところの文章ぢゃ恥づかしいよ。 ◇理由は書いている。良く読みなさい。痴漢をして恥ずかしいのはおまえである。 brag2.裁判官であってもなくても 口先だけの文章からは卒業しなさい。 ◇痴漢行為(に該当する)の常習犯が、自分で言う言葉ではない。 brag3、質問を《締める》のとあんたに《あばよ》とは別のことだ。 ◇それでは、まずおまえから見本を示せ。私の質問に「出て」こないとでも言うのか? brag4.《発酵》という言葉が適切でなかったなら意を汲んで受け取りなさい。 ◇「意を汲め」とは浅ましい人間が自分で言う言葉ではない。 brag5.泣いているのか。 ◇自分の心情を表しているようで。
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補足
SOLAR_RAY くん きみは――ほかのところで知ったのだが――そうとう人間不信に陥っているようだね。 ただ洗脳されているだけだと思っていたが 少し解凍が必要なようだ。 たとえばきみは 破廉恥だとか痴漢ということばを出すが いちど次のような議論によく耳を傾けて考え抜いてみたまえ。得るものがあるはずだ。 ▲ (アウグスティヌス:情欲について) ~~~~~~~~~~~~~~ だから 魂は 善き意志によって 私的なものとしてではなく 公共的なものとしてこのようなもの(*)を愛するすべての人によっていかなる偏狭や嫉みなく清らかな抱擁によって所有される 内的なもの 高みにあるものを捉えようと自分のためであれ 他者のためであれ 気遣うなら 時間的なるものの無知によって――魂はこのことを時間的に(* 相対的な価値判断によって)為すから――或る点で誤り そして為すべきようになさなくても それは 人間の試練に他ならない。私たちが いわば帰郷の道のように旅するこの人生を 人間にとって常なる試練が私たちを捕捉するように送ることは偉大なことである。 * 《このようなもの》とは 端的には 情欲です。一般化して 《理想のようなもの あるいは 理念とその美 これらのたぐいを みづからに心地よい観念としての想像をとおして その表象に自分 から依り憑いていく心の片向き つまりは その弱さ》です。 それは身体の外にある罪であって姦淫とは見なされず したがってきわめて容易に許されるのである。 しかし 魂が身体の感覚をとおして知覚したものを得るために そしてそれらの中に自分の善の目的をおこうとして それらを経験し それらに卓越し それらに接触しようとする欲望のために或ることをなすなら 何を為そうとも恥ずべきことをなしているのである。 魂は自分自身の身体に対して罪を犯しつつ姦淫を行なう。また物体的なものの虚妄の像を内に曳き入れ 空虚な思弁によって それらを結合し その結果 魂にとってこのようなものが神的にさえ見えるようになる。 自己中心的に貪欲な魂は誤謬に満たされ 自己中心的に浪費する魂は無力にされる。しかも魂はこのように恥ずべき 惨めな姦淫に はじめから直ちにとびこむのではなく 《小さなものを軽蔑する人は次第に堕落する》(『集会の書=ベン・シラの知恵』19:1)と聖書に記されているようになるのである。 (アウグスティヌス:『三位一体論』中澤宣夫訳 12・10) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ○ 【Q:情欲は 罪ですか(続編)】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4172511.html 宿題である。