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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい》)

カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい

noname#135843の回答

noname#135843
noname#135843
回答No.19

 こんばんは、ご返答いただきましてどうもありがとうございました。Hidocchiです。   > ○ 思想・良心の自由 と 信教・良心の自由  ☆ につきましては したがって 信教・良心の問題領域とそして思想を含むそのほかの領域というふうに分けたいと思いました。 > いまは信仰内面の問題に限りたいと考えます。  了解致しました。  ”結社の自由”は以下の原本(1946年版)の「association」から来ているようでございます。いっそのこと、この「association」を削除してしまってもいいのではないかと思った次第でございます。必要な他の団結等は28条で保障されていますし、またこの” 結社の自由”が条文化していない国もあるからでございます。いかがでしょうか? Article 21.    Freedom of assembly and 「association」 as well as speech, press and all other forms of expression are guaranteed.    No censorship shall be maintained, nor shall the secrecy of any means of communication be violated. ソース:http://homepage3.nifty.com/constitution/materials/econst.html  > さて宗教団体ですが ひとつの定義を掲げていただきました。  ▲ 宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成する  これは、宗教法人法 2条をそのままコピーペーストしたものでございます。もう少し、わかりやすく明記しておくべきでした。深く反省しております。 宗教法人法:http://www.houko.com/00/01/S26/126.HTM  以下の著作に逐条解説が付記されているようでございます。 渡部蓊著 「逐条解説 宗教法人法」出版社: ぎょうせい; 第4次改訂版版 (2009/06)  著者は元文科省(全国的宗教法人の許認可庁)の役人さん、また出版社の沿革から、ほぼ政府の公式見解といってもいいのかもしれません。ただ、高価であったため、購入は控えさせていただきました。大きい本屋さんで、中身を見てみたいと思っております。  ですが、せっかくのコメントを頂戴したため、愚見を、お許し願いたく存じます。なお、繰り返しになりますが、愚生は、”結社の自由”には同意しない者でございます。 > (1) 《教義をひろめる》ことは すでに信仰内面の領域から外に出かけている。なぜなら 教義は概念をとおして表象しうることがらを扱っている。それは それそのものとしては いわゆる信念になる。観念にかかわっている。信仰は観念になる以前の段階を言う。――だから それゆえに 結社が自由だと見なされているのでしょうか?  おそらく、キリスト教で申しますと、”聖書”の普及もしくは、その一節の普及活動のようなものかと考えております。「観念になる」前段階の単なる”知識”、”活動の基礎概念”といったことかと解釈致しております(あくまで愚見でございます)。従いまして、この言葉のみでは、あまり支障は来さないものと思っております。  > (2) 《信者を教化育成する》ことは もし上の教義を介してなのだと言われれば それは外面における社会行為の問題にとどまるという弁解が成り立つかに思われます。内面における良心や信教を直接には問わないのだという弁明です。――だからこそ結社は自由なのでしょうか?  実を申しまして、この《信者を教化育成する》という言葉には、愚生も幾分、不快感を持っております。と申しますのも、必然的に、”直接内面にまで押し入ってしまう”から でございます。 > ☆ 最もいぢ悪く見た場合には この人格への刷り込みやその誘導が おしえのためには 自由だという内容を 《結社の自由》は構造的に(つまり偶然的にではなく必然的に)認めているのではないかと疑われることです。  全く、「いぢ悪く」はないと察せられます。13条に抵触する可能性が大きいと考えられるからでございます。愚生は、日本国憲法の中では、13条が最も重要な条文と考えております(愚生は、原則”改憲派”ですが、当13条につきましては、残しておくべきかと考えております)。  繰り返しになってしまいますが、“宗教法人法”に関しまして、その歴史的経緯等から調査していく必要性を再認識した次第でございます(ですが、これらの詳細な情報は、ウェブでの検索は困難のように察せられました)。 > * きのう(きょうの早朝)朝まで生テレビで 若者の問題を扱っていましたが そこで東浩紀が 直接政治制について語っていました。つまり納税・歳出の管理や監視にもからめてでした。  ご覧になっておられたのでか。  愚生も途中からではございましたが(30分遅れ)で見ました。まづ、東氏の説明能力に は驚きました。ただ、「有権者からの選択の余地が少なすぎる(ネットからの直接民主制導入案)」といった趣旨の発言をされていましたが、選挙制度の点から、困難であるかと思われました(将来のことは分かりませんが、日本は、かような大選挙区制には移行しないと思っております)。他の田原氏から左側に座っておられるひとたちは、内容自体にはそんなに違和感のあるものはございませんでしたが、あまり巧くはなかったような......  左側のぱん『がんばれ とはいわないでくれ」 との発言がありましたが(発言者は誰だったかは忘れてしまいました)、東氏の解説が加わることにより他のひとたちも、納得するようになってったからでございます(30から40歳の自殺者数が上昇しているため、愚生には、ある程度、意味するところは理解できましたが)。  ですが、年収200万のひとが1000万人以上と聞いたときには、驚かされました。愚生も確認をとってみましたが、事実のようでございます。 http://news.ameba.jp/trend-gyao/2008/09/18348.html   ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

補足

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。さすが 襞をかき分け病原菌を見つけようという探究では鋭く迫って行かれます。それでもなかなか一筋縄では行かないということのようにも見受けられました。  わたしは まだ思弁的に観念の分野で考えているかも分かりません。  生徒は疑問を持つものです。これを掲げさせていただきます。  (1) 結社の自由  《 association 》でしたか。ヨーロッパ風の言葉に感じています。アメリカではどう言うかいまは感覚が鈍くなっていますが これでしたら ほとんど《社会(また会社)》と同じ意味であるようにも思いました。  ★ なお、繰り返しになりますが、愚生は、”結社の自由”には同意しない者でございます。  ☆ ドイツは政治団体でなければ 宗教団体としての結社の自由は認められていると受け取っていましたし アメリカでも条文の規定がなくても自由なのだと採ったのですが それとは別に ご見解があるということですね。  どうなのでしょう。制限する・許可が必要だとするということでしょうか?   宗教団体につきましては 次に移ります。  (2) 《教義をひろめること》  ★ おそらく、キリスト教で申しますと、”聖書”の普及もしくは、その一節の普及活動のようなものかと考えております。「観念になる」前段階の単なる”知識”、”活動の基礎概念”といったことかと解釈致しております。   ☆ 但し書きとしては 〔新約〕聖書が編まれるまでは 口伝えの伝道だったわけです。そしてその場合は 《教義》といった固定したものではなく 人間としての一対一のかたちにおける信仰ないし人格全体の対話だったと捉えられます。  聖典の普及ないしその知識のひろまりと見なすということのようですね。  (3) 《信者を教化育成すること》  ★ 実を申しまして、この《信者を教化育成する》という言葉には、愚生も幾分、不快感を持っております。と申しますのも、必然的に、”直接内面にまで押し入ってしまう”から でございます。  ★ 13条に抵触する可能性が大きいと考えられるからでございます。  ▲ 憲法第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。  ☆ 十三条につきましては その規定が総括的でそのぶん抽象的であるように見受けますが かえって一般性をもってその《自由》はきびしいものがあると見るべきでしょうか。  ★ 必然的に、”直接内面にまで押し入ってしまう”  ☆ これにつきましては 同感です。《よく学力がついたね》と声をかけるのと 《信仰が深まったね / きみの信仰はゆがんでいるよ》と継続的に権限関係をともなって言い渡すのとでは どうも違うと思われるのです。褒めた場合でも 人格内面に土足で踏み入るという意味で内政干渉になるように思います。  信仰ではなく経験思想としてなら 深まった・片寄ったなどと批評しあってもよいと思います。  (4) 直接民主制  これは――かんたんに触れるのみですが―― 選挙制度としては 東氏も言っていましたが 規模の問題があるようですね。  公共のことがらについては やはり原則として 情報は言うに及ばずその結果に到る議論と議決の過程をも公開するのがよいと考えます。  ★ 年収200万のひとが1000万人以上と聞いたときには、驚かされました。愚生も確認をとってみましたが、事実のようでございます。  ▲ 日本の経済、大丈夫? / 今の日本は危機的状況  ☆ という言葉を出しているようですね。非力を感じます。

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