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キルケゴール
こんばんは キルケゴールの実存思想について教えてください 神の前での実存となぜ神が出てくるのかについても教えてください。 よろしくお願いします。
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ご参考になればと思い、筆をとらせていただきました。 (各言葉の定義) 「実存」(goo国語辞典から) 実存主義で、特に人間的実存をいう。個別者として自己の存在を自覚的に問いつつ存在する人間の“主体的な”あり方。具体的状況にある人間の有限性・不安・虚無と、それを超越本来的な自己を求める人間の運動。自覚存在。 「実存主義」(goo国語辞典から) 人間の実存を中心的関心とする思想。 (第一次世界大戦を終えた頃、大量殺戮等による荒廃し切ったその悲惨極まる惨劇を目の前にして、機械文明によって進歩を遂げたかと思われた理性的世界観に対し、疑問を抱くようになりました。ヤスパース、ハイデッガーらがその担い手でした。そして、その源流として、特にヤスパースはキルケゴールに注目したかと記憶しています) (1)キルケゴールの実存思想について キルケゴールは、従来の高所から語られるような客観的体系ではなく、自分の生に直接関わってくる哲学、自分の体験したこと、不安、感じたこと等の“主体的な”あり方 を哲学の対象としました。 (2)神の前での実存について キルケゴールの生きた時代は、社会の大衆化が進行していました(実際、彼も”大衆批判”を頻繁にしましたし、また大衆紙からも叩かれもしました)。その中で、ひとは、単なる取替え可能な存在でしかないのでは、という不安を持ってしまいました。 そのような社会の潮流に対して、万人に承認された真理よりも、「私にとって真理であるような真理を発見し、私がそれのために生き、そして死にたいと思うような イデー(理念)を発見することが肝要」だと考えたわけです。自分の存在に無関係に成立する「客観的真理」よりも、自分の存在と直接重要性を持つ「主体的真理」の方が大切ではないか、と考えたのです。 そこで、キルケゴールは、自分の奥底を見ることができるのは自分だけで、そういったひとを「単独者」と名づけました。そして、自分の魂を見つめたとき、自分よりも上位に位置するもの、つまり、神の前に立っていることを感じ、(何か失望しているときには)その目には見えない何かに対して動揺しており、また目には見えないが、それは確かに実存しているのだと考えました。 そのような畏怖・畏敬を感じる存在こそ、キルケゴールは神だと考えました。絶望の底にいたって、自分の魂と神は接することができると そう考えたのです。 (3)なぜ神が出てくるのかについて 上記内容に加え、生まれた頃からキリスト教徒であったこともその理由の一つかと思います。ですが、彼の「単独者」としての直接的な立場は、従来の教会を通した間接的な神への信仰とは異なるものでした。また、彼の葬儀にあたり、長い参列者が出来たそうですが、教会関係者からの参列はなく、貧しい一般市民が多数だったそうです。 ご参考になれば、幸いでございます。
- hyuuma8579
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キルケゴールは、人間とは何かと自問し、「人間は精神である。精神とは何であるか。精神とは自己である。自己とは何であるか。自己とは自己自身にかかわる一つの関係である。」と答えている。 それでは、このような関係を措定した者は誰か。それは自己以外の第三者でなければならず、それがすなわち神であるということです。 したがって、本来的な自己とは神の前に立つ自己のことなのである。 ところが、本来神と関係を結んで生きなければならない人間が、神から離れてしまった。そのいきさつは『不安の概念』の中に、創世記(旧約聖書)の物語を分析しながら、次のように書かれている。 初めにアダムは平和と安息の状態にいたが、同時にそれは「不安」な状態であった。神がアダムに「善悪を知る木から取って食べてはならない」と告げられたとき、アダムの中に自由の可能性が目覚めた。そして、この自由の可能性がアダムを不安の極に陥れた。 そしてこの自由の深淵をのぞきみることによって、「めまい」を感じて、自己にとりすがった。そこに原罪が成立したというのである。 その結果、人間は自己自身に対する関係のうちに分裂が起こり、「絶望」に陥ってしまった。ところが人間は、絶望を何か自分の身に降りかかってくるもののように思って、自分自身の力で絶望を取り除こうとする。けれども、それでは決して絶望を取り除くことはできない。 信仰によって神との関係を回復することによって、本来の自己関係を取り戻すことができ、絶望から逃れることができると解いたわけです。 彼は、「公衆は一切であって無である。あらゆる勢力のうちで最も危険なもの、そして最も無意味なものである」といって、大衆の無責任さと良心のなさを批判した。 そして人間が真の人間性を実現するためには、非人間的な大衆の世界から離れて、単独者として、ただ一人で神の前に立たなくてはならないと主張した。 そして彼は人間が本来的な自己に帰っていく段階を実存の三段階として次のように説明しました。 第一段階は、美的実存の段階である。(・・・あれもこれも) この段階の人間は、ただ直接的にあるがままに感性的な要求に従って、機智をもって生きようとするのであり、人生の目的は享楽である。これはエロス的愛を追求する審美家、誘惑者の立場である。 しかし、享楽の瞬間は継続して反復することは不可能であり、倦怠と不安にとらわれる。そこで人間は挫折し、絶望するが、決断によって次の段階に向かう。 第二の段階は倫理的実存の段階です。(・・あれかこれか) この段階の人間は、良心に従って、善悪を判断基準として生きようとする。即ち責任感と義務感をもって善良な市民として生きようとする。しかし、人間はいくら努力しても、全く良心に従って生きることはできない。そこで彼は挫折し絶望する。そして決断によって次の段階に向かう。 第三の段階は、宗教的実存の段階である。 信仰をもって、神の前にただ一人で立つことであり、その時初めて人間は真の実存となる。この段階に入るには飛躍が必要である。 それは、知性では理解することができない逆説(パラドックス)を信じることによって可能である。 たとえば永遠なる神が有限な時間の中で受肉し、人間となって現れたというような非合理的なことを信じるということである。 そういう飛躍を通じて、初めて真に神との関係を回復することができるのである。 アブラハムが人倫に反する神の命令に服従して、息子イサクを供え物として捧げようとした(=刃物で殺そうとする)行為は、宗教的な生の典型とされた。 そうして、神を中心とした実存、すなわち本来の自己になった人間と人間が、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」というイエスの言葉に従って、神を媒介とした愛によって愛し合うとき、そのような「愛のわざ」によって真の社会が成立するというのである。 キルケゴールは、人間が本来の姿を回復するためには、大衆の虚偽と闘って神に立ち返らなくてはならないと言った。それは、社会の迫害や嘲笑を耐えながら神にまみえようとした彼自身の歩みを反映したものであった。 彼は27歳の時、レギーネ・オルセンを愛し婚約したが、結婚によって彼女を不幸に陥れるのではないかという不安のために、また恋愛よりも次元の高い愛を実現しようとして、一方的に婚約を破棄した。 そのため彼は社会的に非難されることとなったのであるが、彼は神を中心とした人格を完成した上で、神を中心とした真なる男女の愛を実現することを願ったと見ることができる。 単独者としてひとり神の前に立つという彼の人間観は、真摯であるけれども、孤独で寂しいものとなっている。 また彼がいう不安と絶望は何が原因で発生するのかの追求が浅くしかなされておらず、そのためか彼の思想には曖昧な点が残るのである。
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