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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい》)

カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい

noname#131234の回答

noname#131234
noname#131234
回答No.14

質問者様は、基本的に「自分に物理的/幼稚な精神的アドバンテージがないと生きていけない」方のようですな。 貴方の広めようとしている伝道しようとしている教えは、「分不相応ぢゃ!もっとくれ!」という 「むさぼりの思想」です。 1「脳内むら=ヤマトだまし」の教え I)国家に対し 自分(質問者様)が物理的に行ってきたこと= 内ゲバ民主主義・お上は「いらネ」と一揆の首謀者としてごそごそ活動。(デブ麻原のように自分は安全なところ=袋小路に隠れている) 自分へのアドバンテージ =自分が金をもらえること・金は組織からもらう・他人は自分に従うだけ。自分が従わないのは自由。使える老人サービスは全て享受する。自分は馬鹿丸出しだからといって、自戒はしない。賢い人とは逆の生活ぶり。 2「かみたま」の教え II)宗教に対し 自分(質問者様)が物理的に行ってきたこと= これまで信仰がある人を馬鹿にしてきた。 人生の90%以上において、信仰のある人間が理解できず、頭のおかしい人とレッテル張りをしてきた。 しかし!死が近づくに連れ宗旨替えし、不敬な態度をとっている人間でも救われるという「宗教形態」を探し求め、キリスト教と浄土真宗に行き着く。 手のひらを返したように敬虔ぶった態度(猿真似)をとる。笑止千万な浅知恵信仰。終戦直後、エセ経済学生(卒業は疑問)のカタルシス。 自分へのアドバンテージ =救い。とにかく信仰期間が最短で救いが得られる。リスクのミニマライズ。自分さえ救われればよい。 3「ぢぢ」の教え III)家族に対し 父親不在。ギャングエイジからの卒業はいまだにない。幼児性を克服できないまま、今にいたる。 庇護はしないが、他者には絶対服従を要求。 あまりの赤ん暴君振りに縁者は一人また一人と去る。 介護はしてもらえると確信していたが、勘違いであることが判明。 それゆえ「暴れん坊はいつも孤独なもの」と現実逃避を始める。 家族はいないと思い始める。(イソップ物語「狐と葡萄」参照のこと) 自分へのアドバンテージ =何もしなくてよい。ただ怒って、なまけていればよい。 家事は女の仕事。 人間の種類を「手下」と「それ以外」に分けることでストレス解消・自分はえらいという幻想に浸ることが出来る。 「自分の不道徳」は、問題としなくてよい。そのいい訳には困らない。 涎教皇主義の貫徹。「いじめっ子の自我」を満足させることができる。「自分はいじめられている」という「ファンタジー小説」が、面白くてしょうがない。 ということです。あんまり怒ると体に毒ですよ。土曜日なのですから、友達と近場に外出などして、気晴らしをしてください。 おおっと! あっすみませんでした。脳内ムラの友達と言い換えさせてもらいます。 (はっははらいてええゲロゲロ)

bragelonne
質問者

補足

 nananisse = owlsjp = SOLAR_RAYさん 今回は考えたようですね。今回はあたまを使いましたね。  ★ 質問者様は、基本的に「自分に物理的/幼稚な精神的アドバンテージがないと生きていけない」方のようですな。  ☆ そう見えることには一理があります。要するに お山の大将でいないと生きていけないアマテラス族に抵抗するわたしの発言の中身においては そのアマテラス族のそういう態度と気持ちが わたしの文章をとおして映り出ている。  次も同じ原理です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  貴方の広めようとしている伝道しようとしている教えは、「分不相応ぢゃ!もっとくれ!」という  「むさぼりの思想」です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 分かりますよね。  あとはどうだろう。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  これまで信仰がある人を馬鹿にしてきた。  人生の90%以上において、信仰のある人間が理解できず、頭のおかしい人とレッテル張りをしてきた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これはきちんと腑分けして説明しておかなくちゃ。  わたしが《信仰》をいちばん重んじていることはわかるはずでしょう。ただし一般に《信仰が篤い》とか《敬虔なクリスチャン》とか言う場合には たいていおとなしくてつねに教会にかようといった描像ではないだろうか。そのような外面――表情としての表面を含めて外面――については 信仰とは別だと言っている。その意味では  ★ これまで信仰がある人を馬鹿にしてきた。  ☆ と言えるかも知れない。引用したあとの一文は余分です。存在をわざわざ評価することはしない。犯罪者だとか哲学者だとか宗教家だとかと規定しない。する必要がないから。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  自分へのアドバンテージ  =救い。とにかく信仰期間が最短で救いが得られる。リスクのミニマライズ。自分さえ救われればよい。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 即身成仏 つまり 回心は一瞬ですよ。ただし刺さっていたとげが抜かれたことを意味するのだが その患部が癒えていくのには時間がかかる。そういうことです。  ひょっとして きみに刺さっていたとげは抜けたのかな。  ★ ギャングエイジ  ☆ って?  ★ 父親不在。  ☆ はかれに心理的な葛藤があったので 或る意味で図星。ただし ふくざつ。ひとことでは語れぬ。  ★ 庇護はしないが、他者には絶対服従を要求。  ☆ どうも どうやら きみはわたしに惚れたようだな。よほどわたしから命令を与えて欲しいのかな。  ○ 対等。自由な連帯。自由。自由。三四も自由。五も自由。そして日本人は もっと自由に。もっともっと自由に。もっともっともっと自由に。  ☆ 庇護も服従もわしゃ知らん。  ★ 自分へのアドバンテージ =何もしなくてよい。ただ怒って、なまけていればよい。  ☆ わたしの《怒り》に反応したな。《なまけている》のは しんどいだろう。《何もしなくてもきみたちが自由で自由に世界にはばたいているのなら よい》。  ★ 「自分の不道徳」は、問題としなくてよい。そのいい訳には困らない。  ▲ その罪が覆われるひとはさいわいなり。  ☆ 他人を撃たなくてもよいと心得よ。  ★ 「いじめっ子の自我」を満足させることができる。「自分はいじめられている」という「ファンタジー小説」が、面白くてしょうがない。    ☆ わたしは いぢわるの名人と言われる。いじめも いじめられも わしゃ知らん。  ★ あんまり怒ると体に毒ですよ。  ☆ わたしが怒るというのは その相手なり時には事象なりが 怒って欲しいという状態にあるときです。わたしは弱くても きみたちが強いなら喜ばしい。

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