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ニーチェとキルケゴールについて

ニーチェは ルサンチマンとして 怨恨と疾しい良心を告発します。 キルケゴールは 絶望して非本来的自己であろうとする強さの絶望と 絶望して本来的自己から逃れようとする弱さの絶望を 分析しています。 私は怨恨と強さの絶望の対応関係と 疾しい良心と弱さの絶望の対応関係を認めますが 私の意見について皆さんはどう思いますか? 全く同じと言っては少し語弊があるかもしれませんが。

みんなの回答

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.2

ある(素晴らしい)本から、テレビドラマを作るとします。 韓国では、「本に忠実に作る」というのが基本のようです。 日本では、「本を()度外視しても作る」という傾向があるそうです。

  • cowstep
  • ベストアンサー率36% (756/2081)
回答No.1

解釈の自由の問題で、あなたが認めるのであれば、その理由を論文にまとめられたら如何でしょうか。 例えば、「AとBは諸悪の根源である」とニーチェが言い、「甲と乙は偽善である」とキエルケゴールが言ったと仮定すると、「Aは甲と、Bは乙との対応関係を認める」と言えば、図式的には対応していますが、それ以上の意味は見出せません。なぜなら、AとBが独立事象で、甲と乙が相関事象である場合は、「Aは甲と、Bは乙との対応関係を認める」と言うのはこじつけになるからです。

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  • カント好きの皆さまへ

    カント好きの皆さんは スピノザとニーチェについて どういった感想をお持ちですか? 私はスピノザ、ニーチェ好きですが カントについて入門書程度の知識を持っています。 そして、私はカント倫理学が好きではありません。 極めて厳格に人間を拘束しているように思います。 しかし スピノザ、ニーチェ好きの私は たまに他人の心を理解できなくなった時に カントに惹かれたりもします。 このジレンマが どうにも解消できない故に 未だにカントに対して未練がある部分もあります。 皆さまの率直なご意見をお聞かせください。 ちなみに キルケゴール、ハイデガーは嫌いです。 実存の三段階説並びに 本来的、非本来的な実存の在り方といった序列が 気に食わないからです。

  • それでもあなたは ニーチェ党か。

     ▲ (弱き者の自己欺瞞) ~~~~~~  ――しかしほんらいのテーマに戻ろう。《よい》のもう一つの起源の問題 ルサンチマンの人間が考え出した善の問題が解決を待っているのだ。――小羊が大きな猛禽に憤慨するのは 不思議なことではない。しかし小羊たちが猛禽にたいして 小さな羊をさらうことに文句をつける理由はないのだ。  そして小羊たちが《この猛禽は悪い。そして猛禽とかけ離れた者 猛禽の反対である者 すなわち小羊が――善い存在なのではあるまいか》と仲間うちで語っていたとしても このような理想のたてかたに非難すべきところはない。  ただし猛禽たちはこれをあざ笑うように眺めて おそらく《われらは小羊たちに憤慨するところはまったくない。あのよき小羊たちを 愛しているほどだ。やわらかな小羊ほどおいしいものはないのだ》と言っていることだろう。  ――強さにたいして それが強さとして現われないことを求めること 強さが他者を圧倒する意欲として 他者を打ち負かす意欲として 主人になろうとする意欲として現われないことを 敵と抵抗と勝利を望む渇望ではないことを求めるのは矛盾したことだ。  弱さにたいして それが強さとして現われることを求めるのと同じような矛盾なのだ。  ある量の力とは ある量の欲動 意欲 作用である――むしろ力とはこの欲動 意欲 作用そのものなのである。そう見えないことがありうるとすれば それはすべての作用が 作用する者によって すなわち《主体》によって生まれると考えさせ 誤解させる言葉の誘惑のためにすぎない(そしてその言葉のうちに化石のように固まった理性の根本的な誤謬のためにすぎない)。  たとえば民衆が雷をその雷光から分離して 雷光は雷という主体の行為であり 主体の作用であると考えるのと同じように 民衆の道徳もまた強さ〈そのもの〉と強さの〈現われ〉を分離して考える。あたかも強い者の背後にはもっと別の無頓着な〈基質〉のようなものが控えていて それが強さを現わすのも現わさないのも 自由に決めることができると考えるようなものである。  しかしこうした基質などは存在しないのだ。行為 作用 生成の背後には いかなる《存在》もない。《行為者》とは行為の背後に想像でつけ足したものにすぎない――行為がすべてなのである。  (『道徳の系譜学』 《第一論文 〈善と悪〉と〈良いと悪い〉》 十三 中山元訳 2009 pp.72-74 )  ~~~~~~~~~  ☆ ここで ニーチェは 次のように言っていますか?  ○ 拉致された小羊は 猛禽に文句をつける理由はない。  ○ 《行為者》なる人間というのは まぼろしの観念論であって 世界は《行為》のみから成る。拉致された弱い者が 拉致する強い者に何を言っても それは まぼろしのごとくでっち上げた《道徳》とそしてルサンチマンのなせるわざであるに過ぎない。  ☆ ご見解をどうぞ!  何ぞのレトリックでしょうか? 何かの逆説が隠されているのでしょうか? ・・・ 

  • それでもあなたは ニーチェ党か。

     ▲ (弱き者の自己欺瞞) ~~~~~~  ――しかしほんらいのテーマに戻ろう。《よい》のもう一つの起源の問題 ルサンチマンの人間が考え出した善の問題が解決を待っているのだ。――小羊が大きな猛禽に憤慨するのは 不思議なことではない。しかし小羊たちが猛禽にたいして 小さな羊をさらうことに文句をつける理由はないのだ。  そして小羊たちが《この猛禽は悪い。そして猛禽とかけ離れた者 猛禽の反対である者 すなわち小羊が――善い存在なのではあるまいか》と仲間うちで語っていたとしても このような理想のたてかたに非難すべきところはない。  ただし猛禽たちはこれをあざ笑うように眺めて おそらく《われらは小羊たちに憤慨するところはまったくない。あのよき小羊たちを 愛しているほどだ。やわらかな小羊ほどおいしいものはないのだ》と言っていることだろう。  ――強さにたいして それが強さとして現われないことを求めること 強さが他者を圧倒する意欲として 他者を打ち負かす意欲として 主人になろうとする意欲として現われないことを 敵と抵抗と勝利を望む渇望ではないことを求めるのは矛盾したことだ。  弱さにたいして それが強さとして現われることを求めるのと同じような矛盾なのだ。  ある量の力とは ある量の欲動 意欲 作用である――むしろ力とはこの欲動 意欲 作用そのものなのである。そう見えないことがありうるとすれば それはすべての作用が 作用する者によって すなわち《主体》によって生まれると考えさせ 誤解させる言葉の誘惑のためにすぎない(そしてその言葉のうちに化石のように固まった理性の根本的な誤謬のためにすぎない)。  たとえば民衆が雷をその雷光から分離して 雷光は雷という主体の行為であり 主体の作用であると考えるのと同じように 民衆の道徳もまた強さ〈そのもの〉と強さの〈現われ〉を分離して考える。あたかも強い者の背後にはもっと別の無頓着な〈基質〉のようなものが控えていて それが強さを現わすのも現わさないのも 自由に決めることができると考えるようなものである。  しかしこうした基質などは存在しないのだ。行為 作用 生成の背後には いかなる《存在》もない。《行為者》とは行為の背後に想像でつけ足したものにすぎない――行為がすべてなのである。  (『道徳の系譜学』 《第一論文 〈善と悪〉と〈良いと悪い〉》 十三 中山元訳 2009 pp.72-74 )  ~~~~~~~~~  ☆ ここで ニーチェは 次のように言っていますか?  (あ) 拉致された小羊は 猛禽に文句をつける理由はない。  (い) 《行為者》なる人間というのは まぼろしの観念論であって 世界は《行為》のみから成る。拉致された弱い者が 拉致する強い者に何を言っても それは まぼろしのごとくでっち上げた《道徳》とそしてルサンチマンのなせるわざであるに過ぎない。  ☆ ご見解をどうぞ!  何ぞのレトリックでしょうか? 何かの逆説が隠されているのでしょうか? ・・・ さもなければ キ印であるとしか考えられません。

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    ~~~~~~~~~~~~~~ 解説[編集] この言葉が公刊された著書に初めて出てくるのは『ツァラトゥストラはこう語った』第2部「自己超克」の章である [2]。 そこでニーチェは、「賢者」たちが全ての物事を思考可能なものにしようとする「真理への意志」の正体が、一切を精神に服従させようとする「力への意志」であると批判している[3]。すなわち、力への意志はルサンチマンと当初密接な関係があり、否定的なものとして記されていた。しかしやがてニーチェは力への意志を肯定的な概念としてとらえ直す。あえて積極的にニヒリズムを肯定し、ニヒリズムを克服することが力への意志となり得るのである。 力への意志 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%9B%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%84%8F%E5%BF%97 ~~~~~~~~~~~~~~~ ニーチェの話題をするとなぜか わけのわからない人が出てくるので話題にしたくないのですが、 真理への意志というか力への意志について 質問してみます。 力への意志をニーチェはツァラトゥストラを書いていた頃は批判していたのでしょうか? すると、ツァラトゥストラの思想は力への意志とは異なりますか? ところが、ニーチェは後で、力への意志を肯定するような考えになるのでしょうか? それはどうしてですか?