• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい》)

カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい

noname#135843の回答

noname#135843
noname#135843
回答No.10

ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。 > ★ 裁判員制  また、マニアックな内容になってしまい、こちらこそ申し訳ございませんでした。 > ★ 納税  ☆ にかんしましては その使い道について一般市民納税者がどこまで関与することができるか。これがさしあたっての課題でしょうか。あるいは政治家を介しての間接的な関与ということになるでしょうか。  予算案の作成、つまり、総収入(=税金、近年では、国債にも頼っている状況ではございますが)を、国民の利益・国益を考え、いかにその収入(=税金)を割り振るかというのは、政治家の最も重要な仕事かと考えております。従いまして、納税者も、納税意識をもっと持ってもいいのではないか と思ったりも致します。 > ☆(ω‐1)  この為政者を介してかどうかを別として 《宗教団体に対して国民が縛りをかける》という側面については どうなんでしょうか。一たん自由意志において入会したなら 退会するのでない限り その組織内でのやり取りは 信仰内面の論議であっても 自由であるということになるでしょうか? これは前質問を受けての課題です。 (1)憲法からです  一般には、「為政者 対 私人」の構図から成り立つようでございます。では、「私人 対 私人」の場合では、原則、憲法は適用されないようでございます(間接適用説、無適用説)。以下にその判例を列記してございますが、ともに、「私人 対 私人」の争いについては、私法を用いる との判決が下されています。従いまして、“宗教法人(宗教団体)”も法的には私人扱いとなりますので、憲法から攻めるのは困難かと考えております。従いまして、ケースバイケースにより、民法(契約法)から判断せざるをえないかもしれません。 “三菱樹脂事件”(「思想・信条の自由」を問題とした判例です) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%8F%B1%E6%A8%B9%E8%84%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6 “昭和女子大事件”(「人権」を問題とした判例です) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A5%B3%E5%AD%90%E5%A4%A7%E4%BA%8B%E4%BB%B6  ですが、幾つかの疑問もございます。「結社の自由」でございますが、例えば、アメリカ合衆国憲法には、それを謳った条文が存在しません。ただ、修正1条を準用するという形で、実際の裁判判決が下されているようでございます。また、ドイツでも、その自由については、厳しく制限を課しているようでございます(以下のサイトをご参照くださいませ)。 “結社の自由”の“ドイツ”の項目からでございます http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E7%A4%BE%E3%81%AE%E8%87%AA%E7%94%B1 「合衆国憲法 修正第一条」 連邦議会は、国教を樹立し、あるいは信教上の自由な行為を禁止する法律、または言論あるいは出版の自由を制限し、または人民が平穏に集会し、また苦痛の救済を求めるため政府に請願する権利を侵す法律を制定してはならない。  もしかしますと、この“結社の自由”も考えなおされるときが来るかもしれません。例えば、労働組合等の“結社”には、憲法28条があり、他の条文にて保障されているからです。 (2)宗教法人法からです  「2条 この法律において「宗教団体」とは、宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成することを主たる目的とする左に掲げる団体をいう。」  と かような条文が存在します。  そもそも、“宗教法人法”に関しまして、その歴史的経緯等から、矛盾を探していくしかないかとも考えております。  ご参考になれず、まことに心苦しいのですが、以上が、現時点での愚見でございます。  ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

補足

 Hidocchi さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ううーん。やはりむつかしいようですね。  まづ 結社の自由にかんして わたしはやはり信仰を教義として基軸とする宗教団体とそしてそのほかの結社とに分けたいと思いました。  ○ 思想・良心の自由 と 信教・良心の自由  ☆ につきましては したがって 信教・良心の問題領域とそして思想を含むそのほかの領域というふうに分けたいと思いました。かんたんに言って 内面と外面とです。結社の自由につきましては 宗教団体をめぐって内面の問題がからみます。そのほかは外面です。  ですから取り上げていただいたところの  ★ “三菱樹脂事件”(「思想・信条の自由」を問題とした判例です) / “昭和女子大事件”(「人権」を問題とした判例です)  ☆ につきましては 外面における社会行為の問題であると捉えました。その意味は 前者の結着の仕方が  ▲ 訴訟上の和解  ☆ であったというところにも現われていると考えるのですが それは けっきょくは相対的な妥当性の綱引きであると見えたからです。へたをすると 力関係の綱引きにもなりうるようだとです。  その意味は ここではこれら外面の自由の問題は直接には扱わないと思いました。ですからとりあえずは  ★ 「結社の自由」でございますが、例えば、アメリカ合衆国憲法には、それを謳った条文が存在しません。ただ、修正1条を準用するという形で、実際の裁判判決が下されているようでございます。また、ドイツでも、その自由については、厳しく制限を課しているようでございます。  ☆ これらふたつの事例を挙げていただいたのですが そしてそれらはそれとしておもしろそうなのですが いまは信仰内面の問題に限りたいと考えます。と言っても アメリカもドイツも――ドイツは政治団体の制限のようですから―― 宗教団体は自由に結社できるということのようです。  さて宗教団体ですが ひとつの定義を掲げていただきました。  ▲ 宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成する  ☆ というとき 問題点をふたつ取り上げます。  (1) 《教義をひろめる》ことは すでに信仰内面の領域から外に出かけている。なぜなら 教義は概念をとおして表象しうることがらを扱っている。それは それそのものとしては いわゆる信念になる。観念にかかわっている。信仰は観念になる以前の段階を言う。――だから それゆえに 結社が自由だと見なされているのでしょうか?  (2) 《信者を教化育成する》ことは もし上の教義を介してなのだと言われれば それは外面における社会行為の問題にとどまるという弁解が成り立つかに思われます。内面における良心や信教を直接には問わないのだという弁明です。――だからこそ結社は自由なのでしょうか?  ☆ したがいまして ふたつともわたしのおそれは 人格にまで触れて教義を教え込まれることはないかです。人格を左右するまでに信者を育成することはないかです。最もいぢ悪く見た場合には この人格への刷り込みやその誘導が おしえのためには 自由だという内容を 《結社の自由》は構造的に(つまり偶然的にではなく必然的に)認めているのではないかと疑われることです。  * きのう(きょうの早朝)朝まで生テレビで 若者の問題を扱っていましたが そこで東浩紀が 直接政治制について語っていました。つまり納税・歳出の管理や監視にもからめてでした。

関連するQ&A

  • 《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。

    まづ信教・良心の自由にもとづく個人の信仰は別問題です。(わたし自身 信じている側ですらあります)。 要するに《現人神なり》と言っています。これは 哲学あるいは市民の常識からは どう扱うのでしょう。経験合理性には明らかに反しています。あいまいにし 放っておくのでしょうか。一定の見解を明らかにしないでしょうか。 なお 非合理ゆえに我れ信ずは 個人の信仰のことですから 別問題です。 けっきょく なぜ ゆるされているのですか。

  • 《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。

    《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。  まづ前提として 信教・良心の自由にもとづく個人の信仰は別問題です。(わたし自身 信じている側ですらあります)。  要するにこの命題は 《現人神なり》と言っています。《神が人となった》と。これは 哲学あるいは市民の常識からは どう扱うのでしょう。  経験合理性には明らかに反しています。(あるいは 超えています)。あいまいにし 放っておくのでしょうか。一定の見解を明らかにしないでしょうか。  なお 非合理ゆえに我れ信ずは 個人の信仰のことですから 別問題です。  けっきょく なぜ ゆるされているのですか。  具体的には 教科書をとおして――いまどう書かれているか知らないで言うのですが 触れているはずでしょうから―― 子どもたちにどのように説明するのですか。

  • 聖書とは 何か?

     関連するすべての質問についてこの初めの問いをしておけば 問い求めが分かりやすくなるのではないか。  初めということは しばしば終着駅における結論になるとも考えられますが ともかく出発してみます。  むろん哲学としての問いです。  たたき台としては:  (1) 信仰とは何ぞやという問いについて 答えている。  (1-1) たとえば 《信仰が与えられるのは 血筋によってではなく 友情や義理人情など生活上のかかわりによってではなく あるいは人間の意志や努力や学識によってでもなく 無根拠においてである》と。  (1-2) たとえば 《理性や知識あるいは知恵によってではなく ひとは 信仰によってあゆむ》と。 哲学としては 《無根拠によって》という意味になるかと考えます。  (2) その信仰の対象である神は 非経験であり非対象である。ゆえに 無い神をいだくのも――つまり無神論も―― 信仰である。    (2-1) 《無い神》と《神は存在するというときの有る神》とが 《人間と非経験とのかかわり》としてその人の非思考なる姿であるという類型において互いに同じ信仰形態である。    (2-2) つけ添えるなら 《有る神》のその名も それが何であっても まったく問わないということ。名前の違いには 意味がない。  (2-3) 言いかえると 聖書は 新約聖書に到って そのアブラハム以来の神を経験世界の背景にしりぞかせた。  (2-4) 神は 良心と信教の自由なる公理にうちにみづからの身を隠した。言いかえると おのおの主観内面におさめられた。  (2-5) (ただし その主観の自己表現として 神の話をするなということではなく してもよいし それは 説明責任をともなった表現の自由にもとづきおこなわれる)。  (2-6) 無い神の話と有る神の話とが 同列にあつかわれる。  (2-7) いわゆるもろもろの民族宗教も 以上のような扱い方のうちに揚棄されて行く。  ☆ いろんな角度から捉えられていくかと考えます。ご回答の内容について 納得できるように質問者はたずね返してまいるかと思います。その点 つけ添えます。

  • 神とは何ですか?

    902さんの質問「神は死んだ。」のなかで神の定義が話題になっています。 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=75125 「神を信じますか」という問いは、よくもちだされますが、問う人も 問われる人も、神という言葉の意味・定義・解釈・語感が、まったく まちまちであるという感想を昔から持っていました。 皆さん、神とは何だと思われますか。 学問的な答え、個人的な考え、もちろん宗教的な教えも、 なんでもいいです。いろいろ聞かせてください。

  • わたしが神様だったら

    世界には様々な宗教がありますが、私は最近、神を信じている人が多いということに疑問を抱くようになりました。 人間は、答えがほしいけれども見つからないので、全知全能の神を創造し、不安感を埋めるために神を信じるのではないかと、私は解釈しています。 神は人間に自由意志を与えたそうです。それは神の愛なのだそうです。 私がもし神なら、人間が安心して暮らせるような、ある程度の規制をする。 戦争で罪のない人が死んでしまうような現在の世界では、自由意志のない人がいる。 そんな世界なんて、私が神だったら作らない、と思っていました。 先日、このようなことをキリスト教を信仰している方に伝えると、「言っている事がよく分からない」と言われました。 そんな時、チャットモンチーの「世界が終わる夜に」という曲を聴きました。 「わたしが神様だったらこんな世界は作らなかった」という歌詞があります。 あなたが神様だったらどのような世界を創造しますか? あなたの理想の世界を教えてください。 また、宗教を信仰している方や神を信じている方がこの曲を聴くと、どのように感じるのでしょうか。 思ったことを教えてください。 視聴 http://www.towerrecords.co.jp/sitemap/CSfCardMain.jsp?GOODS_NO=1584525&GOODS_SORT_CD=101 http://www.chatmonchy.com/disco/index.html 歌詞 http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=A02270

  • 我が神について語ってしんぜよう。

    私は仏と言う言葉を現代語に直すと人間と言う言葉だと思っていてな。 天啓のごとく悟った人間と言う言葉のそのような尊さを信じ、人と人が信じあう事こそ信仰だと考えていた。 多くの人々はひとを信じようとしない。 したがってこのように歩む道のりは困難であった。 しかし最も深い闇において、それでも信じると心が固まった時、光が舞い降りた。 仏教で言う無量光である。 それは神について知ろうとしなかった私にとって、神と名をつけることすらできない、無垢で純粋な光であった。 しかし私はその光と通じる事によって、私の方から、あえてその光をアマテラスと呼ぶ事を選んだ。 その光は本来、名も無き光であり、神と言う言葉すらも遠ざけるその無垢さが、すなわち無神論と言う信仰の在り方である。 以上は仏を信じ神を信じないとはおおむねこのような論理であると考えて構成しました。 このような哲学はキリスト教に由来した西洋の哲学とは別に、地に足の付いた哲学をしようと志していまして、宗教的な話とは違う趣旨手ご質問差し上げています。 信仰心を明晰な理性のまな板の上で料理するとするとあなたならどのような考えが浮かびますか

  • 神道の神様は英語で

    神道の神様は、八百万の神と言うだけあって沢山いますよね。 アメリカ人に、日本には800万の神様(god)がいると説明したら、 「800万人それぞれが違う神様を信仰しているのか?」と驚かれました。 ※実際には、私は八百万とは「沢山」と言う意味だということは承知していますが(笑) 恐らく、アメリカ人は、1宗教につき1神しかいないと、考えるからだと思います。つまり日本には800万通りの宗教があると解釈したのでしょう。 そこで、日本のような多神教の神はどのように表現したらよいでしょうか。

  • 技術の発展と神への挑戦

    抽象的な表現、宗教も絡んだ内容で大変恐縮なのですが、質問させて下さい。 私個人としては、技術の発展・社会の発展は、神話や宗教の中で度々神への挑戦として戒められているように思ってます。 バベルの塔などが良い例で、下記の記事を見ると技術の発展は神からの怒りを買ってしまうのではないかとドキリとするのです(ちなみに私はこんな事を書いておきながら仏教徒です)。 http://japan.cnet.com/news/com/story/0,2000056021,20060011,00.htm 技術を発展させてはいけないのではないかという自制が働く事に関して、何とか自分の中で折り合いをつけて消化したいのですが、先人達がこのような事に対してどう思っていたのか知りたかったので質問させて頂きました。 ・宗教上の理由から抵抗はあったのか ・それともなかったのか ・理由をつけたり、解釈を添える事により消化したのか などなど・・・。 ガリレイは宗教の信仰心よりも、自らの理論への確信が大きかったが為に地動説を唱えたのだと思っています。その時に自分の中に抵抗は無かったかどうかという所も気になる所ですが・・・話しがそれました。 上記以外にも、現在のアメリカで宗教上の理由から電気・ガスを使わない村があったり、究極的にはエホバの証人は信仰の時間を学習に充てる事を憚れる為進学ができないという部分もあったりします。 逆にユダヤのタルムードでは、教育こそが大事だと言っていますね。 こうした宗教の信仰と科学の発展について、科学史から見た宗教上の葛藤や解釈(神は人に対して「世に満ちよ」と言ったのだから、その手段としての科学的発展は認められる)などの例、あるいはこれらを上手く体系的にまとめたり、思想として固められているような書籍等、ご教授頂ければ幸いです。 また何か思う所などございましたら、「技術の発展に抵抗はあるかどうか」などについてのご意見などもお待ちしております。 宜しくお願い致します。

  • 再考: 《神は死んだ》か?

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第十章 《神は死んだ》のか  ▲ (ヰキぺ:神は死んだ) ~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AF%E6%AD%BB%E3%82%93%E3%81%A0  (あ) 神は死んだ(かみはしんだ、独:Gott ist tot, 英:God is dead)は、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの言葉として、ニヒリズムを表す言葉として広く引用される言葉である。  (い) ニーチェは、キリスト教的な神や価値観が、プラトン的な形而上学的真実在、超越的な彼岸世界への信仰が消滅して、現実の生・世界が無価値・無意味になり、ヨーロッパが歴史的に危機状況にあることを、神は死んだ(も同然だ)ということばで表した。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~    問い‐1. 《ニヒリズム》とは どういう思想ですか?   (う) こう問うわけは 虚無志向というのは あくまで往復の道があって 当初はその虚無の国行きだけの片道だと思っていたとしても けっきょくには 復路もあるとなるはずではないか。だから いったいそれとして言わば独立した思想があり得ますか? という問いです。   問い‐2. 《神》は 果たして《死ぬ》ものか? つまりいつか・どこかで《生まれた》ものか? きわめておかしな表現であると考えられるのだが どうか?  (え) 《価値観が消滅する》という意味で《死ぬ》と使っても むろんおかしくはありませんが。    問い‐3. この場合に《現実の生・世界が無価値・無意味になり》というのも おかしな表現(思惟)ではないか?  (お) なぜなら もしそれがほんとうだとしたら 《キリスト教的な神や価値観が〔無いところでは あるいは〕、プラトン的な形而上学的真実在、超越的な彼岸世界への信仰》が無かった土地とそこに暮らす人びとにとっては もともと昔から《現実の生・世界が無価値・無意味》であったとまわり回って言っていることになる。のではないか? そんなバカな話があるのでしょうか?  問い‐4. ▲ (い) ・・・ヨーロッパが歴史的に危機状況にあることを、神は死んだ(も同然だ)ということばで表した。  ☆ だからと言って 《超人・大地・大自然》を あらたな神のごとくに持ち出せばよいというものではない。はずだ。どうか?

  • 《アルケーの神と一体となる》ことは・・・

     一般に《信仰》のむくいは 神を見ること。だと思われます。  つまり 《真理がすべてにおいて――あなたにとって――真理であること》。これの成就だと思われます。  《真理は きみたちを自由にする》と。   ○ 《アルケーの神を感じる》ことをとおしてゆくゆくは《アルケーの神と一体となること》は 言うところの《真理の探究》における《見返り》なのではないですか?  これが問いです。  《見返り》という言葉がわるかったでしょうか。《むくい》という意味で使っています。  つまり この問いに対して   □ 断じて 見返りではない。  という答えが返って来ています。みなさんは どうお考えになりましょうか?